No.751147

花が香るのは

千華さん

夢を追い、夢に殉じた男、姜維の孤独な戦いを描く「遠志」シリーズ。
旧暦1月18日は、姜維の命日にあたります。大好きな彼を偲んで、以前、サイトで催した「姜維鎮魂祭」用に書き下ろした一編。
彼の人の生き様は、枯れてもなお、その残滓をさらし続ける梅花にも似て――。

2015-01-13 09:57:02 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:1165   閲覧ユーザー数:1157

 

[1]

 

 

魏の景元五年(264年)春一月。

蜀漢の都だった成都では、梅の花が満開だった。

城内のそこかしこに、紅白の可憐な花が乱れ咲き、馥郁とした香りを漂わせている。

 

 

かつて劉備が、諸葛亮が、天下統一の夢を掲げて降り立ち、その拠り所とした蜀の地。

かれらもまた、昔日、この地に咲き匂う梅の花を愛でただろうか。

やがて、劉備ら桃園の義兄弟たちは相次いで世を去り、大志を継いだ諸葛亮孔明も、途半ばで五丈原に帰らぬ人となった。

孔明の後を受けた蒋エン、費イは、一貫して専守防衛に徹し、先人の遺徳と天然の要害に守られてか、蜀は、それから三十年にわたってその命脈を保ち得たのである。

だが一方で、劉備が漢室復興の理想を掲げ、孔明が引き継いだ『蜀漢』は、常に曹魏と対極の位置にあることで、その存在理由があったともいえる。孔明亡き後、蜀は、次第にこの存在理由を失っていくことになるのだ。

そんな『蜀漢』の行く末を、誰よりも激しく、歯噛みするような思いで案じていたのは、姜維伯約だった。

 

――今の蜀は、魏に滅ぼされるのを待っているようなもの。このままでは、先帝の理想、亡き丞相の悲願が雲散霧消してしまう。崇高な建国の理念なくして、たとえ百年千年永らえようと、何の意味があろうか。

 

姜維は元々魏に仕える将だった。第一次北伐の際、動揺した上司に内通の疑いをかけられ、進退窮まって蜀に降ったのである。以来、常に孔明の傍らにあって、漢室再興の旗印を掲げて奮戦した。

蜀の人々が偽りの平穏に慣れ、厭戦の空気が国全体を覆い始めても、姜維は、孔明の遺志を受け継ぎ、ただ一人戦い続けた。

晩年のかれの魏に対する執拗な攻勢は、狂気とも見えるほどだ。まるで孔明の魂が乗り移ったとしか思えない。姜維が孔明とともに過ごしたのはわずか六年あまりにすぎないが、その間かれは、師の悲願、志を、痛いほどその身と魂に浴び続けたのだろう。

故郷を捨て、不孝不忠のそしりを受け、それでもかつての己の故国に攻め入り続けたかれの姿を、天上にある孔明の魂魄はどのような思いで見ていたのであろうか。

だが――。

男たちが夢を描き、姜維が守り抜こうとした蜀漢は、すでにこの世にはない。

昨年冬、魏の大軍に攻め込まれて成都が陥落すると、劉禅は早々と魏の将軍トウガイに降伏し、ここに蜀漢はあっけなく滅亡したのである。

剣閣の要害で魏の大軍を防ぎ、後一歩で撤退させるところまで善戦していた姜維も、劉禅から直々に武装解除の命を受けては、武器を捨て、敵将鐘会に降らざるを得なかった。

 

 

「国が滅んでも、花は咲くのですね」

今年十三になる娘の言葉に、香蓮は声を詰まらせた。

「蓮花……」

「お父さまやお母さまが懸命に支えてこられた蜀漢は、もうなくなってしまったのでしょう?」

「そうね。でも、お父上は、今も戦っていらっしゃるのよ。最後の最後まであきらめずに。蜀漢のため、天下のため、孔明さまの夢を叶えるために」

庭先に、見事な花を咲かせている白梅の老木を眺めながら、香蓮は娘に言い聞かせる。

今を盛りと咲き匂う無数の花たち。

甘やかな香りに、胸が詰まる――。

凛と咲き誇るその姿に、一人戦い続ける夫の孤高の姿を重ね合わせた妻は、思わず目頭を熱くした。

香蓮は、姜維が蜀に降ってから娶った妻である。二人の間には、二男三女の子があった。上の二人の娘は他家へ嫁し、長男姜孔もすでに一家を成して別棟に暮らしている。

今、母とともにいるのは、十六歳になる次男姜啓と末娘の蓮花の二人だけだった。

 

 

あれは何時のことであったか。

長らく前線に駐屯していた夫が、数ヶ月ぶりに成都に帰還してきた。生まれたばかりの末娘を連れて、郊外の梅林へ花見に出かけたことがある。

風の穏やかな、うららかな春の午後。

だが、すでに盛りを過ぎかけた梅は、半分赤茶けてしぼんでしまっていた。

「まあ、少し遅かったのですね」

十日ほど前までは満開でしたのに、と残念がる妻に、姜維は穏やかな笑顔を返した。

「香蓮。私は、この梅の花のようでありたいと思っている」

「確かに華やかさはないけれど、薫り高く、寒風の中で凛と咲く姿は、伯約さまらしいとわたくしも思いますわ」

――ああ、と頷いた夫の眸子は、不思議な情熱をたたえている。

「私のことをそんなふうに言ってくれるのは、そなただけだな。……だが、それだけではない」

「と申されますと?」

姜維はじっと妻の顔を見つめ、自嘲に似た笑みを浮かべた。

「梅の散り際は無様であろう」

「え?」

夫の言っている意味がわからない。

「花の盛りに見事に散ってしまう桜などとは違い、梅は花が朽ち果てるまで、枝にしがみついておる。その姿は、決して美しくも潔くもない。いつまでも醜い姿をさらしていると、嘲笑う者もいよう。だが、私は、最後の最後まであきらめたくはない。万にひとつの望みでもあれば、その可能性に賭けたいと思っている。たとえ無様だと笑われようとも、最期まで己の生き様に執着する、この梅花のようでありたいのだ」

香蓮の胸がしんとする。

いつの間にか、夫の髪に白いものが目立つようになったことに、改めて気づいた。

蜀に降ってより今日まで、夫は、ただひとつの道だけを信じて、ひたすらに歩いてきた。その生き様を、胸に秘めた熱い志を、妻である自分だけは、最後まで見守り続けたい。

 

――ああ。命尽きるその瞬間まで、この方の進むべき道はひとつしかないのだ。

 

枯れてもなお、その残滓をさらし続ける梅花のように。

たとえ人から何と言われようと。

決意に満ちたあの日の夫のまなざしを、香蓮は今も忘れることができない。

 

 

「父上が何を考えていらっしゃるのか、私にはさっぱり分かりません」

醒めた声に振り向くと、息子の姜啓が憮然とした顔で立っていた。

「人は皆、父上のことを悪し様に申しております。無駄な北伐を繰り返して何の益も上げられず、国家の財政を疲弊させた。国を統べる大将軍の地位にありながら、内政を顧みず、宦官をはびこらせて宮廷を腐敗させた。さらに、国家存亡の大事の折にのうのうと生き長らえ、あまつさえ敵国の将軍と好を通じて、己が保身のみを図っている――」

香蓮の顔色が変わった。

「おやめなさいっ! それ以上父上のことを悪く言うと、母が許しませんよ!」

「母上……」

「父上には、きっと何かお考えがあるのです。息子であるあなたが父上を信じてあげなくて、どうするのですか」

だが、息子の言い分にも理由がないわけではない。

剣閣で鐘会に降伏した姜維だったが、その後なぜか二人は意気投合し、今も行動をともにしていた。鐘会は、姜維を客将として遇するのみならず、成都への進軍に際しては、兵五万を与えて先鋒としたのである。

やがて成都に入った鐘会は、謀反の企てありとしてトウガイ父子を捕え、本国へ護送してしまった。

元々二人の仲は良くなかったし、成都攻略の手柄を立てたトウガイを、鐘会が苦々しく思っていたことも確かである。だが、その背後に、姜維の影を感じ取ることのできた人間が、どれだけいただろう。

訳もなく、胸が騒ぐ。

(なぜ夫は、おとなしく敵である鐘会のもとにいるのか?)

世間が噂するように、夫が保身のために鐘会に取り入っているとは、香蓮にはとても思えなかった。

きっと、何かある。

考えているはずだ。その胸の奥深く、何か、とてつもないことを。

 

――あの方は、決してあきらめたりしない。

孔明さまから託された夢を、途中で投げ出すようなことはしない。

枯れ果ててなお、己が生き様に執着する梅花のようでありたい、と言うあなたを、わたくしもまた、最後まで信じています――。

 

 

「蓮花。すまないけれど、表の梅の枝を少し手折ってきておくれ。そろそろ客間の花を替えなくては」

そう言って娘を外へ出した後、

「啓、これを見てごらんなさい」

香蓮は声音を改めると、懐から小さくたたんだ紙を取り出して、息子の手に渡した。

「これは、父上からの文ですか?」

「数日前に、董封どのが密かに届けてくれたものです」

董封は、かつて姜維の身辺を警護していた耳目である。今は陳涛の後を継いで、荊州耳目の頭領となっていた。

そこには、余計なことは一切記されておらず、ただ「自分に万一のことがあれば、すぐに子どもたちを連れて逃げよ。すべては董封に任せてあるゆえ、その指図に従うように」という意味のことが簡潔にしたためられていた。

文章の最後に、小さく「起死」と書かれているのを認めて、姜啓は顔色を変えた。

「これは……! 母上、父上は何をしようとなさっているのです?」

「わかりませぬ。董封どのも、はっきりと答えてはくださらなかった。ただ、心を静め、万一の場合に備えておくように、と」

夫が何を思い、どんな策をめぐらしているのかは分からない。

だが、文を手にしたときから、香蓮には、姜維が最後の賭けに打って出ようとしているにちがいないという確信があった。

企てが失敗すれば、自身の身は言うに及ばず、一族郎党の命もない。それほどの「起死回生」を賭けた大博打なのであろう。

目を上げると、啓の肩が小さくふるえている。

「啓。そなたも姜伯約の息子ならば、覚悟を決めておきなさい」

「母上――」

「父上はこう仰っていますが、母は、何があろうともここから逃げるつもりはありません。姜伯約の妻として、最期まで旦那さまとご一緒に参ります」

ごくり、と息子が唾を飲み込む。

「兄上は、このことをご存じなのですか?」

「孔には先日話しました。妻と娘を早く成都から逃がすようにと」

「あ! それで、義姉上は実家に戻られたのですね」

「他家に嫁いだ娘や孫にまでは、詮議の手も及びますまい。けれど、そなたたちは……」

そこまで言い、香蓮は絶句した。

(男子である孔や啓は、助かるまい。敵の手に捕らわれれば、おそらく死罪――)

 

 

董封から夫の文を受け取った香蓮は、取るものも取りあえず長男の姜孔を訪ねた。

文を一瞥するや、孔の顔色が変わった。彼もまた、すぐさま父の企図するところが分かったのである。

しばらく沈思していた孔は、やがて真剣なまなざしを上げてじっと母を見つめた。  

「私は、逃げませんよ、母上」

「孔?」

「姜伯約の血を引く男子となれば、たとえこの場は逃れても、どこまでも追っ手がかかるのは必定。それならばいっそ、潔く父上のお供をいたしましょう」

父によく似た横顔に、かすかな笑みが浮かぶ。

「ここで身の処し方を誤って、父上のお名前に傷がついては一大事です。私は、蜀漢の大将軍 姜伯約の息子として、立派に死にたいと存じます。母上も、すでに覚悟を決めておいでなのでしょう?」

覚悟。

(そう。覚悟はできている。何があっても、最後まで伯約さまの側を離れぬと。生も死も、あの方とともにと。伯約さまと結ばれたあの日から、わたくしの進むべき道も、またひとつ)

けれど――。

子どもたちまでを巻き添えにするのは、母として忍びなかった。

「母上。私は嫡男ですから、父上のお供をするのは当然としても、啓や蓮花は不憫ですね。できることなら、死なせたくない」

孔もまた、弟妹たちだけでも何とか助けられないかと考えていた。

「姜家の血を絶やしてしまっては、父上も悲しまれましょう。母上、何とか董封どのに、啓と蓮花だけでも無事に逃していただけるように頼んでくださいませんか」

「――そなたは、よいのですか? こんなところで、こんな形で終わっても……」

「言ったでしょう。私は、姜伯約の息子ですよ。何があっても、父上とともに参ります。できることなら、今すぐにでも父上の下に馳せ参じ、微力ながらお力になりたいところですが。それができぬのが残念です」

「孔……」

香蓮の中で、こらえていたものが堰を切ったようにあふれ出た。

 

[2]

 

 

香蓮は、自分の身が中空に浮かんでいることに気づいた。

不可思議ではあったが、怖くはない。

(これは、夢だわ)

夢ならば、この胸の願いが叶えばいいのに。

そう思ったとき、遠くから聞き覚えのある笛の音が聞こえてきた。

(あ……?)

突然、まぶしい光が差して、辺りの景色が一変する。そこは、成都郊外にある梅林だった。

暖かな陽だまりの中、無骨な梅が枝は、ほころび始めた白や薄紅のつぼみに彩られ、咲き初めた花が高貴な香りを漂わせている。

その中に佇み、一心に笛を奏している人影を目にした途端、香蓮の胸は懐かしさと愛しさに弾けた。

「伯約さま!」

香蓮の声に気づいたのか、手を止めて振り向いたその人は、香蓮に向かって静かに微笑んだ。文字通り夢に見た、懐かしい笑顔で。

「あなた――!」

言葉よりも、思いが、涙があふれる。

駆けても駆けても、一向に縮まらない距離がもどかしい。すぐそこに、手を伸ばせば届くところに、あなたがいるのに。

ようやくのこと。無我夢中で、香蓮は、夫姜維の胸に飛び込んだ。

「あなた……あなた……あなた」

たくましい腕に包み込まれ、抱きしめられ――。

身に馴染んだ男の匂いが、鼻腔いっぱいに広がる。

「香蓮。会いたかった」

心の芯に染みとおる声が、耳元でささやく。

 

――ああ。愛しいひと。

 

言葉もなく、ただ泣くことしかできない。そんな妻の髪を優しくなぜながら、姜維は強い力で香蓮を抱きしめる。

口を開こうとした香蓮を目で制した姜維は、

「お願いだ。しばらく、このまま……」

言うなり、むさぼるように唇を重ねてきた。そんな荒々しい夫の口づけを、香蓮も夢中で受け止めた。

どれほどの時間が過ぎただろう。

甘い抱擁に酔いしれていた香蓮の身体は、ふいに夫の胸から引き離された。

顔を上げると、姜維の澄んだまなざしが、真正面から自分を見つめている。その眸子の色に、別れの兆しを感じて、香蓮の胸は不安でいっぱいになる。

「あなた、行ってはいや」

「だめだよ、香蓮。もう時間がない」

「いやです。せっかくこうしてお会いできたのに」

姜維は、やれやれといった顔で苦笑した。

「もうすぐ董封が来る。さあ、早く起きなさい――」

 

――いや。目覚めたくない。夢でもいい。もう少し、伯約さまと一緒にいたい……。

 

幸せな夢は、そこで途切れた。

目を開くと、そこはいつもの一人の寝室だった。

いつの間にか、うたた寝をしてしまったらしい。

「あなた……」

寝台の上に横たわったまま、後から後からとめどなく涙があふれ出る。耳朶の底には、未だ夫の奏する笛の音色が残っていた。

理不尽に破られた夢の残影を、香蓮は、必死に繋ぎ止めようとしていた。

だが、あわただしい外の動きが、否応無しに香蓮の意識を現実へと引き戻した。

遠くで、軍馬のいななき、兵士たちのどよめく声が聞こえる。跳ね起きるようにして寝室の扉を開けると、宮殿の辺りの空が赤く染まっている。

(伯約さま! まさか……?)

夫が言うところの「万が一の時」が来たのだろうか。

あるいは夫が夢に現れたのは、虫の知らせだったのか、と香蓮は不吉な予感におののかずにはいられなかった。

 

 

この時、姜維の胸の奥深くに秘められた回天の奇策は、鐘会をそそのかして蜀独立のクーデターを起こさせることだった。主だった魏軍の将を鐘会の手で始末させた後、返す刀で鐘会を倒し、劉禅を復位させて蜀漢を再興する、というまさに起死回生の大博打だったのである。

元々、鐘会には、人の下風に立つことを良しとしない独立反骨の気概があった。そのため、司馬氏がすべての実権を握っている今の魏の朝廷では、彼のような人物は、いずれ身の置き所をなくすであろうことは誰の目にも明らかだった。

姜維は、そんな鐘会の不安と野心に火を付けたのだ。そして、その企ては、ほぼ成功したかに見えた。

成都に入った鐘会は、己の野望の赴くまま、まずはライバルであるトウガイを謀略によって陥れ、罪を被せて本国へ送り返した。次に彼は、自分が反乱を起こした際に敵に回ると思われる将軍たちを捕え、宮殿内の獄舎に監禁してしまった。

後は、劉禅から正式に蜀漢の政権移譲を受け、独立を宣言すればいい。

自分の王国建国という夢に酔いしれる鐘会を、姜維は醒めた眼で見つめていた。

(哀れなり、鐘会。ひとときの夢に酔うがいい)

事が成ってしまえば、鐘会を殺す機会はいくらでもある。

そのために、膝を屈して彼に取り入り、ここまでの信頼を得たのだ。すべては、胸にたたんだ起死回生の秘策のため。

だが、あと一歩、というところで、鐘会と姜維の企ては魏兵たちの知るところとなる。捕えられていた魏将の口から、「魏の将兵は、鐘会によって皆殺しにされる」という噂が流れたため、怒りに燃えた兵士たちが宮殿へと殺到したのだ。

時ならぬ太鼓の音を合図に、宮殿のあちこちに篝火が焚かれ、鬨の声が上がるのを聞いて、姜維は、己の策が破れたことを知った。

 

――我が計破れたり。これも天命か。

 

「姜将軍、どうすればよいのじゃ」

蒼白な顔で立ち尽くしていた鐘会が、すがるような視線で姜維に問いかける。

茫然と天を仰いでいた姜維は、その声ではっと我に返った。

宮殿の内も外も、すでに敵兵が固めているだろう。抵抗しようにも、宮殿内にいる鐘会配下の兵は、数えるほどしかいない。

「もはや、これまで。鐘会どの、覚悟を決めましょう」

凛然とした声で言い、姜維は凄みのある微笑を浮かべた。

それから四半刻もたたぬうちに、彼らのいる広間へと敵がなだれ込んできた。姜維、鐘会、さらに張翼も加わって奮戦したが、衆寡敵せず、三人は乱戦の中で斬り殺された。

 

 

宮殿内の異変を告げるかのように、不気味な血の色に染まった夜空。

我に返った香蓮は、大急ぎで子どもたちを呼び寄せた。

「お母さま、これは……? 戦でも始まったのですか?」

怯える娘を抱きしめ、「大丈夫、大丈夫」と繰り返しながら、香蓮は改めて気を引き締める。

混乱する使用人たちの動揺を抑え、声を枯らして指示を出しているところへ、董封が駆け込んできた。

「奥方さま! すぐにお逃げください。間もなく魏軍の兵がこの屋敷へ寄せて参ります」

息を切らせて告げる董封の顔は、汗と返り血にまみれていた。彼自身、死線をくぐり抜けてきたのであろう。

「董封どの、旦那さまは?」

「大将軍は、先刻宮殿内にて、鐘会とともに魏の将兵に討ち取られてござる」

 

――ああ、すでに……? 伯約さまっ!

 

香蓮の口から声にならない叫びがもれ、彼女はがくりと肩を落とした。

「母上! お気を確かに」

「お母さま!」

驚いて、子どもたちが駆け寄る。

「大丈夫よ、啓、蓮花。母さまは大丈夫だから、心配しないで」

香蓮は、子どもたちに、かねて用意していた旅装を手早く整えさせると、董封の前に連れて行き、深々と頭を下げた。

「董封どの。啓と蓮花、この子たち二人を連れて逃げてください」

「奥方さまはいかがなされます?」

いぶかしげに董封が問うた。姜維からは、「妻と子どもたち」を逃がしてやってほしい、と頼まれていた。むろん香蓮にも、その旨は伝えてある。

「私は、どこまでも旦那さまと一緒に参ります。孔も父上の供をすると言ってくれました。ですが、死ぬのは二人で十分。この子たちまで道連れにしては、それこそわたくしが旦那さまに叱られます」

思いがけない母の言葉に、次男の啓は、身を硬くしてその場に立ちすくんだ。

「啓。そなたは、一刻も早くここからお逃げなさい。董封どのとともに、蓮花をつれて逃げておくれ」

「母上! 何を言われるのですか」

「お母さまっ」

蓮花が悲鳴を上げて、母の膝にしがみつく。その娘の手を握りしめ、香蓮は諄々と言い聞かせた。

「蓮花、よく聞いて。母と大兄は、ここに残ります。でも、お前たちまで死ぬことはないわ。旦那さまも、お前たちには生きてほしいと思っておられるはず。そのために、こうしてわざわざ文を下さったのだもの」

「母上っ」

啓も、泣きながら母の前に跪く。その肩に手を置き、じっと息子の目を見つめながら、香蓮は言った。

「啓。そなたは何としても生き延びて――そして、父上がなさろうとしたことを、姜伯約の真の姿を、後世に伝えておくれ」

「母上……」

逆らうことを許さぬ、毅然とした声。母の覚悟は、決して翻るまい――。

「さあ、早くお行きなさい。もう、時間がありませぬ。ここから先は、全て董封どのの言われる通りにするのですよ」

いつ来たのか、母の後ろには、長男の孔が鎧を着込み、槍を手にして立っている。

「後のことは母上と私に任せろ。啓、蓮花を頼んだぞ」

「兄上……」

言葉もなく悄然と、唇を噛み締める弟に向って、兄は翳りのない笑顔を返した。

「董封どの、どうぞ啓と蓮花の二人を、無事に逃がしてやってくだされ。しばらくの間、私たちがここで追手を食い止めますゆえ、その間に」

「承知つかまつった。では、それがしはこれにて。若君、蓮花さま、参りますぞ」

董封にうながされ、半ば追い立てられるようにして、啓と蓮花はその場を後にした。振り返り、振り返り、目にいっぱいの涙をためて。

去って行く二人を見守る香蓮の目蓋にも、熱い涙がほとばしるのだった。

 

 

闇の中に、ひしひしと、兵たちの近づいてくる気配がする。

「家人たちは皆、屋敷を出ましたか」

「最後までここに残ると言いはってきかぬ者が、十人余りおりますが。後は皆、無事に逃げたようです」

香蓮の問いに、孔が答える。残ったのは、皆、姜維の代から仕える家人たちであった。

やがて、表門を見張っていた家人が駆け込んできた。

「若。敵が寄せて参りましたぞ」

「わかった。すぐに行く」

「孔。できるだけ時間を稼いでおくれ。少しでもあの子たちが遠くへ逃げられるように」

「お任せください、母上。姜家の戦を、魏兵どもに見せてやりましょう」

孔は父によく似た笑顔で答えると、身を翻して駆け出していった。

(屋敷を取り囲んでいる兵の数は、およそ百。我ら母子の捕縛が目的であろうから、最初から手荒なまねはすまい。孔が防いでいる間に、できるだけ多くの敵を引きつけて――)

孔と別れた香蓮は、一人館の奥へと歩を進めると、厳重に閉ざされた一室の扉を開いた。

そこは、夫姜維の書斎だった。

壁いっぱいに造り付けられた棚には、あふれんばかりの竹簡や図面などが堆く積まれている。

ここ数年、めったに成都には帰ってこない夫だったが、たまに館へ戻ってくると、必ずここに籠もって、孔明から譲り受けた竹簡やさまざまな書簡を眺めているのが常だった。

部屋に入り、燭台に灯りを灯すと、文机の前に頬杖をついて、竹簡に見入っている夫の姿が目に浮かぶ。今にも、そこから立ち上がってきそうだ。

(あなた――)

一緒に逝くことを許してくださいますわね、と独りごちながら、香蓮は、静かに燭台の火を床に倒した。

 

――花が見事に咲くのは、人にその美しさを愛でてもらうため。

けれど、花が香るのは、誰のためでもない、己が生きた証を残さんがため。

伯約さま。

あなたのそのまっすぐな志を、私たちは決して忘れません。

凛として咲き匂う梅花のごとき生き様を――。

 

館に放たれた炎は天を焦がし、成都の夜空を煌々と染め上げた。

 

 

その頃、混乱に紛れて成都から脱出した董封たち三人は、北へ向かう街道を急いでいた。

背後に、紅く染まった夜空が浮かび上がり、成都の異変を告げている。

馬を下りた姜啓と蓮花の兄妹は、南の空を眺めて、茫然と立ち尽くした。

「母上、兄上――」

噛み締めた唇が破れ、血が滲む。

蓮花は、そんな兄の胸にすがり、ただ泣きじゃくっている。

「啓兄さま、母さまと孔兄さまは……」

「泣かないで、蓮花。これからは、私がお前を守る。だから、今は逃げのびることだけを考えるんだ」

孤児となってしまった二人の兄妹を励ますように、董封が力強く声をかけた。

「お二人は、この董封めが命に代えてお守りいたします。何としても無事にお逃がし申し上げると、伯約さまに約束いたしましたゆえ」

父よりも幾分年長に見える、かつての荊州耳目の頭領の顔を、啓は改めてじっと見つめ返した。

「董封どのは、父を、昔から知っておられたのですか?」

「今のあなたさまくらいの時から存じておりますよ。もっとも当時は、伯約さまは儂のことなど、気づいてもおられなかったでしょうが」

「父のことを――」

聞かせてくれませんか、と董封に言った啓は、自分でも恥ずかしくなるほど頬を紅潮させていた。

「私は今まで、父のことを少しも分かっていませんでした。いや、分かろうともしなかった。いつも戦ばかりで、めったに家に帰ってこない父を、私は自分でも気づかぬうちに、胸の内から遠ざけていたのかもしれません。時折母が聞かせてくれる父の話も、ただ疎ましいだけだった。ですが――」

と啓は、勢い込んで言葉を続ける。

「今初めて、本当に父のことを知りたくなりました。最後まであきらめずに戦い抜いた父の思い、真意を掴み取ることが、残された私に課せられた使命だと思うのです」

まだどこか幼さの残る表情は、真剣そのものだった。

「董封どの。ぜひ、あなたの知っている父の姿を、私に教えていただけないでしょうか」

「よろしいですよ」

きらきらと輝く啓の眸子が、若き日の姜維にそっくりなことに気づき、董封は胸の内で微笑した。

「道々の寝物語に、お聞かせいたしましょう。伯約さまのことなら、どれほど語っても語り尽くせませぬから。ですが今は、この地を離れることが先決でござる。一刻も早く漢中へ入りませぬと」

董封は、かつて姜維が潜伏していた浮屠の村を目指していた。騒ぎが収まるまで、そこで身を隠すつもりだった。

「街道はすぐに手配がまわるでしょうから、馬はここで捨てることにいたします。ここからは間道伝いの山越えですぞ。蓮花どのは、儂が背負いましょう」

「かたじけない、董封どの」

三人は再び歩き出す。

罪人の汚名を着せられ、生まれた土地を捨てて。この先、逃亡の旅路にどんな苦難が待ち受けているか、それは誰にも分からない。

だが、険しい杣道をたどる姜啓の足取りは、軽かった。

 

 

――知りたい。父が、何を思い、どのように生きたのか。

自分の知らない父の姿を。姜維伯約という男の生き様を。

最後まで夢を追い続け、夢もろともに滅び去ったその生涯の真実を。

 

――父上。今はまだ、私には何も分かりません。

ですが、いつかきっと、あなたの思いに近づいてみせます。

姜伯約の息子として、恥ずかしくない生き様を全うしたその時こそ、

父上の意志を我が物とすることができると信じて。

 

◆◇◆◇

 

当時の記録によると、姜維伯約の妻子は、成都の乱に際して、皆捕らえられ処刑されたという。

だが、姜維が最後に打った起死回生の奇策とその真意を、後の世に伝えた者が誰だったのかということは、どこにも記されていない。

 

 

 

 

 

 
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