No.748880

真・恋姫無双 季流√ 第48話 呉勢編 猛け立つ想い~後編~

雨傘さん

呉編の第三話です。ようやくここまできた。
雪蓮の覚醒です。
サイトはhttp://amagasa.red/ です。よければ見に来てください。

2015-01-04 20:48:43 投稿 / 全14ページ    総閲覧数:8920   閲覧ユーザー数:6392

 

 

「周瑜様、あの……」

 

「なんだ? 早く報告しろ」

 

「ほ、捕虜の数が……ついに我が軍の人数を超えました」

 

兵の唖然とした報告に、冥琳は悔しげに地を睨んで鋭い舌打ちをした。

 

__やられた。

 

兵数の完全な読み間違い。

 

明命の偵察隊がこちらの分隊にいないとはいえ、明らかに自分の油断が招いた危機だいうことを、冥琳は自覚せざるを得なかった。

 

格下の劉表を攻め、正体不明の部隊など、と高をくくっていた心情がどこかにあったのだ。

 

状況を楽観視してしまった。

 

__ここは……戦場であったのに!

 

もうすでに糧食の消費量は2倍となっている。

 

いや、そんなことはこの際どうでもいい。

 

敵の兵力が冥琳の予想地である3万を超えた辺りから、死神がゆっくりと鎌を首へ突きつける。

 

そんなヌルリとした”敗北”という名の悪寒が、冥琳の首筋を撫でていた。

 

もはや敵の兵力は我が軍を超えているのは確実。

 

いや、ここまでくれば冥琳にも、敵が何を狙っているのかがはっきりと理解出来た。

 

敵の狙いは糧食切れなどではなかった。

 

それは囮……本当の狙いは、味方を敵陣内部で膨れ上がらせ、”隠していない伏兵”として用いるという事。

 

味方の陣の中に、敵の一団が平然と佇むという異様。

 

内と外からの、実質的な2正面作戦だ。

 

ただ冥琳は、この捕虜達を解放するという手段を選べなかった。

 

__開放した途端に、それが合図となる。

 

その敵の意図がヒシヒシと感じられた。

 

しかしこのまま捕虜を繋ぎ続ければ、それはそれで相手は攻め込んでくる。

 

敵の指揮官が誰なのかは、未だ判明していない。

 

時間が無い、追い詰められている。

 

だが…………

 

「誰かは知らないが、ただでこの私がやられると思うなよ」

 

状況を打破する策は無い。

 

だが冥琳とて、呉に周瑜ありと呼ばれ恐れられる人物だ。

 

冥琳は兵へ思春を呼び寄せるように頼むと、空を見上げた。

 

晴天の空なのだが、遠くの山の陰に、わずかな希望が見える。

 

冥琳は薄く笑うと、すぐさま指揮を下すために歩き出した。

 

__雪蓮、必ず貴方を天下人へ押し上げてみせる。

 

そのためにも、こんなところで躓かせる訳にはいかない。

 

 

決意が冥琳の瞳に満ちていた。

 

 

 

 

「太史慈隊長! 廬江へ向けた部隊数が、5万へ達しました!

 あの連中、まだ気づいていないみたいで、まだ我々の味方を暢気に捕らえていますよ。

 どうしますか? そろそろ決めますか?」

 

視察の兵が、森の中に隠れ潜む太史慈の軍へ報告に来た。

 

太史慈と呼ばれた女性は、俯いたまま岩に座っており、報告を聞き終わると、ゆっくりと面をあげる。

 

燃えるような赤髪を長髪にして、顔立ちもこざっぱりとしていた。

 

その目も髪に負けず劣らずの見事な発色の赤なのだが、しかしその瞳は”死んで”いた。

 

だらしなく口を半開きにしており、明るい赤とは思えぬほどのやつれた瞳をしている。

 

そして彼女が羽織る藍染めの陣羽織、それが彼女の心情を表しているかのように、哀愁漂う暗い暗い藍であった。

 

服装も相まっているのか、一見すれば人生に絶望した美形の男性に見えるかもしれない。

 

半目で兵士の報告を聞いた太史慈は下がれと、手振りで指示を下す。

 

太史慈はまた俯くと、周りの兵士達が静かに控える中で、独り言のように呟いた。

 

実際、誰に話しかけているのかもわからないので、本当に独り言なのだろう。

 

ひどく気力の篭らない、生気の欠片も感じない声が陣内に漏れる。

 

「……ぁああ、憂鬱だぁ」

 

第一声からして、場の空気が5倍位重くなるのが兵達にはわかった。

 

しかし誰も反応を返さず、じっとしている。

 

それに気が付いているのかいないのかはわからないが、太史慈は聞く誰もの心が暗くなるような声色で続けた。

 

「どうしてこっちの策がぁ上手くいっちゃうんだよぅ。

 周瑜さん、もっと頑張ってくれよなぁ」

 

寿命間近の老人だって、もうちょっとマシな声を出せるだろう。

 

齢20才程度にして、この人生に諦観した声をどうして出せるのかが、いっそ不思議だった。

 

「孫策の兵は5万かぁ、ああ、どうしてこうなってしまうんだぁ。

 劉繇様は死んじゃうしぃ、私は無職になっちゃうしぃ……もう憂鬱だぁ」

 

恨み事を述べて、太史慈は疲れを多分に含んだ空気をふーっと漏らした。

 

暗い影が、さらに闇までしょっているかのような、この女性の名は太史慈子義、真名を花蓼(はなたで)。

 

赤髪に赤目という活発な風体でありながら、ありったけの陰気を周囲に振りまく女性であった。

 

彼女の愛用の武器である黒いトンファーが、傍に野晒しに転がっているのにも哀愁がある。

 

これだけぞんざいに、己の獲物を放り投げている武人も大陸にそうはいまい。

 

転がる黒いトンファーをいじけたようにつま先で小突く花蓼だが、やがてそれにも飽きたのか、この世が終るのではないかという程の勢いで俯いてしまった。

 

辺りの兵士達は特に彼女を刺激するわけでもなく、ただ屹立と立ち尽くしていた。

 

ここで下手な行動を取ると、後が恐いからである。

 

どれぐらいそうしていただろうか?

 

実際は心臓が30拍も動いた程度しか立っていないのに、一刻位待たされたような疲労感が襲ってくる。

 

やがて顔を上げた花蓼に、兵達は改めて姿勢を正した。

 

「あぁー……じゃあ予定通りにぃ、そろそろ事を運ぶことにするからぁ。

 君達はぁちゃんとわかってるぅ?」

 

「はっ! 我々は孫策に捕らえられている仲間を順次解放! 敵を混乱させ、その最中に孫家の首を狙いま……」

 

敬礼して声を発する兵に、花蓼は嫌そうに眉を潜めた。

 

答える兵も、その無気力な視線を受けると、言葉を止めてしまう。

 

 

「君ぃ、これからはもう少し静かに頼むよぅ……憂鬱になるからぁ」

 

「は、はい。

 申し訳ありませんでした」

 

本当に死んでしまいそうに翳った表情をした花蓼は、がっくりと肩を落として兵達を引き連れるのであった。

 

 

 

 

「廬江を捨てる?」

 

雪蓮の疑いの篭った瞳を受けた冥琳は、ああ、と頷いた。

 

「我々の今の兵力では、もう捕虜を捕らえ続けることも、飯を食わせる事も出来ない。

 共倒れになる前にこいつらを置いていき、蓮鳴様の本隊へ合流する」

 

「……出来るの? そんな簡単に言ってくれるけど」

 

苦笑する雪蓮に、冥琳は静かに頷く。

 

しっかりとして力強かった。

 

「今夜、空が荒れる。

 その状態で長江に出るのは至難の技だが、こちらには思春がいる。

 一度船で出てしまえば、追ってはこれまい。

 奴等は我等の後背に河を背負わせているつもりだろうが、逆にいえばそれが唯一の逃げ道になる。

 この空模様ならば相手も油断しているだろう、その代わりこちらもぎりぎりとなってしまい、荷も満足に積めないだろうがな」

 

「今夜って……そんな直ぐに船は出れないでしょ?」

 

「……黙っていて悪かったが、密かに出航の準備は進めていた」

 

思春が裏で何かコソコソと動いているのは知っていたが、まさかそんな事をしていたとは……

 

どうして自分に相談してくれなかったのかと責める視線に、冥琳がわずかに俯くが、仕方ないわねぇと表情を崩して笑った雪蓮は、ため息を混ぜて了承した。

 

「いいわ。

 確かに現状で敵に攻められたら、ひとたまりもないのは確かだしね。

 ……でも、今回だけよ? 私に隠し事するの。

 私達は人から断金なんて呼ばれてるんだから」

 

雪蓮の悪戯な笑みに、思わず冥琳の心が高ぶる。

 

「っ、ああ、そうだな。 本当にすまなかった」

 

頭を下げる冥琳に、雪蓮は抱きついた。

 

「ほ~ら、冥琳が反省なんて珍しいけど、しめっぽい話は終わりにしましょ?

 私達が先頭で指揮しないと、士気が上がらないんだから」

 

雪蓮が冥琳の手を握って歩きだす。

 

友の温もりを手に感じながら、冥琳も歩きだした。

 

 

 

 

雨が降る。

 

瞬き1つをする間に、肌にはその何十倍もの雫が打ち付けていた。

 

矢のような、体を打ち抜く刺激。

 

豪雨と呼んでも差し支えない、強烈な大雨だった。

 

その中で、何も雨を防がずに、ただ空を見上げる女性がいた。

 

その女性は、遠くから聞こえた多数の物音に気づき、顔を降ろす。

 

視線を降ろして見れば、何かに座っているであろう赤い人が見えた。

 

いつの間に現れたのかはわからないが、しかと前に居た。

 

「あーあぁ……最後の最後で、天に見放されたぁ……憂鬱だぁ」

 

蒼い陣羽織を肩にかけた赤い女性が、死にそうな声を発した。

 

対峙する雨の中で佇んでいた黒髪の女性は、周りに多くの人の気配がある事に、もう気づいていた。

 

__囲まれた、か。

 

承知していたとはいえ、実際は恐ろしい。

 

頼りになる半身が傍にいない。

 

ただそれだけで、こうまで体の芯から冷えきってしまうものかと、自分の弱さが身に染みる。

 

落ち着くために一息を吐き出した、大雨に打たれる黒髪の女性。

 

ずぶ濡れになり、もはや自慢の黒髪も、視界を邪魔するだけのものとなった。

 

冥琳である。

 

冥琳は獲物である白虎九尾を構えると、目の前にいる赤い女性へと向ける。

 

9つに枝分かれしている鞭は、殺傷力を上げるため先端に金属が付けられていた。

 

しかし、どうみても”戦う者”ではない。

 

はっきり言って、甘いと言わざるをえない冥琳の構えに、蒼い陣羽織を羽織る女性は心底疲れた息を吐いた。

 

この豪雨の中、視界の自由はほとんどないと言っていい。

 

「はぁぁ……”不惜身命”かぁ、孫策さんを逃がすためにぃ、自ら囮になるなんてぇ……断金というのは、本当だったんだねぇ」

 

全てに疲れきって、さらに絶望したかのような、沈みきった声。

 

生気のかけらも感じない、亡者の誘う声。

 

背筋が凍る恐ろしさを誤魔化すために、冥琳は鞭を振るって威嚇した。

 

空気を切る鋭い音が、雨が降りしきる空へと吸い込まれる。

 

バチン、バチン。

 

聴力がわずかでもある生物ならば、当然のように身構えてしまう原始的な威嚇音。

 

しかし蒼い陣羽織を羽織る女性は、沈んだ瞳をぴくりとも揺らさず、地面へ視線を向けていた。

 

冥琳は威嚇しながら、その赤髪の女性に問いかける。

 

「名は?」

 

「太史慈、子義……劉繇様の配下であったものだよぉ」

 

__劉繇、だと。

 

なるほど、と冥琳は納得した。

 

明晰な頭脳が、この戦の裏にあったことを導き出す。

 

この赤髪の女性……太史慈が、劉繇の仇討ちのために、雪蓮達を狙っているという事を。

 

実際、雪蓮が廬江の劉繇を攻めた指揮を執っていた。

 

しかし……

 

「太史慈とやら。

 劉繇の死に、孫策は関係ない」

 

「……知ってるよぉ。

 劉繇様は、ご自分の体の弱さで死んじゃったんだぁ。

 あれはぁ悲しかったなぁ」

 

グニャリと猫が屈むように、深く深く俯いた太史慈。

 

__なんだ? こいつは。

 

周りを囲む敵兵の代表者はこの女性だ、間違いない。

 

しかしどうみても、無気力の塊に見える。

 

恐れるに足りない。

 

そう理性が懸命に訴えているのに、怯える感情が制御出来なかった。

 

威嚇する腕を、止めることが出来ないのだ。

 

冥琳とて孫呉を代表する将である。

 

知に傾倒していようとも、周家の人間は文武両道を掲げていた。

 

そんじょそこらの兵にやられる事はないという自信はある。

 

雪蓮を逃がすために内地で囮になった後、上手く逃げ切ってみせるという気概もあった。

 

なのに、その自信を根こそぎ奪われるような無常な感覚。

 

「私は知ってるんだよぉ。

 でも、納得がどうしても出来ないんだぁ。

 君達が攻めてこなかったらぁ、劉繇様はもぅう少し、長生き出来たんじゃないかなぁって思うんだよねぇ」

 

雨の中に紛れる油汗が止まらない。

 

冥琳は徐々に重くなる大気に鼓動を高鳴らせながら、鞭を懸命に振るっていた。

 

「でもねぇ、恨んでるのとは違うんだぁ。

 私はぁ、ただ理由が欲しいだけなのかもしれない。

 劉繇様が死んだ、それが心の臓の発作では、私はあまりに悲しい。

 復讐というよりはぁ、ただ君達にあっさりと敗れてしまったぁ、劉繇様の無念をぉ、すこぅしだけ晴らしたいだけなんだぁ」

 

地を這う声に、寒気が止まらない。

 

ここまできたら、もう冥琳は認めざるを得なかった。

 

この太史慈は、自分より遥かに強い、その理由もわかってきた。

 

がたがたと震えだす歯を無理やり止めるために、唇を思いっきり噛む。

 

「周瑜さん。

 貴方に恨みは無いけれどぉ、私はなんとか一矢報いたいんだぁ。

 断金の貴方を人質にとればぁ、孫策さんも素直に出てきてくれるでしょお?」

 

__こいつは、雪蓮と同じだ……しかも目覚めている。

 

気づいてしまった。

 

こいつは盟友と同じ血が流れているのだと。

 

雪蓮を逃がせて良かった。

 

この恐怖で身が凍る中で、自身の人生を振り返っても最高の機転に、思わず褒めたたえたくなる。

 

雪蓮と太史慈が戦えば、負けるとは思わずとも、ただでは終らない。

 

太史慈は危険だ。

 

下手をすれば、雪蓮の血が完全に目覚めてしまう。

 

しかも……この全てを掻き消すかのような大雨。

 

後1つ揃っていたら、まさに最悪だ。

 

しかも、その後一つでさえ、いつでも揃ってしまうような状況なのだ。

 

冥琳は屈託なく笑う雪蓮の姿を思い出しながらも、改めて太史慈という女性を睨んだ。

 

太史慈は自分がなんとしても止めてみせる、刺し違っても。

 

「今ぁ、周瑜さん……私と刺し違っても、とかって思ってるでしょぅ?」

 

「だったら、どうしたというのだ?」

 

強気を張る冥琳に、太史慈の声質が変わった。

 

「…………私をぉ、あまり舐めるなよ」

 

太史慈はバサリと蒼い羽織を剥ぐと、裏返してから羽織った。

 

蒼い陣羽織の裏地は、流血を連想させる紅。

 

文字通り、全身までもが真赤になった太史慈が立ち、頭がユラリと上がる。

 

この視界の効かない大雨の中、赤く光る瞳が冥琳の体を貫いた。

 

息が出来ない。

 

心臓を鷲づかみにした、いや、咬み千切られたと錯覚してしまう。

 

「ははっ! 私はさ、ちょっと変な体質でね。

 この紅いの外套が無かったら、まともに力が入らないんだ。

 気力の操作がどうにも下手くそみたいでね」

 

急に精気を取り戻した太史慈の年相応の声。

 

気合が彼女の体に張り巡らされ、獰猛な笑みが裂ける。

 

さきほどの彼女とはまるで別人な太史慈の態度に、冥琳は覚悟を決めた。

 

「”狂犬”……太史慈子義、いかせてもらうよ?」

 

そう伝えると、太史慈に握られるトンファーがギュルギュルと唸りだし、目にも留まらぬ回転が雨を弾き飛ばす。

 

四足獣のように低く構える太史慈に、冥琳は鞭を握りなおした。

 

 

__くる!

 

 

 

 

冥琳はボロボロだった。

 

幾度も鉄棒に打ち据えられた体はもう満身創痍で、服も千切れている。

 

荒く息をする視線の先では、太史慈がヒュンヒュンとトンファーを回していた。

 

「はぁっ、はっ! はっ」

 

冥琳の過度な呼吸音が響く。

 

太史慈は獰猛な瞳のまま、感心した声であった。

 

「……凄いね。

 いくら生け捕りのため加減してるとはいえ、この状態の私の攻撃をこれだけ受けて、まだ立っていられるなんて」

 

「はっ! 伊達に、その血と付き合いが長いわけではないさ」

 

冥琳の不敵な言葉に、太史慈はああ、と返した。

 

「そういえば、孫家は私の同類なんだっけ?

 孫策さんと断金を結んだ貴方なら、獣の血と付き合いが長いって訳だ。

 それは随分と苦労したでしょう?」

 

「ふっ……苦労、か」

 

思い起こされるのは戦場での記憶。

 

燃え尽きてしまいそうな雪蓮を焦がす熱を鎮めるために、幾度体を重ねただろうか。

 

何度も傷つけられた。

 

激しい痛みに涙ぐんだこともある。

 

しかし鎮み終れば、涙して必死に謝る雪蓮の姿に、冥琳は自身の魂の充足を感じていた。

 

腕の中で泣く、力を入れれば折れていましそうな彼女には、自分が必要なのだと。

 

そう感じられる時が、何よりもの幸せだったのだ。

 

「苦労などと思ったことは、一度もないさ」

 

「へぇ」

 

ヒュンヒュンとトンファーが唸る中、冥琳は笑う。

 

「雪蓮のためなら、私の体なんていくら傷つけられようが構わない。

 卑怯者と罵られても、愚か者と蔑まれても、どのような汚名でも喜んで被ろう。

 孫呉の天下を実現するためならば、我が才の全てを賭す。

 それが……」

 

__伯符……私がいなくなっても、必ず天下人になってちょうだい。

 

冥琳は白虎九尾を振りかぶると、太史慈へと突っ込んだ。

 

捨て身としか思えぬ特攻に、太史慈は身構えた。

 

「私の……周瑜公謹のただ1つの願いなのだ!」

 

決死の冥琳の叫びが、大雨の中に吸い込まれる。

 

振り下ろされる鞭。

 

それを唸るトンファーが迎え撃つ。

 

無情にもトンファーの強烈な回転に弾かれた鞭は、太史慈の体を逸れた。

 

迫る太史慈の牙に、冥琳はまぶたを閉じずに、そのまま駆け込んだ。

 

「っ?!」

 

予想以上に深く突っ込まれたので太史慈が身構えるが、その上で冥琳はさらに予想を上回った。

 

自ら武器を手放し、太史慈の背に回りこむようにして抱きついたのだ。

 

武器を手放したことによる行動は、太史慈の隙をついた見事な動きだった。

 

背中から両手を回し、絞め上げるようにする冥琳が必死な声を上げた。

 

「今だ! やれ!」

 

冥琳の叫びに呼応して、物陰や泥に塗れた兵士が立ち上がる。

 

泥の中に埋もれ隠れていた冥琳の兵達が、冥琳が抑える太史慈へと切りかかった。

 

数にしては数十人であろう矮小な人数ではあったが、よくぞこれだけの距離で隠れていたものだ。

 

この大雨を利用したのだ。

 

辺りの太史慈の兵達が助けようと動くが、もう遅い。

 

 

太史慈は自身へと迫る数多の凶刃を見つめると、深く、深く裂けるように笑った。

 

「……ぅぅ、ぅるぅるるうぅうううううう……~~~~~~~~~~~!!!!!」

 

 

 

 

「~~~~~~~!!!!! っと、やり過ぎては駄目だ」

 

疲れたように息を吐いた太史慈は、もはや流血といっても差し支えないほどの血に塗れていた。

 

大地を見れば、多くの兵達が何も言わずに倒れ伏し、その状態を主張するかのように血液だけが流れていた。

 

雨水と赤血球が溶け合い、辺りを死海のように赤く染め上げていく。

 

その血池と呼べるような真ん中に、太史慈は一人で立っていた。

 

疲れたと首を捻る太史慈は、自分が吹っ飛ばした周瑜へと視線を移した。

 

そこには吹き飛ばした時に痛めたのか、腹を片手で押さえて、顔だけをこちらへと向けている周瑜がいた。

 

気を失ってはいないようだが、これではもう動けまい。

 

だが、相手が相手であるのだから、しっかりと意識を失わせないことには、用心深い太史慈は安心が出来なかった。

 

ひゅーひゅーっと、漏れるような空気が口からこぼれ、冥琳の掠れた視界には、太史慈の紅の塊のような真赤な陣羽織だけが辛うじて像として結んでいた。

 

もう幾ばくかで、太史慈によって自分は倒される。

 

太史慈を打ち倒せなかったのは残念だが、とりあえず雪蓮を逃がすことは出来た。

 

蓮鳴様とさえ合流すれば、太史慈くらいなんとかなる……その確信が冥琳の心にゆっくりと浸透するように広がった。

 

後を任すと、孫呉の者達の姿を一人ずつ思い浮かべながら、冥琳は目を閉じた。

 

孫呉の明るい未来を願いながら……

 

ぬかるんだ泥を踏む音が近づき、覚悟を決めると、場にそぐわない音が響いた。

 

駆けつけたかのような走りで、泥を踏み荒らし、規則正しく聞こえる雨音を乱していた。

 

ガキィンという不快な音が耳の傍で聞こえる。

 

金属と金属が打ち合う、強烈な金きり音。

 

冥琳は虚ろな瞳を開けると、そこにはよく見知った顔があった。

 

明るい桃色の髪、凛々しい目鼻。

 

憧れて、求めて、大好きで……命よりも大切な人。

 

「……ったく、なんか様子がおかしいから、戻ってきて正解だったわね。

 この雨のせいで、探すの苦労したわよ」

 

「っはは、それは……またいつもの勘か? ……雪蓮」

 

「冥琳の匂いなら、どこにいてもわかるわよ。

 あとね~、後でたっぷりと怒らせて貰うわ。

 勝手にいなくなったりして……貴方の体も、血も、魂も孫呉にとって欠かせない……いいえ、これは言い訳臭いわね」

 

太史慈を睨みながら笑う雪蓮は、一度言葉を区切った。

 

大切な言葉だから。

 

「貴方は私にとって何よりも必要な人なのよ。

 だから……私の許可なくいなくなるだなんて、許しはしないわ」

 

不敵に笑う雪蓮につられ、冥琳の疲れた表情にも笑顔が戻る。

 

__ああ、ただ雪蓮が近くにいるだけで、どうして私はこうも安らげるのだろうか。

 

太史慈から受ける寒気が抜けていく。

 

半身を得た冥琳に、恐いものなど何もないのだ。

 

雪蓮は冥琳を下がらせると、太史慈へと向き直った。

 

距離を取り直した太史慈に、雪蓮はかつてないほど怒っていた。

 

身を焼き切るような激情が体を巡る。

 

「あんた、よくも私の冥琳を傷つけてくれたわね?」

 

もはや笑みなのかがわからぬ雪蓮に、太史慈の態度は実に礼儀正しかった。

 

「私は太史慈子義と申します。

 はじめましてですね、孫策伯符。

 ……劉繇様の無念、ここで晴らさせて貰います」

 

「劉繇? ああ、なるほどね。

 だから廬江土着の豪族が、やたら非協力だったんだ」

 

「個人的に恨みは御座いません。

 八つ当たりだと罵られても構いません。

 どのような誹謗中傷も甘んじて受けましょう。

 ただ……ここは黙って私と戦って頂きたい」

 

「いいわね~、わかりやすくて。 嫌いじゃないわ」

 

「いいのですか? 貴方が連れてきた甘寧さん達と一緒になれば、私くらい楽に倒せますよ?」

 

いつの間にか、周囲には人が増えていた。

 

戦いに気を持っていかれていた冥琳が、改めて気配を探る。

 

その中には見慣れた顔ぶれも多くおり、太史慈の軍と睨みあっていた。

 

「いいのよ。

 貴方が私と同類なのは、一目見てわかったわ。

 なら私が適任ってもんじゃない?

 それで、貴方は何の血なのかしら?」

 

「……私は狂犬と呼ばれていました」

 

「へぇ~、犬かぁ。

 残念だけど、私は”わからない”のよ、ごめんなさいね?」

 

ニコニコと笑う雪蓮。

 

傍らで見守る蓮華達は、雪蓮の心情を察していた。

 

雪蓮と冥琳の関係は呉でも特別なものだ。

 

2人が組めば、まさに最強と恐れられた理想的な組み合わせ。

 

しかし、故に片割れとなると、どうしてか片割れの欠点が際立つ気がしていた。

 

光と影が一対であるように、2人はお互いがいてこそ最強になれるのだ。

 

その半身を傷つけられた雪蓮の心情は、察するに余りある。

 

両軍が緊張する中、雪蓮はむしろ晴れやかな声をあげた。

 

「孫呉の勇士達よ!

 こいつらを我等の凶牙で打ち破れ!

 蓮華! 指揮は貴方に任せたわよ!」

 

「わ、わかりました姉様! いくわよ思春! 皆!」

 

「ハッ! 甘寧隊、突撃せよ!」

 

戦場の緊張が一気に弾けた。

 

動き始めた戦場の躍動は止まらない。

 

両軍が間近で睨みあったまま突撃を始めた。

 

策も何もない、ただ目の前の敵を倒す。

 

その単純で簡明な意思に、戦場はいくつもの命の炎を散らさせるのだ。

 

両軍がぶつかる混乱ともいうべき中で、雪蓮は太史慈と睨みあっていた。

 

動物は、自分の敵わない存在を、それを意識的にも無意識でも本能で避ける。

 

高まり続ける2人の異常な気迫に、誰もが間に入る事を躊躇った。

 

2人を中心にして開かれた丸い空間は、まさに決闘場。

 

猛禽の如く鋭く睨みあう2人は、自らの獲物を構えて、お互いに獰猛な笑みを大いに奮っていた。

 

「太史慈だっけ?

 駄犬がとち狂ったくらいで、私に勝てると思わないでよ」

 

「その言葉、丸々返させてもらいましょう。

 自分の力がわからない貴方など、半人前もいいところだ」

 

「半人前ねぇ……言ってくれるじゃない」

 

愉快そうに笑う雪蓮に、太史慈は静かにトンファーを構えた。

 

「いきますよ?

 全力で…………貴方を、咬み殺させてもらいます」

 

「出来るかしらね? 貴方程度の牙で」

 

戦場に狂気が満ち始める。

 

それに呼応するかのように、太史慈の様子が変わった。

 

瞳が大きく見開かれ、低い唸り声が漏れる。

 

「ぅぅうううぅぅぅわぅううう!」

 

__本当に、まるで犬ね。

 

雪蓮はそう思った。

 

 

「ぅうウウウ! ~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!」

 

狂犬の咆哮が木霊した。

 

 

 

 

「ッチィ!?」

 

__言うだけあって、やるじゃない!

 

雪蓮は太史慈の猛攻を捌き続けていた。

 

もはや攻撃回数で言えば、冥琳と戦ったときの比ではない。

 

雪蓮の握る南海覇王から、火花が生まれては飛び散っていく。

 

太史慈の持つトンファーの回転を弾くたびに、握る腕を痺れさせる衝撃があった。

 

一度一度の攻撃は決して重くはない。

 

しかしその目にも止まらぬトンファーの回転、繰り出される乱打ともいえる猛打の手数。

 

それは剣を一本しか持たない雪蓮にとって、実に防ぎにくいものであった。

 

トンファーの硬い先端が、雪蓮の頬を打ち据える。

 

「っ! 雪蓮!」

 

防戦になる雪蓮に、冥琳の叫びがあがる。

 

穏に支えられ、ふらつく足をどうにか持ちこたえさせながら、冥琳はこの状況を変える術はないかと模索した。

 

__状況が最悪過ぎる! まるでお膳立てされたみたいではないか! 

 

滝のような大雨、ここが戦場という場所、そして相手が太史慈という同類。

 

あまりの条件の悪さに、雪蓮という半身を得た心がまた大きくグラついた。

 

先ほどまで立つ事すら厳しかった冥琳は、穏から離れて飛び出すように手を伸ばして叫んだ。

 

「思春! 雪蓮に加勢して!」

 

「止めなさい思春! 入ってきたら許さないわよ!」

 

冥琳が叫び終わるのとほぼ同時に、雪蓮の怒声が遮る。

 

2人の尋常ではない剣幕にどうすればいいのか、思春は動けなかった。

 

「雪蓮っ! これは不味い! 危険なんだ! わかってくれ!」

 

「そんなことわかってるわよ、クゥッ!

 いよいよ腕が痺れてきたわ~」

 

雪蓮の余裕ぶった言葉に、冥琳は余計危機感を募らせた。

 

みるみると顔が青褪めていく。

 

「頼む雪蓮! 聞き分けてくれ!」

 

「……まだ大丈夫よ、冥琳」

 

「~~~~~っ!!!! ……これで、話をする余裕があるなんて、まったくもって驚きですね」

 

獣の叫びを止め、太史慈の瞳に理性が戻る。

 

その様子を見て、雪蓮は心の中で舌打ちした。

 

__っち、私と違って、制御が出来るくちか。

 

暴走するだけの者であれば、過度に大きく動かして体力切れを狙う方法もあるのだが……

 

「私の体力切れを狙っているのなら、まるで無意味とはいいませんが、厳しいでしょうとしか言いようがないですね。

 その前に貴方の体を必ずグチャグチャにしますよ」

 

「ずいぶんと陰険な攻め方よね~。

 何度も殴ってくれちゃって……ホント手が痛いわ、奥歯も折れてるし、許さないわよ」

 

軽口で誤魔化す雪蓮に、太史慈が睨む。

 

「……いい加減、本気を出したらどうなんですか?」

 

ヒュンヒュンと風を切るトンファーに、紅い陣羽織。

 

燃えるような赤髪に、決意の炎が灯った赤い瞳。

 

雪蓮は南海覇王を握る手の平が痺れ、ジワリジワリと熱が込み上げてくる。

 

「いやねぇ、私は戦いで手を抜くほど野暮じゃないわ」

 

「ならば何故、獣の血を使わない?

 貴方はわかっているはずだ、そのままでは私に勝てないと」

 

渦巻く殺気が、ざぁざぁと容赦なく降る雨に紛れ込む。

 

ビリビリと肌を焦がすような濃密な死の気配に、雪蓮は不敵に笑った。

 

「貴方を直に斬らないと、私の気が済まないのよ」

 

はぁ、と呆れただけのため息をこぼす太史慈。

 

ユラリユラリと揺すれ、ぐにゃりと脱力した太史慈は、雪蓮を次で仕留めることを決めた。

 

「次で最後ですよ?

 それでも貴方が力を使わないのなら、所詮貴方はそれまでの人だ」

 

「いいわよ…………来なさい!」

 

雪蓮が南海覇王を振り上げる。

 

 

低く、なお低く構えた太史慈は大地を駆けるのだった。

 

 

 

「ん? ……雨、か」

 

孫堅こと蓮鳴は空を見上げて、目に入った雨粒を指で払った。

 

長江の雄大な河を猛烈な速度で下る呉軍の本隊は、思春がいないので隊列が崩れ、遅れた者は置いていくといわんばかりであった。

 

最も速度が早く、淀みなく進むのは呉軍の大将を擁した戦闘艇であった。

 

部隊でも腕利きの操舵手が操る船は、次々と速度を上げて突き進む。

 

前には、不吉が重なり合うような曇天が広がるが、進まずにはいられなかった。

 

一つ飛び抜けるように、蓮鳴達を乗せた船は走る。

 

ぽつりぽつりと、船首に立つ蓮鳴の頬に小雨が当たった。

 

天候の不穏な気配に、蓮鳴は天を睨む。

 

「ったく、このくそ忙しい時に……ついてないね」

 

嫌な予感が走る。

 

長江の大きな川幅、その目一杯に異質な雰囲気が溜まりだしたかのようだ。

 

収縮するような不穏な気配に、蓮鳴は注意を周囲へと張った。

 

この先、一時的に長江の川幅が狭くなる。

 

雨が勢いつけば、自分達はいいとしても後続は速度を落とさなければならないだろう。

 

「雨だねぇ……長江の雄大な流れに落ちる雫もまた美しい……と言いたいところだが、どうやらこの雨はそういう類のものではなさそうだ」

 

劉表こと静海が、そっと蓮鳴の隣へと立った。

 

船首で佇む2人を、亞莎達は後方で見守る。

 

船が進むにつれ、雨足は強くなり……あっという間に視界を覆う大雨となってしまった。

 

まるで天が赤子のように、泣き喚く様であった。

 

夕立よりもさらに過激な雨が、2人の体を打つ。

 

「さぁ蓮鳴君。

 いい加減、私の問いに答えてくれてもいいだろう?

 何故君は、あのまま雪蓮君を戦場に出ることを許す?

 君が稽古をつけるなり、戦場から遠ざけるなり、手段なら何通りもあるだろうに」

 

静海の言葉は平然と感じられる問い方であったが、端はしに責める心情が見え隠れしていた。

 

同じ血で苦しんだ者同士、その気持ちが痛いほどにわかるからだ。

 

しかし蓮鳴とて、なにも好きで雪蓮を戦場に立たせているわけではないのだ。

 

「……それがあいつの意思だ」

 

「意思、ねぇ……それにしたってもうちょっとやり方というものがあろう。

 どうして鍛えてやらない?」

 

獣の血は、いわば人体の限界を破る法である。

 

理性の箍を外し、身体能力の限界までを酷使して、その強靭ともいえる力を成すのだ。

 

しかし獣の血に飲み込まれないで、自力で意識の帰還を果たせる法もあった。

 

それが自己暗示と、長い時の末に手に入れる精神力である。

 

太史慈が理性を取り戻せるのは、自己暗示によるものだった。

 

普段、死にかけのような彼女は、蒼い陣羽織を羽織る。

 

そして紅いの陣羽織に着替えた時に、彼女は己の無意識に脅迫するように働きかけるのだ。

 

”自分は自分を操れる”と。

 

通常時の己の気力を犠牲にして、彼女の自己暗示はより強くなり、獣の血を制御するに事足りるようになった。

 

しかし、雪蓮にはそれが無かった。

 

蓮鳴とともに、何度も自己暗示をかける訓練を重ねたが、幾度試そうが上手くいかない。

 

そのことを知っているのは、呉軍でも非常に限られた者だけだった。

 

孫堅こと蓮鳴と、本人である雪蓮、蓮鳴と付き合いの長い祭に、親友の冥琳だけである。

 

蓮華や小蓮ですら知らない、彼女達の秘密であった。

 

「鍛えたさ……鍛えたが、雪蓮は獣の血を制御することが出来なかった」

 

蓮鳴の言葉に、なるほどと静海は頷く。

 

「才という資質が足りない、か。

 辛いねえ、親の君としては胸が張り裂けるようだろうよ」

 

静海の同情に、蓮鳴は首を振った。

 

確かに、この血に関わる者であれば、雪蓮の症状を嘆くだろう。

 

どれほど努力しようが制御できないのは、もはや本人の資質としかいいようがないからだ。

 

だけれど蓮鳴は首を振った。

 

否定するだけの意味があると確信していたのだ。

 

「静海。

 雪蓮は私よりもよっぽど才がある」

 

搾り出すような蓮鳴の言葉に、静海は黙って聞くことにした。

 

「正直、雪蓮は私なんかよりもよっぽど強い。

 まだまだ負ける気はないとはいえ、ガチンコでやりあえば、雪蓮は私よりもはるかに強いだろうさ」

 

蓮鳴はそう言いながらも、ひどく悔しそうな声だった。

 

「雪蓮は武才、そして精神力、共に私などをすでに超えている。

 だけれど、雪蓮はどうしても暴走してしまうんだ。

 だからあいつは、長時間の戦闘ができない」

 

彼女は何を言いたいのだろうか?

 

その真意を図るべく、静海が軽快な頭を回すが、大雨が耳を打って気が散ってしまう。

 

隣に立つ蓮鳴の姿を捉えるのでさえ、苦労してしまいそうなほどな大雨だった。

 

 

「……虎の子は、虎ではなかったのさ」

 

 

 

 

雪蓮はもう限界だった。

 

別に太史慈の攻撃に参っているのではない。

 

いや、勿論太史慈の痛烈な連打に対しても必死ではあったが、外から攻められる太史慈の猛撃と同じくらい、内側から滲み出る衝動を抑えるのに心を割いていた。

 

”最悪”と冥琳が称した、この状況に耐えることが苦しくなっていたのだ。

 

心が乾き、狂いだしそうだ。

 

けたたましく鳴り止まない大雨。

 

ここが戦場という事実と、太史慈という己の命を脅かす敵。

 

そして……溢れ満ちる血臭。

 

この本能を穿つ強烈な刺激が、雪蓮の理性を荒々しく削りとっていた。

 

「……、ぅ」

 

無意識に震えだす体が気に入らない。

 

雪蓮は己の中に芽生える破壊衝動に耐えながら、獣の咆哮を上げる太史慈の猛攻を防いでいた。

 

ギャリンギャリンと、間断なく鳴り続ける裂音。

 

時折殴られ、意識が弾け飛びそうになる。

 

「雪蓮!」

 

冥琳の叫び声が聞こえる。

 

泣きそうな声で、普段の彼女からは考えられもしない。

 

線を越えることはいつでも出来る、今までだって戦場でそうしてきた。

 

燃えるように熱い体をいつも慰めてくれる盟友には、悔恨と感謝とを繰り返してきた。

 

自分の姿を見て、恐れ慄く味方をさえ……知っている。

 

それでも自分は笑えた、大切な人が側にいてくれるから。

 

しかし、今の状況は幾度か線を越えた経験をした雪蓮をも、恐れさせるものであった。

 

彼女は気づいていた……自分が未だこの疼く血に、全てを任せた事がないという事に。

 

何もかもを破壊しかねない己の性を、戦場では必死に抑えていた。

 

それが出来たのは、仲間の存在だった。

 

自分を頼り、支えてくれるという仲間の存在が、彼女がこの世に理性を繋ぎとめる最後の”一線”なのだ。

 

今までは戦場において、その一線を越えずに戦っていた。

 

戦いが終れば、”不完全”燃焼の体を鎮めるために、大切な人を傷つけるしかなかった。

 

それを知り、その身に傷を負うて尚、冥琳は受け入れてくれた。

 

それ以来、自分はこの一線だけは越えないという事を、誓ってきた。

 

「~~~~~~~~~~~~~!!!!!!」

 

太史慈の咆哮が五月蝿い。

 

心中で盛大な舌打ちをしながら、雪蓮はどうにか相手の隙をつけないかと時を伺っていた。

 

「っし!」

 

大振りな太史慈の隙をついて、南海覇王を突きのように放った。

 

迫る切っ先に、太史慈はグンと横へ向いてかわす。

 

その赤い身を追うように雪蓮がそのまま横薙ぎに刃を振るうが、グイッと信じられないほどに背を逸らした彼女はくの字のように折れ曲がる。

 

そのまま太史慈は反り続け、腕のトンファーを回し強かに雪蓮の足を打った。

 

ズキンと駆け抜ける痛みの奔流が、雪蓮の端整な顔を歪める。

 

雪蓮は大きく刃を振り払うと太史慈は足を上げ、綺麗に倒立するように腕で立ち上がり、後ろへと距離をとる為に腕を伸ばして跳ねた。

 

しなやかに地面に降り立った彼女は、犬のように両手足を大地へとつけ、ぬかるむ大地のせいで下がっていく体の勢いを止めた。

 

紅の陣羽織に赤い髪、その中で揺れる赤い瞳。

 

三重の赤が、雪蓮を襲う。

 

再び太史慈が放つ猛火が、この大雨の中でも轟々とおどろおどろしい唸りを上げた。

 

大雨を蒸発させてしまいそうなほどの熾烈な攻撃が、雪蓮を襲う。

 

赤い猛火のような陣羽織の影に、飲まれては這い、飲まれては這い出てくる雪蓮の姿に誰もが緊張していた。

 

食い入るような視線が、2人の戦いに注がれていた。

 

いたるところで固唾が胃へと飲み下され、ここが戦場であるかを忘れてしまったかのよう。

 

現れるたびに傷つく孫策の姿に、この戦いはそう長くはないと感じる場。

 

傍観者の一人である冥琳は心中の葛藤に苦しんでいた。

 

__どうする? どうする? このままでは、しかし……この状況……もし雪蓮がいったら還ってこれるのか?

 

以前、一度だけ雪蓮が最終の線を越えた事がある。

 

あの時は、蓮鳴に祭、そして自分という三人がかりでやっと還ってきたのだ。

 

あれ以来、もうただの一度も……

 

「……ぁ、くう!」

 

苦しそうな雪蓮の声があがる。

 

きっと、自分と雪蓮は同じところで迷っているのだろう。

 

そのもどかしさが冥琳には、手に取るように感じられた。

 

__っち……情け無い、情け無いぞ周瑜公謹! お前はそれでも……

 

それでも……

 

雪蓮の半身でいるつもりか!!!

 

「雪蓮! 私が止める!」

 

息さえ忍び、2人以外誰も音を立てることが許されなかった戦場に、不意に叫び声が乱入した。

 

はっと気づいたかのように、蓮華や思春が声の出所へと視線を移す。

 

冥琳が……穏に支えられたはずの冥琳が、ふらふらとした足をつきながらも立って、揺ぎない瞳で、炎に包まれそうな雪蓮へ己の決意を伝えたのだ。

 

「私が! 必ず連れ戻してみせる!

 だから……だから、安心しろ!」

 

この言葉に、雪蓮の擦り切れかけていた理性は飛び上がった。

 

一瞬、ほんの一瞬であったが、冥琳と目が合う。

 

戦いの最中に視線を外すという愚を犯しながらも、雪蓮は冥琳の信頼を受け取った。

 

太史慈は強い。

 

このまま戦っても、勝てる可能性はわずかしかないだろう。

 

だけど雪蓮は恐かった。

 

太史慈に勝てる……その方法を取ってしまうことで引き起こされるであろう事態に。

 

だけれどこの時の雪蓮の心は、冥琳の言葉によってわずかに勇気づけられた。

 

頼れる人がいる。

 

この事が、雪蓮の理性を自ら掻き切った。

 

ドクンと心臓が跳ね上がる。

 

親友を信じる、ただそれだけの事。

 

安心した理性が放棄され、荒ぶる感情が体を支配した。

 

様子の変わった雪蓮に、太史慈が察して勢いよく退く。

 

距離をとったのに、その距離が瞬く間に省略されてしまうかのような迫力に、狂犬である太史慈でさえ万全に身構えた。

 

それは、何か本能による警告だったのかもしれない。

 

「ぁ、ぅ……」

 

雪蓮から呻いたような声が漏れた。

 

徐々に膨れ上がる雪蓮の戦気に当てられた太史慈は、突如背中を駆けた悪寒に身震いした。

 

何故だ?

 

太史慈が見下ろすと、腕が震えている。

 

それが恐怖から来ているという事に気づいたとき、太史慈は前へと駆け出した。

 

駆け出すしかなかったのだ。

 

一気に肉薄する太史慈の攻撃、その両方のトンファーから放たれる連打は相変わらず凄まじかった。

 

渾身の力を込めた太史慈の熾烈な猛攻。

 

それがガキンという、至極簡明で、潔いほどの単音で終ってしまった。

 

太史慈が見開く目をさらに開くと、そこには孫策伯符の瞳がある。

 

その瞳は濁りきっており、黒ずんで、どこに焦点があっているのかさえわからなかった。

 

二条のトンファーを止めた南海覇王が振りあがる。

 

動けなくなる体に驚きながら、太史慈はこの恐怖の根幹を悟った。

 

捕食される。

 

狂犬の本能がそう感じたのだ。

 

そこからの雪蓮の攻勢は、なんと例えようかと周りの者達は思った。

 

力任せに振り下ろす南海覇王を、ただ受け止める事しかできない太史慈は、一撃一撃のとんでもない重みを耐えながら、地に片膝をついていた。

 

十字に交差したトンファーを、そのまま轢き潰すかのような雪蓮の攻撃に、もはや太史慈は守勢に回る他なかった。

 

もはや金属の音とは思えない、ドギャンドギャンという、太鼓を打ち鳴らすかのような音が響く。

 

南海覇王を振り上げて、そのまま振り下ろす。

 

この単純な動作の繰り返しに、太史慈はどうしようもなくなってしまった。

 

__な、なんだ?! これはなんだ!

 

同じ血を継いでいるとは到底思えない。

 

血が発露した時のふり幅が大きすぎる。

 

「………………………………」

 

孫策は黒く濁った瞳で、黙り、何も言わない。

 

しかし本人の静けさとは別に、一撃の重さが泰山の如く。

 

もはや暴虐と呼んでも大差ない、必殺の振り下ろし。

 

ただの南海覇王の上下運動が、それほどまでに壮絶だった。

 

その様を望む蓮華達も、姉のかけ離れ過ぎた姿に、ここが戦場であることを忘れ呆然と立ち尽くし、そして眺めていた。

 

 

__これが、孫策伯符の本当の姿。

 

 

 

 

 

 

「雪蓮は私よりも強い、それは事実だ」

 

同じように、大雨の中で開口する孫堅こと蓮鳴。

 

泣いているような空を睨みながら、辺りを包む異様な大気の歪みを感じ取った。

 

冴え渡るはずの勘が濁され、混濁していくような感覚。

 

何が起こるかがわからない。

 

ただ少なくとも、吉兆ではないことだけは確信できた。

 

「雪蓮の獣の血は、ある特定の条件で制御が効かなくなる、環境依存型だ」

 

「環境依存? それは興味深いね」

 

片目を上げた静海は蓮鳴を見るが、彼女は暗い空を睨んだままだ。

 

「戦場という、剥き出しの闘争本能を刺激する高揚感、天が泣くような鼓膜を破るほどの音を鳴らす大雨、そして…………」

 

 

「溢れんばかりの血臭」

 

 

ここで蓮鳴は一度言葉を区切ると、静海へと向き直った。

 

そこには呉王ではなく、江東の虎でもなく、苦渋に歪む母の顔があった。

 

「虎の子は、虎ではなかった……」

 

戦場に娘を立たせて喜ぶ親などいまい。

 

ましてや、雪蓮の力を知っているのであれば、なおさらだ。

 

確かに雪蓮が戦場に加われば、それだけ孫呉の力へと直結する。

 

士気、そして戦力ともに、比較にならぬほどの力が彼女にはあった。

 

でも、それは自身の寿命を磨り減らす諸刃の剣。

 

戦場に立たせれば立たせるほどに、爆発しそうな娘の姿に、何度止めようと思ったことか。

 

 

「雪蓮は…………”鮫”なんだ」

 

 

 

 

「…………………………」

 

もはや戦場の有様は、一変したといっていい。

 

攻守が入れ替わった太史慈は、汗なのか雨なのかわからぬ雫を瞳にひたしても、わずかに拭う暇すらなかった。

 

振り下ろされる、ただ一本のはずの剣。

 

なのに大地に片膝をつき、大槌のようなとんでもない衝撃に耐える事しか出来なかった。

 

太史慈の攻撃が攻撃回数に特化しているというならば、この雪蓮の攻撃は怒涛の一撃必殺だった。

 

一撃必殺が、一度動き出したら相手を仕留めきるまで止まらない。

 

太史慈は自分の血をこれでもかと滾らせるが、それでも耐えるので精一杯だった。

 

腕を痺れさせるなどというのではなく、持っていかれそうな感覚。

 

まるで神経を穿たれ、肉を削りとられているようだった。

 

もはやトンファーを、自分が握れているのか? 腕から伝わる神経からはそれすらわからない。

 

十字に交差したままでいるはずだが、ほんの手先の距離なのに何も感じられない。

 

ただ重い、重過ぎる衝撃が自分の全身を虐めているのだけがわかった。

 

__喰い破られる。

 

やがて来る終末を予感させる。

 

掠れる視界では、孫策の間断無い振り下ろしが断行され続けていた。

 

だが……

 

「ッグ! フッ!」

 

白濁とする意識の中、太史慈は確かに見た。

 

この瞬間だけ、彼女に視線を向けられた己の幸運をかみ締める。

 

黙していた孫策の口が、血を吐き出したのだ。

 

今まで自分が重ねてきた攻撃は、決して無駄ではなかった。

 

表には出ていなくとも、体の内部には効いていたのだ。

 

わずかにブレた剣筋に、最後の勝機を賭ける。

 

横転した太史慈は、震える膝を、壊れても構わないと激情で叱咤すると、最後の構えに入る。

 

体勢を低くし、唸り声を上げた。

 

この時、いくつかのことが平行に起きていた。

 

体勢を整える太史慈に対して、孫策の動きがおかしいのだ。

 

ギギギっと油の切れた人形のような、歪な動作を繰り返している。

 

__目標を見失った? この至近距離で?

 

傍目に眺める思春達が、そう思うのは仕方がない。

 

雪蓮の様子は、辺りをキョロキョロと見渡し、何か獲物を探しているかのようであった。

 

その虚ろな視線を向けられた兵士が、恐怖からか腰を抜かした。

 

雪蓮の視線をまともに受けた兵は、瞬く間に抵抗する力を失っていく……敵味方を問わずにだ。

 

どうしてこのような状況に陥っているのかはわからないが、太史慈は最大の好機を生かすために駆けた。

 

もはやどこを向いているかもわからない、そんな孫策の背中から肉薄する太史慈は、両手のトンファーを突きだした。

 

ッゾ。

 

背中を見せているはずなのに、孫策の首がこちらを向いた。

 

横顔から覗く孫策の流し目のような片目、その生命を感じさせない瞳に、太史慈は振り絞る咆哮をもって応えた。

 

「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!」

 

「……………………………………………………」

 

全く対照的な二人。

 

しかし結果は双方にとって無残であった。

 

雪蓮が振り返った際に、太史慈の胴を薙ぐような強撃を雪蓮は放った。

 

それを太史慈は左腕のトンファーで受けとめる。

 

そのトンファーと太史慈の左腕は、ほぼ同時に悲鳴を上げた。

 

一条では衝撃に耐えきれなかったトンファーが折れ曲がり、太史慈の左腕がそのままへし折れる。

 

しかし太史慈も左腕を構うことはなく、そのまま渾身の右腕を突き出した。

 

ボキリという音が伝わり、雪蓮の脇腹を打ち砕く。

 

雪蓮はふっとばされ、太史慈はその場に倒れ込んだ。

 

__相打った……か。

 

自分は動けないが、確かな手応えはあった。

 

もう死んでもいいかな、と思いながら太史慈は目を瞑る。

 

呉であれば、部下の兵達にそう悪いこともすまい。

 

こんなわがままな自分に、ついてきてくれた皆には申し訳がないが、全てが終れば降伏するようにと決めてある。

 

顔に降りかかる雨に気持ちよさを感じながら、太史慈は誰かが自分を触っているのに気づいた。

 

もう意識が飛びかけている中で、太史慈が震える視線を上げると、部下の兵達がいた。

 

「太史慈隊長! しっかりしてください!」

 

懸命に声をかけてくれる兵に、少しだけ頷いて応える。

 

「隊長! 俺達の無念、晴らしてくれてありがとうございました!」

 

自分を囲う兵達が、泣き叫びながら礼を叫ぶ。

 

この大雨の中でもはっきりと聞こえる声。

 

静海から借り受けた荊州兵達ではない……自分を古くから慕ってくれた兵達だ。

 

__ああ、聞こえますか? 劉繇様。

 

戦では負ける……だが勝負には勝ったと思えた。

 

__花蓼達は、一矢……報いましたよ。

 

もう左腕の激痛など、どうだっていい。

 

このわずかで、輝ける達成感が太史慈には幸せだった。

 

ざっ

 

しかし、終ったと考えられたのは、一方だけだった。

 

この幸福感が胸を占める中で、不快な音を太史慈の常人を超える鼓膜は捉えてしまった。

 

不吉な気配が近寄ってきており、その危機感が太史慈の中で膨れ上がった。

 

間違いない、と確信する。

 

孫策だ。

 

__あれで、仕留めきれないなんて……

 

「お、前達は……早く、逃げろ」

 

太史慈はもう動けない、彼女の体はとうに限界を超えていた。

 

まともに動ける体の部位はなく、ようやく動けそうなのは首だけだった。

 

頭の重さをいつもの倍以上に感じながら、やっとのことで見下ろす。

 

__なんだ? さっきから何をしている?

 

孫策の様子がおかしい、何故辺りを見渡しているのだ?

 

「そ、そんさ、く?」

 

途切れ途切れに漏らす言葉にも、孫策は反応しない。

 

いや、反応だけはしているというべきか……辺りを舐めるように見渡し、声を多方向から受け止めているようにみえる。

 

暗闇に体を沈ませ、手探りに手がかりを探しているようだ。

 

「そこを動くな! 太史慈!」

 

その声は、孫策の背後からかかった。

 

緊張が張り巡らされた表情で、周瑜が叫んでいる。

 

「こうなった雪蓮には、もう誰の言葉も届かない! 何人たりとも動くんじゃないぞ!」

 

何故、敵である自分にまで警告するのかはわからなかったが、周瑜の表情からして嘘ではないと思った。

 

周りを囲む兵達も察したのか、誰もピクリとも動かない彫刻になる。

 

奇妙なまでに張り詰めた、緊張感。

 

滝のような雨の音だけが、ざあざあと鼓膜に響く。

 

カシャン。

 

「っ」

 

一人の兵が剣を滑り落とした。

 

それはただの偶然であり、この雨の中ではいつ起きてもおかしくは無い。

 

そしてうろつく雪蓮の視線に止まった、哀れな兵となってしまった。

 

無機質な瞳を向けられ、すぐさま恐怖に駆られた兵士は、根こそぎ気力を奪われる。

 

「……ぁ……っひ」

 

ろくな悲鳴さえ上げることが出来ずに、その兵は膝を屈した。

 

肺の空気を根こそぎ奪われたかのような、呼吸困難。

 

一度雪蓮の獲物として認められれば、命は無い。

 

雪蓮は進む、よくわからずに。

 

「………………………………」

 

腰を抜かした兵は動けない、周りにいる兵達も微動だに出来なかった。

 

哀れな兵は顔を真っ青にして、孫策の歩みを否定しようと首を振る。

 

「ぅ……あ」

 

後三歩。

 

その様を、少し離れた場所から睨む太史慈は、孫策の気を引くためにあえて吠えた。

 

「~~~~~~!!!! っがは! げはっゴホ!」

 

わずか一拍程度の叫びに、体がこれ以上無いほどの悲鳴を上げる。

 

折られた左腕からは強烈な痛覚の反応が還り、まるで神経の一本一本が嘶いているようだった。

 

しかし太史慈の行動は功を奏した、孫策がこちらを向いている。

 

周りで自分を支え起こす兵達を右腕で払うと、ゆっくりと上体を起こした。

 

ガクガクと震えが止まらないが、ようやく前のめりに手をつく。

 

目の前には、孫策が迫っている。

 

「…………………………」

 

かくして黙り、何も言わない孫策の意識が果たしてどこに向いているのかはわからないが、太史慈は雨で泥と化した大地へ頭を押しつけた。

 

頭を下げ続ける太史慈は、これで自分は殺されると思っていた。

 

これだけの事をして、許されるべくもない。

 

太史慈としては、本当に自分の命はどうなろうが構わなかった。

 

だがせめて、巻き込んでしまった兵達だけは救わねばならない。

 

しかし、孫策からの反応と呼べるようなものはない。

 

 

一歩一歩探るように進む孫策に、太史慈は泥土塗れの顔で、その不確かな足どりを見ていた。

 

 

 

 

__ここは、どこ? 寒い……

 

真っ暗だ。

 

黒に黒を重ね塗りした世界で、私は膝を抱えて蹲っている。

 

とても寒いわ、凍えてしまいそう。

 

私は……真赤な……そう、たしか太史慈と戦って……

 

そうだ。

 

冥琳の声が聞こえて、心が暖かくなって。

 

気づけば、ここにいた。

 

ここには一度、来たことがある。

 

肌を斬りつけるように寒いこの暗闇の中で、一人震えていた……気がする。

 

カシャン    カシャン    カシャン   カシャン

 

何の音?

 

何か金属が落ちた音かしら?

 

何か重い……そう、剣のような耳慣れた落下音。

 

四方から乱反射するように響いて、どこだかわからないけれど、何か音がした。

 

「~~~~~~~~!!!! っがは! げはっゴホ!」

 

煩いわ。

 

体の芯から揺らされて、手先まで麻痺してしまいそう。

 

誰か叫んでいるの?

 

とにかく体が痛いわ、それに痺れている……あの声のせいなの?

 

何もわからない、わからないのよ。

 

こうやって私は座っているけれど、本当に座っているの?

 

ふわりとした浮遊感が気持ち悪いわ。

 

ただ漠然と痛みだけが伝わってくる……

 

苦しい。

 

冷たい。

 

誰か……助けて……

 

「っれん!」

 

痛いわ、煩すぎ。

 

誰なのよ?

 

私を助けてくれるの?

 

「雪蓮!」

 

煩くて、体が痛い……心なしか頭をきつく締め付けるような痛みもある。

 

これではまるで痛風だ。

 

止めさせなきゃ……

 

止めて、止めさせなきゃ。

 

だって苦しいもの。

 

「っ雪蓮!」

 

あれ?

 

しぇれん…………私の真名だ。

 

誰が私の本当の名前を呼んでいるの?

 

あれ? 急に暖かい、なんでだろう。

 

冷えきって、氷の塊みたいだったのに……日向で寝転がるような、じんわりとした温かい波が、体を包んでいる。

 

暖かい。

 

ズブッ

 

今度は何の音?

 

ずいぶん生々しい音ね、人を斬ったってこんな音はしないわ。

 

懐かしい味。

 

「っ雪蓮!!!」

 

なんで貴方は苦しそうなの?

 

貴方は、誰?

 

 

「私達の元に帰ってこい! 雪蓮!!!」

 

 

 

 

意識の覚醒、いや、復活は突然だった。

 

ざぁざぁと雨が降りしきる中で、自分は片腕を上げているのがわかる。

 

口にはヌルリとしたものが溢れ、体は誰かに抱きすくめられていた。

 

「めい、りん?」

 

注意深く見てみれば、自分を抱きかかえているのは親友の冥琳だった。

 

この顔に押し付けられるような黒髪の匂いも、体の温かさも間違いない。

 

ならば……

 

「っ! めいっ!」

 

気づいた雪蓮は、慌てて口を開いた。

 

動揺して、真名を最後まで呼ぶことすら出来ない。

 

自分の歯が、冥琳の肩口を抉っているのがわかったからだ。

 

堰きとめていたものが無くなって、肩から血がダラリと流れでる。

 

「っ……」

 

冥琳の喉から苦悶の声が漏れ出た。

 

痛みに耐えているのがわかる。

 

「ご、ごめんな……さい……」

 

一気に頭から血の気が引け、雪蓮は真青になった。

 

覚悟をしていたとはいえ、いざその状況に陥ると、思考が混乱してしまう。

 

呆然と言えるように、反射的に漏れた言葉ではあったが、口の中は冥琳の血の味が占めていた。

 

右腕が上がっているので、そちらへ視線を向けると、呉の皆が右腕を押さえていた。

 

荒れた息で私を見る皆に声はかけず……南海覇王が向く剣先の行方を見れば、大地には太史慈が前のめりに泥に突っ込んでいた。

 

__そっか、私……南海覇王で……

 

「目が、覚めたか?」

 

冥琳の声が耳元で聞こえて、誘導されるように頷く。

 

そっと離れて、顔が良く見えるようになった。

 

自慢の黒髪がずぶ濡れで、いつもの眼鏡には水滴が滴っている。

 

「……ぅん」

 

蚊が鳴いたほど小さな声で、雪蓮は返答した。

 

気まずいので俯いてしまう。

 

フッと微笑む冥琳は、雪蓮の顔を持ち上げると、首筋に顔を埋めるように抱きついた。

 

「還ってこれて……ほんどうに良かっだ」

 

首筋で泣く冥琳の声に、雪蓮は左手で冥琳を抱き返す。

 

「ありがとう」

 

 

今はそれで十分だった。

 

 

 

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どうも雨傘です。

 

皆さん応援ありがとうございます!!!

 

ご支援、コメント、メール、ご指摘、お待ちしております!

 

批判でもOKです! 厳しくても全然大丈夫です!

 

貴方様からの反応が私の力になりますので、どうかよろしくお願いします。

 

個人メールも受け付けております。 小生でよければ友達になってください、割りかしマジで。

 

あとがきは、最終話で書こうと思います。 結構長くなると予想します。

 

 

ではまた。

 

 

 
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