No.701038

艦これファンジンSS vol.3 「涙は、見せない」

Ticoさん

もやもやして書いた。やっぱり反省していない。

というわけで週刊ペースになっている艦これファンジンSSのvol.3です。

今回は、最古参戦艦ながら現在は鎮守府近海哨戒に当たっている伊勢さんの話です。

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2014-07-15 20:10:48 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:828   閲覧ユーザー数:804

「――対潜制圧戦、はじめ!」

 高らかに少女の号令が海原に響く。

 その声に応じて、二人の少女が海面をすべるように飛び出した。

「了解! 五十鈴(いすず)にはお見通しよ!」

「神通(じんつう)――まいります!」

 五十鈴と名乗った少女が、ツインテールを風になびかせながら海面に白い軌跡を描く。続いて神通と名乗った少女が、鉢金から伸びる長い黒髪をかきあげると同時にまっすぐに波を蹴って疾走する。

 現代風にアレンジされた、しかし和装にも見える衣装。

 そして身にまとった独特な鋼の装備――艤装。

 それが彼女たちが見た目どおりのただの女の子ではないことを示している。

 艦娘。人類の脅威、深海棲艦に立ち向かえる唯一の存在。

 号令をかけた少女は巫女装束をかたどったような衣装を身にまとい、そしてなにより、かかえるほどの大きな砲を身にまとっていた。だがしかし、なにより目を引くのは腕に装備した飛行甲板だろう。水平に保った甲板からは、続々と艦載機が飛び出していく。いずれも独特なシルエットのそれらは瞬く間に一群をなし、海原に展開していった。

「晴嵐とカ号で追い詰めるわ! 瑞鳳(ずいほう)は私の援護をお願い!」

「了解! ――さあ、やるわよ! 攻撃隊、発進!」

 瑞鳳と呼ばれた小柄な艦娘が、号令をかけた艦娘に並び、艦載機を発進させた。

「わたしの探信儀からは逃れられないわよ!」

 五十鈴がそう叫ぶと、背中に背負った爆雷を次々と投下する。神通もそれに続き、そしてそれを支援して、発進した艦載機も爆雷の雨を降らせる。

 海面に次々と水柱があがる。

 やがて、収まった海面に、じわと黒い染みが浮かんだ。

「手ごたえありました――探信儀に感なしです。やりましたね、伊勢(いせ)」

 神通が静かな声で報告するのに、号令をかけた艦娘は満足げにうなずいてみせた。

 航空戦艦、「伊勢」。それが彼女の名前である。

 

 「深海棲艦」という存在がいつから世界の海に現れたのか、いまでは詳しく知るものはない。それは突如、人類世界に出現し、七つの海を蹂躙していった。シーレーンを寸断されなすすべもないように見えた人類に現れた、希望にして、唯一の対抗手段。

 それが「艦娘」である。

 かつての戦争を戦った艦の記憶を持ち、鋼の艤装を身にまとい、深海棲艦を討つ少女たち。

 艦娘達と、彼女らを指揮する提督は、徐々に、だが確実に、深海棲艦から海を取り戻していった。だがしかし、その根拠である鎮守府近海といえど、まったく安全とは言えず、ともすれば深海棲艦が跳梁する危険な海に違いなかった。

 

 暑い季節ではあったが、早朝の空気は涼しく、潮風も心地いい。

 伊勢は運んできた荷物を桟橋に置くと、思いっきり伸びをした。艦娘にとって艤装は見た目ほど重くはないがそれでもかさばるし肩は凝るものである。それをはずして背を伸ばすと、かすかに骨がなる音がして、伊勢はたまらず苦笑した。

「いやあ……こりゃ明石(あかし)が戻ってきたら、整体してもらった方がいいかな」

 そうひとりごちると、伊勢は折りたたみ式の椅子を広げ、クーラーボックスからラムネを一瓶、手に取った。ガラス玉を押し込んで開けると、一口あおって傍らに置く。

 伊勢の服は和装をベースにした艦娘独特の衣装だった。誰がデザインしたか定かではないが、これは艦娘の制服であって、特段の理由がない限りは艦娘はこれを着用することが義務づけられていた。ましてやここはれっきとした鎮守府の敷地内である。

「非番とはいえ私服でうろうろすんな、っていうのも窮屈よねえ」

 そう呟きながらも、伊勢は手際よく釣り竿を取り出し、そそくさと海面に垂らした。

「さあて、何が釣れるかなあ……」

 彼女は口元に笑みを浮かべると、やがて鼻歌を唄いだした。

 

「あら、伊勢さん、早いですね」

「おはようございます」

 ご機嫌な伊勢に、不意に声をかけてきた二人がいる。

 長い黒髪を流し赤い短い袴が印象的な弓道着らしきものを身につけた少女と、短めの髪をサイドポニーにしてこちらは青でまとめた衣装をつけた少女。

 どちらも大人びた様子で、どちらかというとお姉さんといった印象である。ただ、赤いほうは落ち着いた様子ながらも朗らかさがにじみ出ているのに対し、青いほうは静謐そのものといった空気を漂わせている。

「おー、一航戦の二人じゃん。おはよう」

 伊勢は腰かけたまま、ひょいと軽く手をあげて応えてみせる。赤い袴の艦娘――赤城(あかぎ)が微笑んでみせ、青い袴の艦娘――加賀(かが)がかすかにうなずく。二人は正規空母の艦娘であるが、いまは飛行甲板も艦載機を放つ長弓もたずさえてはいない。

 代わりに手にしているのは釣り竿をはじめとする釣り道具一式である。

「朝から釣り? ずいぶんのんびりね」

「伊勢さんに言われたくはないわ」

 不本意だという表情で加賀が言うと、赤城がにこやかに笑みを浮かべながら

「限定作戦に備えていまのうちに休養をとっておけ、って提督が。それなら晩御飯は美味しいものがいいわねって二人で話してて、ゆっくり釣りでもしようかな、って」

 そういうと、赤城はうっとりとした表情を浮かべる。

「釣った魚は鳳翔(ほうしょう)さんに料理してもらうんです……お刺身、煮付け、揚げ物……ああ、なにがいいかしら」

「赤城さん、よだれ」

「あら、いけない」

 あわてて口元をぬぐう赤城を見やりながら、伊勢は肩をすくめてみせた。

「さすが、最古参の一航戦は余裕ね」

「艦載機に乗っている妖精さんたちのおかげですよ」

「うちの子は優秀だから」

 赤城も加賀も、その声には誇らしげな響きがにじんでいる。

 この鎮守府にはかつての戦争を戦った空母の記憶と名を受け継いだ艦娘がほぼ揃っていたが、赤城と加賀はほぼ同時期に鎮守府入りした、しかも最初期の空母の艦娘である。

 練度といい、積んできた実戦経験といい、他の空母陣――通称「二航戦」の飛龍(ひりゅう)や蒼龍(そうりゅう)、「五航戦」の翔鶴(しょうかく)や瑞鶴(ずいかく)とは格段に上の実力を有していた。提督が勝負にでるときは、まずはずすことのない一線級の戦力といえる。

「二人はどこで釣るつもり?」

「加賀さんと相談したんですけど、もうちょっとあちらの方へ行ってみようかと」

「このあいだ伊勢さん達が対潜作戦をやって沖合いも静かですし」

 赤城と加賀はそう言うと、二人とも軽く伊勢に頭をさげてみせた。

 それを目の当たりにした伊勢は、軽く照れながら、手を振ってみせて、

「いやいや、たいしたことしていないし。頑張ったのは五十鈴や神通や瑞鳳だし」

「そんなことはありません。伊勢さんが監督してくれるからこそです」

「高練度の航空戦艦を鎮守府近海に貼り付けておくなんて提督も贅沢だわ」

 ほめそやす二人に、伊勢は頭をかいてみせた。少々くすぐったい。

 伊勢自身は、赤城や加賀たちよりは少し先輩の、最古参の戦艦である。鎮守府が開いたばかりの頃は毎日のように出撃していたし、敵戦艦と熾烈な撃ちあいを幾度も演じた経験もある。ただ、現在は艦隊決戦に呼ばれることはなく、もっぱら対潜装備を積んで鎮守府近海の哨戒任務を担っていた。

「まあ地味だけど重要な仕事だし、真正面の殴りあいなら、長門(ながと)や大和(やまと)、それに金剛(こんごう)の四姉妹もいるしね。わたしがここに来たばかりの頃に比べれば、ずいぶんにぎやかになったもんよ」

「そうね、いまの伊勢さんは駆逐艦の面倒もみてるものね」

「“先生”って呼ばれているんですってね、学校みたい」

「教師になったつもりはないけどね。それより、そっちの弟子はどうなの?」

 伊勢が水を向けると、加賀の静かな表情が途端にぴんと張り詰めたようになった。

「五航戦の子たちですか――まだまだです」

「おや、手厳しい」

「かなり良い線まで来てると思うんですけどね。加賀さんは点数が辛いから」

「別に辛くはありません。深海棲艦は甘いわけではないのですから」

 加賀は無愛想に答えてみせた。翔鶴と瑞鶴は正規空母の艦娘の中ではもっとも遅く鎮守府に来ており、そのため、実戦経験も練度も比較的浅い。提督の指示で、折を見ては一航戦の二人が教えているのだが、赤城と翔鶴はうまくやっているものの、加賀と瑞鶴はことあるごとに衝突していることは、鎮守府内では有名な話だった。

「瑞鶴も、もう少し素直になればいいのですが」

「あら、自分で考えて行動しようっていうのは悪いことじゃないわ」

 赤城の言葉に、加賀は、

「型破りになるのは、まず型をきちんと習得してからにすべきです」

 そう眉間にかすかにしわを寄せて、つぶやいた。

 だが、ふと伊勢が苦笑いを浮かべながら見つめていることに気づき、

「――なにか言いたげですね」

「いやいやー。瑞鶴のことになると妙に熱が入るね、加賀は」

「別にそんなことは……」

「あら、『あの子はもっと伸びしろがある』ってこないだ言ってたじゃないの」

 赤城がぽんぽんと加賀の肩をたたいてみせる。

 みるみるうちに顔が赤くなる加賀をみて、伊勢の苦笑いがにやにや笑いに変わり、

「へえ、可愛さ余ってなんとやらなのかねえ。加賀教官どの?」

「……赤城さんの思い過ごしです。では、これで」

 加賀は顔をうつむけると、赤城の手をむんずとつかみ、すたすたと歩き出した。

 引っ張られるかたちの赤城が伊勢に微笑んでみせると、加賀に並んで歩いていく。

 程なく、なごやかな談笑の声が風にのって聞こえてくる。

 遠ざかっていく二人を、伊勢は手を振って見送った。

「仲良きことは美しきかな、ね」

 そうひとりごちると、伊勢は再び釣り竿に意識を集中させた。

 

 

 日は昇りはじめたが、伊勢の竿はぴくりとも反応しなかった。

 待つのは慣れている。

 対潜作戦も辛抱との戦いだ。伊勢にはそれがよくわかっていた。

 むしろ、この無為の時間をどう楽しむか――しばし、風がそよぐのを味わっていた伊勢だが、その風が不意にやんだのを感じた。

 桟橋に人影が落ちる。誰かそばまでやってきたらしい。

 ふりかえってみると、すらりとした長身が目に入ってきた。長い艶やかな黒髪を後ろでたばねて流し、身体にぴったりと張りついた白と赤の衣装に身を通し、小ぶりの日傘をたずさえている。その面立ちは、優美さの中に力強さを秘め、それでいてどこか華やかな雰囲気をまとっていた。左足のタイツには「非理法権天」の文字が躍る。

「――なんだ、大和か」

 伊勢の声に、その艦娘は、こくり、とうなずいてみせる。彼女はたおやかな顔に、しかし少々のためらいを浮かべながら言った。思いのほか、あどけなさの残る声である。

「あの……おじゃま、でしたか?」

「まあ別にじゃまってわけじゃないけどね。黙ったまま立たれていても困るなあ」

 伊勢はそう言いつつも、座ったまま、手元のクーラーボックスを開けた。ラムネの瓶を一本取り出し、大和に差し出す。

「ん、飲みなよ」

「ありがとうございます」

 大和は身をかがめて受け取ると、ガラス玉をぽんと押し込み、一口あおった。

「……美味しい……」

 ほうっと息をつく大和に、伊勢はにやりと笑ってみせながら、

「伊勢印のラムネもなかなかのもんでしょ?」

 そう言って、自分用にもう一本取り出し、一口飲む。爽やかな炭酸が喉に心地いい。

「それで? 悩める乙女の顔をしていったいどうしたの?」

 伊勢のその言葉に、大和の顔が見る見る赤くなる。

「べ、べつに、わたしは提督のことを考えたりしては――」

 そう言いかけて、彼女はハッと口を押さえた。その様子に伊勢は目を細めて、

「はっはーん、そういうこと?」

 からかうような口調に、大和は耳まで赤くしてみせた。

「い、伊勢さんはずるいですっ」

「古参の艦娘はずるいもんさ。で、よりによってなんであたしのとこに?」

「……鎮守府で率直にわたしと話してくれる艦娘は、長門さんに陸奥(むつ)さん、それに伊勢さんぐらいですから……」

 大和。かつての戦争で中枢戦力を期待された戦艦。

 “艦娘である大和”も、その名と記憶と、そして驚異的な戦力を受け継いでいる。単純な砲撃能力は並みの戦艦を軽く凌駕し、装甲も折り紙つき。大和の艤装は他の艦娘のそれより圧倒的に大きく仰々しく、完全武装状態の彼女は見るからに圧巻である。

 ただそれだけに鎮守府の艦娘たちは大和に対して、距離をちょっと置いてみたり、変にかしこまったりと、扱いが別格である空気があり、妙に身構えてしまいがちであった。

 そんな大和とわけへだてなく話せる艦娘といえば、艦隊総旗艦として威風堂々を地でいく長門か、長門の姉妹艦で乙女心には妙に敏感な陸奥か、さもなければ、最古参戦艦で皆の先輩として親しみを持たれている伊勢ぐらいといえるだろう――とはいえ。

「まあ、提督の話だと、長門や陸奥には話しづらいわよねえ」

 大和が頭を悩ます提督の話題といえば、艦娘の間でもっぱら噂になっている“あの”ことだろう。それが分かった上で、ぼそっとつぶやいた伊勢の言葉に、大和は無言である。喉がかわくのか、ラムネをまたあおってみせる。

 両手でラムネの瓶をはさんで転がしてみたり、ちょっと空を仰いでみたり、日傘をくるくると回してみたり、大和はそわそわと落ち着かなげな様子だったが、伊勢はせかさずに釣り竿の動きをじっと見つめていた。

 焦りは禁物。「こういう話」も対潜戦とどこか似ているのだ。

 やがて、意を決したのか、大和がおずおずと口を開いた。

「提督はなぜケッコンカッコカリのお話を持ち出されないのでしょう……」

 それを聞いた伊勢は、内心でやっぱりそれかーとため息をついたが、

「練度が上がりきっちゃうと、やっぱり気になるんだ?」

「ケッコンすれば、練度の限界を超えられると聞きました。暁の水平線の、その先が見えるとも。現に長門さんは普通の艦娘ではおよびもつかない高みに到達しています――」

 そう言うと、大和はしゃがみこみ、ラムネを口元にやりながら、つぶやいた。

「――わたしだって、きっと、もっと……」

「あのさあ、大和」

 伊勢は首を軽くかしげて聞いてみた。

「あんた、強くなりたいからケッコンしたいの?」

「べ、べつにそれだけとはいうことは――」

「じゃあ、提督のことが好きだからケッコンしたいの?」

 伊勢の口調はざっくばらんとしたものだったが、大和には直撃だったようである。彼女はまたもや耳まで赤くなり、顔をうつむけて、かぼそい声で言った。

「……やっぱり伊勢さんはずるいです」

「人生の先輩はずるいもんさ」

 伊勢はクーラーボックスから氷をひとつ取りだし、ほてった大和の頬に当てた。

「ひゃん!?」

「まあまあ、ちょっと冷ましな――で、正直なところはどうなのよ」

 その言葉に大和はしばし思案顔になったが、伊勢から受け取った氷を握り締めると、

「長門さんに負けたくない……艦娘としても、戦力としても、一人の女性としても」

 かなり決意のこもった言葉を聞いて、伊勢の顔がふっとやわらぐ。

「それ、提督に言ってみたら?」

 水を向けられた大和は、目を丸くすると、ふるふるとかぶりを振ってみせて、

「へ、変なことを言うやつだって思われたらどうしようって考えると……」

 そう口にすると、大和は両手で顔を覆ってしまった。指の隙間から氷が落ち、桟橋に転がる。気温があがってきて熱を帯びてきた桟橋の上で、氷がじわりと溶けだす。

「……ほんと、あんたって本番に弱いわよねえ」

 大和が鎮守府に来た当初は、その存在は極秘にされ、入念な演習で練度を積む以外は、限られた海域でしか出動の機会を得られなかった。演習では抜群の性能を見せた大和だったが、しかし実戦となると、途端に「使えない子」と化していたのは、ここだけの話である。砲撃が当たらない、随伴の艦娘にやたら被害を出す、ちょっとした損傷で長時間のドック入り――伊勢も随伴の一人だったから、よく覚えている。

 カタログスペックと実戦性能のちぐはぐっぷりに、大和自身も落ち込んだが、なにより提督自身が落胆していたのも伊勢は知っている。大本営からの「あれは実戦で無理をさせずに、観艦式で頑張ったほうがよほど役に立つんじゃないか」という揶揄にこらえきれず湯飲みを叩き割ったらしいという話も。

 そこを間髪いれずに提督に向かって「わたしにまかせろ」と言ったのは長門である。自信喪失状態だった大和を励まし、自分の随伴艦として戦わせた。砲撃が当たれば褒め、はずれれば助言し、少しずつ大和に戦艦として戦いに臨む喜びと面白みを教えていった。

大和が立ち直るのを見て、提督も必死に大本営にかけあって、大和の実戦部隊落ちを阻止し、早々に、新参の戦力ながら第一線をまかせられる艦娘として扱うようになった。現に相当高い難度の海域の攻略の際は、長門と陸奥の姉妹コンビか、そうでなければ大和を出す、というほどまでになっている。

「わたしがいまここにあるのは、提督と、長門さんのおかげです」

 大和は顔をあげると、伊勢に言った。

「だから、提督にはもっと認めてもらいたいし、長門さんにはいつまでも後輩という立場に甘んじていたくない……

「んー、まあ、あんたの想いにあたしがどうこう言うつもりはないんだけどさ」

 伊勢は頭をかきながら言った。他人事とはいえ、いささか照れくさい。

「そこまで決めているなら、思い切って提督に告白してみ? ナガコンの提督に気づいてもらおうなんて、西の空に暁の水平線を期待するようなもんよ」

 その言葉に、大和は一瞬だけしゅんとした顔をしてみせたが、やがて、大きく深呼吸すると、ぱしんと自分の頬を軽くはたいてみせた。すっくと立ち上がり、残っていたラムネを一息に飲み干すと、きっぱりした口調で、

「がんばってみます――伊勢先輩、ありがとうございました」

 そうして脇を締めた見事な敬礼をしてみせる。

「はいよ――まあ気張らずにね」

 伊勢は、ややくだけた返礼をした。大和は微笑むと、ラムネ瓶の中の玉をからんと鳴らしてみせ、きびすをかえして優雅な足取りで桟橋から立ち去っていった。

 それを見送りながら、伊勢は心の中で、提督うらむなよーとつぶやくのであった。

 

 日が高く昇ってきて、日差しがじりじりと照りだしてきた。

 伊勢の竿は相変わらずぴくりとも動かない。伊勢はふうっと息をつくと、じわりと浮き出した汗をぬぐい、持ってきたラムネをあおった。

 ふと、こちらへと駆けてくる足音を耳にして、伊勢は振り返った。

「伊勢せんせー!」

 まだあどけなさたっぷりの声をあげながら、桜色の髪をウサギのアクセサリーでふんわりとまとめた少女が走ってくる。その横には、青紫の髪をなびかせた少女。いずれも伊勢にくらべれば、外見はおさない。普通の女の子であれば中学生くらいだろうか。

 だが、その身につけた鋼鉄の艤装が示すとおり、彼女達もまた艦娘であった。

「よぉー、卯月(うづき)に、弥生(やよい)じゃん」

 折りたたみ椅子に腰を落ち着けたまま、伊勢が手をあげて応えてみせると、卯月と呼ばれた桜色の髪の艦娘が、ぴょんと飛び跳ねるようにして、伊勢のそばに立ち止まった。

「探したぴょん!」

「卯月ちゃん、急ぎすぎ……」

 青紫の髪の少女――弥生が肩を軽く上下させながら追いつく。少しの間、呼吸を整えると何事もなかったように落ち着き払った声で、

「伊勢先生、こんにちは」

「たはは、先生はやめなって」

 伊勢は照れ笑いを浮かべながら、しかし、まんざらでもないといった顔で、

「二人ともこれから出撃?」

「そうだぴょん! 鎮守府を騒がすぅ、おジャマな潜水艦を――」

「――沈めにいきます」

 卯月が飛び跳ねる勢いで手を振り上げ、敬礼してみせる。一方の弥生は落ち着き払った……というよりも無感動な様子で同じく敬礼をした。その様子は伊勢はうんうんとうなずきながらも、ややあきれがちに、

「卯月はもうちょっと落ち着こうな」

「ぴょん?」

「弥生はもうちょっと気分上げていけ、うん」

「わ……わかりました」

 二人ともそういったものの、卯月はそわそわと身動きし、弥生は腕こそ気合のポーズをしてみせたものの無表情はまるで変わらない。少しの間、それを見ていた伊勢だが、ほどなくこらえきれずに吹き出し、

「ぷふっ……いい、いい、普段どおりでいきな」

「はーい!」

「わかりました」

 テンションはまるで違うが、素直な声に、伊勢はついつい顔をほころばせた。

 ふと古参艦らしい気遣いをしたくなったので、こほんとわざとらしく咳払いし、

「二人とも、対潜作戦の基本は覚えてる?」

 その問いに、卯月がひょこっと、弥生が静かに、手を挙げる。

「見失ったら耳をすませるっ!」

「見つけたら必ずしとめる」

「うんうん。あと、あんた達の場合は約束があったよね?」

「仲間が被弾したら全力離脱!」

「深追い禁物……」

 素早くかえってくる答えに、伊勢は満足そうにうなずいた。

「いい? あんた達の仕事は斥候に来た深海棲艦の潜水艦を追い払うこと。外洋に出られるルートさえ確保できればいいんだからね」

 そう言って、伊勢はぽんと胸をたたいてみせる。

「本格的な潜水艦掃除はこの伊勢先生にまかせなさいっ」

「はーい、先生!」

「よろしくお願いします、先生」

 自分で先生と言ってしまった伊勢だが、なるほど二人は教え子としてみればなかなか可愛いものがあった。伊勢自身はたいしたことをしているつもりはない。ただ、古参艦として、対潜部隊を預かる身として、出撃する駆逐艦の子たちを見かけると、ついついなにか教えてやりたくなるのだ。駆逐艦の艦娘たちもそれを疎まずに、むしろ慕ってくれる。

 本格的な対潜制圧作戦は月に一回あるかどうかだ。出撃の回数だけなら、斥候退治の駆逐艦たちの方はそれこそ毎日出番が来る。見送る側にまわりがちな伊勢としては、自分のアドバイスで後輩達が無事に戻ってこれるなら、それに越したことはない。

「それじゃあ、頑張ってくるぴょん!」

「出撃してきます」

 ほぼ同時に敬礼をすると、卯月は満面に、弥生は口元に、それぞれ笑みを浮かべた。そして、そのまま来たときと同じように勢いよく駆けていく。

「ちゃんと帰ってくるんだよー」

 伊勢は見送りながら、二人を見て、いいなあ、と思ってしまう。

 悩みもなく、純真な、乙女たち。

「ああいう子がまた来ないかねえ」

 そうひとりごちると、伊勢は一向に当たりが来ない釣りを再開した。

 

 不意に竿が引かれた感触があって、伊勢は仕掛けを引き上げた。

「……持っていかれたか……」

 針だけ残った無残な様子を見て、肩をすくめた伊勢は、しかし落胆の色はあまり見せずに練り餌を針につけた。またひょいと海面に投じると、心地よい水音が聞こえた。

「――最古参どのはなかなか苦戦中のようだな」

 よくとおる、凛とした声が響く。その声だけで伊勢は誰が来たのか分かった。

「艦隊総旗艦どの、か」

 そうつぶやくと、座ったまま、伊勢は声の方へ顔を向けてみせた。

 伸ばしっぱなしとはいえ艶やかな長い黒髪、整った顔立ち。先の大和とどこかしら雰囲気は似ていたが、しかし華のある大和にくらべると、こちらは打ちたての鋼のような、どこか無骨な、武人然とした雰囲気を漂わせていた。

「……そりゃ、ある意味純真だし、悩みもなさそうだけど」

 知らず知らずのうちに、伊勢はじとっとした目つきになり、

「別にあんたは呼んでないわよ、長門」

 ややうらみがましい伊勢の声に、彼女は気づいていないのか意に介さないのか、

「なんだ、それは?」

 と、何事もなさそうな口調で訊ねてくる。伊勢はふうっとため息をつき、

「いいのよ、こっちの話」

「それなら構わないが……ああ、わたしにだって悩みくらいあるぞ」

 眉をひそめてみせる長門に、伊勢は目を丸くしてみせた。しばし宙を見つめると、ごそごそとクーラーボックスをまさぐり、ラムネを取り出す。

「一本、いっとく?」

「いただこう」

 遠慮するでもなく長門は手にとり勢いよくあおる。右手にラムネ、左手は腰である。

(相変わらずのオトコマエよね……)

 伊勢はひそかにそう思わなくもないが、それは口に出さず、代わりに訊ねた。

「悩みがあるなら話してみない? 相談くらいには乗れるわよ」

「ふむ……そうか、そうだな。伊勢になら話せるだろう」

 長門はうなずくと、やや間を置いてから、すっぱりと言った。

「悩みというのは提督のことだ」

「提督がどうかした?」

「陸奥や大和が提督とケッコンするのでは、という噂を耳にしてな」

 長門の顔つきは、「長らく悩んだ果て」という感じではなかった。

 伊勢はまたしてもじとっとした目つきになり、

「……ちなみにその噂、聞いたのいつ?」

「今朝のことだが」

 それを聞いて、伊勢はあーうんうんとうなずいていた。そうよね遠慮して耳には入れないようにするわよねというか耳に入れたいらんことしいは誰よ、と口早につぶやいてみせたが、長門には聞こえたかどうかあやしい。

「思ってみなかったことだが、たしかに二人とも練度は最高に達しているし、定められた基準も満たしている。提督が決めることだからわたしがとやかく言うものでもない」

 長門はそう言うと、ふうっと大きく息をつき、

「だが、提督がこの件で相談してきたら、なんと答えればいいんだろうなと思ってな」

「あんた自身はどうしたいのよ」

 伊勢の問いに、長門はゆっくりと言葉をつむいだ。

「提督が認めるのなら仕方がないし、練度をさらに上げたいという、艦娘の意思も尊重してやらねばなるまい。とはいえ――」

 長門は自分の右手をじっと見つめると、ぎゅっと握りこぶしをつくり、

「――なぜだろう、この噂を聞いたとき、無性に提督を殴りたくなった」

 その言葉に、伊勢は苦笑いを浮かべながら、手をへろへろと振ってみせた。

「グーはやめときな、グーは。せめてパーにしておきなよ」

「ふむ、平手打ちか……」

 そうつぶやいた長門が、どちらが打撃力は高いのだろうな、と続けた気がしたが、伊勢は聞こえなかったふりをした。

「で、とりあえず提督を殴るの?」

「まさか。本当に殴るわけにもいかんだろう」

 困った顔をしてみせる長門に、伊勢は、舌打ちと共にひとさし指を左右に揺らし、

「ちっちっち。とりあえず長門は、この件では提督を殴る権利はあると思うよ」

「そういうものか」

「そういうものよ」

 伊勢の応答を聞いて、長門はじっと海原を見つめる。

 わたしはどうしたらいいんだろうな、とかすかに聞こえたつぶやきが、思いのほか、おさない声だったので、伊勢は思わず神妙な顔をして言ってみせた。

「考えるんじゃないの。感じるのよ」

 その言葉に、長門はふむとうなずいてみせた。

 手にしていたラムネを一気にあおって飲み干すと、大きく息をはき、

「よぉし、わかった!」

 ひときわ大きな声でそう宣言した。顔はきりと締まり、何かを決意した様子である。

「ラムネをありがとう。この借りはいずれ、な」

 そういうと、颯爽と長門は去っていった。あくまでも力強い足取り。

 伊勢は苦笑しながら見送りつつ、提督生き残れよー、とひとりごちた。

 

 

「…………来ないなあ」

 日は中天をすぎたが、まだ伊勢の竿は反応がない。

 対潜戦と同じで待つのが肝心とはいえ、こうも反応がないと、さすがに気がめげそうになる。さりとて、いまさら場所を変えるのもなにやらしゃくだった。

 そんな伊勢の釣り竿の先を、すっと影がちかづいたかと思うと、海面に落ちた。

 沈みそうになるそれを、伊勢は器用に釣り竿でたぐりよせる。

「――紙飛行機?」

 手に取ったそれは、まごうことなき紙を折って作った飛行機である。伊勢が首をかしげていると遠くからにぎやかな声が聞こえてきた。

「おーい、すまんすまん、我輩のじゃー!」

 言葉遣いこそ年寄りくさいが、れっきとした少女の声である。振り返ってみると、黒髪を白いリボンでツインテールに結わえた女の子が駆けてくるのが見えた。

「姉さん、ちょっと待って……!」

 そのすぐ後ろからは、長い黒髪をなびかせた別の少女が後を追ってくる。

 伊勢には、むろん、その二人に見覚えがあった。

「利根(とね)に筑摩(ちくま)じゃん、なにしてるのー?」

 椅子に座ったまま手を振ってみせると、駆け寄ってきた利根が息をはずませながら、

「いやー、ちょっとした自主訓練に飛ばしておったのじゃ!」

「自主訓練?」

「うむ……相変わらずカタパルトの調子がおかしくての」

 眉をひそめて一大事だという顔をしてみせる利根に、追いついた筑摩がたしなめる。

「もう、利根姉さんったら。そんなに気にするほどでもないのに」

「いや、なにかあってからでは提督に申し訳が立たぬのじゃ! いざとなればカタパルトなしで飛ばす練習はしておかねばな!」

 腕組みしてうんうんとうなずきながら話す利根。

 その様子に、もう仕方がないですねと言いつつも、筑摩はたおやかに微笑んでいた。

 二人とも、もちろん艦娘である。航空巡洋艦、というちょっと変わった種別で、重巡洋艦並みの火力と装甲を備えつつ、水上機の運用が可能であった。その意味では同じく水上機を運用できる航空戦艦の伊勢とはやや親しい間柄といえる。

 伊勢はたぐりよせた紙飛行機を見つめたが、どう見ても――

「――これ、水吸っちゃってるわよ。もう飛ばないんじゃない?」

 そう言うと、利根はあからさまに落胆してみせた。

「なに!? それは困ったのう……瑞雲であれば見事着水したであろうに」

 利根が普段運用する水上機の名を出してみせると、横から筑摩が、

「大丈夫ですよ、ほら、まだこんなに」

 そう言って懐からお誂え向きといった紙を幾枚も取り出してみせる。

「おお、さすが筑摩じゃ! でかした!」

 利根ははずむ勢いで喜んでみせ、紙を一枚受け取ると、そのまま地面に座り込んで紙飛行機を折り出した。まるで子供である。

「……なんで紙飛行機なの? それこそ瑞雲使えばいいんじゃ……」

 伊勢が素朴な疑問を口にすると、筑摩がたおやかに答える。

「わたしたち、今日非番なものですから」

「うむ! 装備を勝手に使うのは禁じられておるからな」

 出来上がった紙飛行機を手にとりながら利根はすっくと立ちあがり、

「イメージトレーニングというわけじゃ!」

「そんなこと言って、姉さん、飛ばすのに夢中だったじゃありませんか」

 軽くたしなめる筑摩に、いやそんなことはない、という利根。

 二人とも姉妹艦で、利根が姉にあたるのだが、やり取りだけ見ていると、どうにも筑摩が姉で利根が妹に見える。二人の様子に伊勢は肩をすくめて、

「あんた達って本当にあべこべ姉妹よねえ」

 そう慨嘆してみせると、利根と筑摩が揃ってこっちを見つめ、

「伊勢たちも日向(ひゅうが)の方がお姉さんっぽいではないか!」

「そうです、日向さんの方が落ち着いて見えますよ」

 二人してのつっこみに、伊勢はたじろぎながらも答えた。

「そうかなあ。少なくとも飛ばすことにかけちゃ、あたしの方が上だよ?」

「ほほぅ。ではその腕前を見せてもらおうかのう」

 利根の言葉に伊勢はうなずいてみせた。紙飛行機を受け取ると、頭上に構える。

 風の吹く向き、強さ。それらを瞬時に判断し、そして――

「――それっ」

 伊勢が飛び立たせた紙飛行機はすいっと風に乗り、陸の方へ飛んでいく。

「おおっ、すごい、すごいのじゃ!」

 利根が感嘆の声をあげて、その紙飛行機を追う。

「もう、姉さんったら――それじゃ、伊勢さん、これで」

 軽く一礼して利根の後を追っていく筑摩。

「相変わらず仲が良いわよね……」

 なごやかな二人の様子を、伊勢は見送りつつも、ついぽつりとつぶやいていた。

「……姉妹、か……」

 

 日がずいぶんとかたむき、午後のけだるい暑気があたりに満ちる。

 たまにそよぐ風が涼を運んできてくれるものの、

「あちー……」

 伊勢は手ぬぐいで首筋にじわりと浮かんだ汗をぬぐった。ラムネで喉を潤すが、そろそろ在庫もなくなりかけである。

「お裾分けしたからなあ……あと二本か」

 伊勢印のラムネは甘さ控えめ、レモンの爽やかな酸味を利かせた代物である。教え子である駆逐艦の子たちにも「ちょっと大人の味」としてなかなかの人気を博していたが、伊勢のラムネをなによりも好きだと言っていた人物がいた。

「日向が好きなんだよなあ、これ……」

「……なら、一本分けてくれないか?」

 穏やかな声。聞き慣れていたはずのその声に、伊勢はぴくりと身体を震わせた。

 やや間を置いて、伊勢はゆっくりと振り返ってみせた。

「――な、なあんだ、日向か」

 自分の顔はこわばっていないか。自分の声は震えていないか。

 伊勢は表情も声もつとめて明るくしてみせつつ、自分でその疑念がぬぐいきれない。

 日向、と呼ばれた艦娘は、伊勢によく似た衣装を身にまとっていた。身にまとう、航空戦艦ならではの大きな砲と飛行甲板からなる艤装もそっくり同じ。顔立ちもよく似ていた――当たり前だ、伊勢と日向は姉妹艦なのだから。

 伊勢が姉で、日向が妹に当たるのだが、なるほど利根たちが言うように、日向の方がおちついている印象がある。声も、明るさに満ちた伊勢に比べて、凪いだ海面のような静かなトーンだ。

「……どうした、伊勢。まじまじと見つめて」

「――へっ!? あ、いや、なんでもない、なんでもないよ、うん」

 苦笑いでごまかしつつ、伊勢は内心で冷や汗をかいた。つい、いつもの癖で日向を「見比べて」しまったらしい。

 何か変わったところはないか。記憶と食い違うところはないか。

 いや、そんなもの、あるはずがないし、あってはいけないのだ。

 日向は、日向なのだから。

 ただ、伊勢の持つ記憶が、そのことを認めたがらないのだ。

 そんなことはしてはいけないなのに、つい、そうしてしまう。

 伊勢は、意識してひと呼吸おくと、椅子から立ち上がった。日向に近づき、そっと両手を彼女の頬にそえる。

「……なんだ、藪から棒に」

 不審そうな日向の声に、伊勢は目を閉じて、つとめて平静な声で言った。

「痛むとこ、ない? 身体に変わったとこ、ない?」

「そんなものあるわけないだろう……ああ、伊勢。まだ心配しているのか」

 日向の手が、頬に触れる伊勢の手の上にそっとかさなる。

「前の作戦のときの損傷なら、もう平気だとあれほど言っただろう」

「――わたしは、“あれ”を見たんだよ?」

 思わず、自分の声が硬くなるのを、伊勢は感じていた。

「今でも、日向がここにいるのが信じられない」

「――あきらめなかった、皆と提督のおかげだな」

「……よく、ここがわかったね」

「釣れない場所なのに、なぜかここは伊勢のお気に入りだからな」

 伊勢がうっすら目を開けると、微笑む日向の顔が視界にあった。

「そのことを、思い出したんだ」

 その言葉に伊勢は目を見開き、日向の手をつかむと、勢い込んで、

「じゃあ花火のことは覚えてる? 南西諸島の最初の海域を攻略できたときに、鎮守府の皆と集まって、ここで――」

 まくしたてる伊勢は、しかし、日向の困惑気味の顔を見て、声をしぼませた。

「……すまない、伊勢。まだそこまでは思い出していない」

「そう……そうなんだ」

「知識として、情報として、そういうことがあったことは知っている。だけど、自分の体験としてまだ“思い出せて”いないんだ」

 日向の声は、心底申しわけなさそうだった。

「時間をくれ、伊勢。練度があがれば記憶の回復度合いも増すと聞いている――ああ、提督がついこのあいだから演習に私を入れてくれるようにしてくれたんだ。きっと、すぐに伊勢の練度に追いつく。その頃までには、なにもかも思い出してみせるから」

 

 日向の声はどこまでも凪いでいて、穏やかで。

 それが伊勢には、たまらなく、いとおしくて、それでいて腹立たしい。

 日向は思い出すと言ってくれた。だが、それは本当に「記憶の回復」なのか。

 あの日、伊勢は見たのだ。深海棲艦の砲撃に、日向が波間に沈んだ様を。

 あの日、伊勢は聞いたのだ。日向が散りぎわに叫んだ言葉を。

 ひとたび失われた艦娘が、再び帰ってきたときにもってきた記憶。

 だがそれは本当に同じ艦娘なのだろうか。

 別の誰かに、記憶を植えつけただけではないのか。

 「記憶の回復」というのは、移植した記憶が定着したことを示すのではないか。

 日向の姿も声も、話す言葉も、前と変わらない。

 ただ、記憶のずれがもたらす微妙な齟齬が、どうしようもなく伊勢には怖かった。

 ひとたび目の当たりにした悲劇は、そうそう忘れられるものではない。

 日向は、この鎮守府で唯一、撃沈された艦娘であった。

 

 ――ふと気づくと、伊勢は日向にぎゅっと抱きついていた。

「伊勢……おい、伊勢……」

 戸惑い気味の日向の耳元で、伊勢はささやいた。

「うん、あなたがそう言うなら、待ってあげる。だから、日向――」

 伊勢は身体を引き離すと、伊勢の肩を握って、言った。

「約束して。どこへ行っても、必ず帰ってくる、と」

「ああ……今度こそ、必ず」

 そう、日向は答えてみせたが、不意にじとっとした目つきになり、

「私だけ約束させられるのはずるい。伊勢も潜水艦に沈められるんじゃないぞ」

「きひひ、このあたしがそう簡単にくたばるわけないじゃん」

 伊勢は微笑んだ。このやりとり、前と同じだ――そう、感じたからだ。

 クーラーボックスから最後に残った二本のラムネを取り出す。

 一本を日向に、もう一本を自分で持つ。

 軽く首をかしげる日向に、伊勢はウィンクしてみせる。日向はしばし思案顔だったが、不意に何か思い当たった表情をしてみせた。

 お互いにラムネを持った互いの腕を交差させて、ラムネを自分の口に持っていく。昔の映画で友人同士が杯を交わしてきずなを確かめあうワンシーン。

 前に鎮守府の食堂で見て、伊勢がかっこいいと良い、日向は恥ずかしいといい、それでも伊勢がやりたいと姉らしからぬ駄々をこねて、何度も二人でやってみた行為だ。

 お互いにラムネをあおる。涼やかな炭酸が喉を潤す。

 それと同時に、伊勢の心の中のもやもやも洗い流されるようだった。

 彼女は、この儀式を覚えていた――いまは、これでいい。

 日向と別れ、再び日向とめぐり合えた時、もう涙は見せないと決めたのだから。

「じゃあ、演習に行ってくる」

 日向は、少しはにかみながら、そう言った。

「うん、行ってらっしゃい」

 伊勢も、微笑んで彼女を送り出した。

 

 いつの間にか日はとっぷりと暮れかけていた。

 夕焼けの真っ赤な光がうなだれる伊勢を照らしている。

 大きく息をついた彼女に、不意に背後から声をかけられた。

「――戦果なし、といったところだな」

 男性の声。艦娘だけしかいない鎮守府で唯一の男性といえば――

 伊勢は勢いよく振り返ると、にかっと白い歯を見せて笑ってみせた。

「いやあ、最後に大物が釣れましたとも」

 満面に笑みを――やや凄みのある笑みを浮かべる伊勢に、提督が思わずたじろぐ。

「お、おお、それはよかったな」

「それに戦果なしっていうけど、今日は入れ食いだったんだよ?」

「その割にバケツが空っぽだが……」

「いーの! これでいーの!」

 そう言うと、伊勢は広げていた道具一式をてきぱきと片付け始めた。

 そうやって手は動かしつつ、提督に背を見せながら、ぼそりと言う。

「あのさあ」

「なんだ」

「あんまり、艦娘を泣かせるんじゃないよ」

 その言葉に、提督がおもわずたじろぐ。

「う、むぐ……も、もちろんだ。その、なんだ、あの件では――」

「あの件ってどの件かなあ?」

 振り返って、伊勢は意地の悪い笑みを浮かべた。

「心当たりのある節が多すぎるかな? 提督ぅ」

「い、伊勢、お前ちょっといじめに来てないか?」

「いじめてませんー。ごくごく普通ですぅ」

「俺は……過ちは二度と繰り返さない。約束する」

「本当かな? 思わぬところで足をすくわれるなよ?」

「伊勢……本当にいじめてないか?」

 提督の情けない声に、伊勢は指をあごに当ててしばし考えたが、

「あれだ、今夜は提督におごってもらおう」

「なんでそうなる!?」

「ま、それでいろいろ追求するのは勘弁してあげる」

 伊勢はにっかり笑った。

 最古参ならではの、涙を隠したずるい笑みだった。

 

〔了〕

 


 
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