No.549317

ウ・テ・ル・ス - 3

代理出産という違法ビジネスに引き込まれた真奈美。そこで出会ったった秋良に、真奈美は命を賭けてのメッセージを送り続ける。母性とは、出産とは、親子とは…。そしてその関係の中で生まれる根幹的な愛に、はたして秋良は気付くことができるのだろうか。妊娠から出産のプロセスで作り上げられるガチな男女関係。先端の医学的知識と共に語られる未婚男女必読の恋愛小説です。「2012.12.06.鈴子誕生記念作品」

2013-02-27 18:51:02 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:656   閲覧ユーザー数:655

 秋良は朝早くから、鈴の音で起こされた。朝食を準備する真奈美が、忙しくキッチンを駆けまわっているのだ。ソファーで寝ていた秋良は、かけ布団を頭まで被って、なんとか鈴の音から逃れて、また安らかな睡眠を取り戻そうかとしたが、一度耳に着いた鈴の音はなかなか離れない。真奈美の監視用にと思ったが、自分で自分の首を絞めてしまったかもしれない。彼は寝るのを諦めて、あくびをしながら、シャワールームへ起きだしていった。

 熱いシャワーで目を覚まし、シェービング、そしてローションで肌をしめる。シャワールームからいつも通り直接クローゼットへ。今日のスーツコーディネイトを決めると、広いクローゼットでスーツに着替える。

 リビングに戻ると、キッチンのダイニングテーブルの上に、白い湯気が立ち昇るコーヒーとアメリカンブレックファストが準備されていた。おいしそうな匂いが鼻をくすぐる。しかし秋良は一瞥をくれただけで、朝食には手を着けず玄関のドアに向って歩き始めた。

「ちょっと待って!」

 真奈美に不満そうな声で呼び止められた秋良は、真奈美の文句が飛び出てくることを予想して闘いの準備に身構えた。しかし、真奈美はファイティングポーズも取らず奥の部屋に消えると、何やら手に持って戻って来た。

「そのスーツには、そのネクタイはあわないわ。こっちの方が合うわよ。」

 ネクタイを変えようとする真奈美の手を、秋良は払った。彼は怒ったように真奈美を睨んで大股に部屋を出て行った。ため息をつきながら秋良を見送る真奈美。するとすぐ鍵が解錠される音がしたかと思うと、秋良がものすごい形相で戻って来た。興奮した息遣いで真奈美の目の前まで来て立ち止まる。彼から一発食らうのかと首をすぼめた真奈美だったが、秋良は手を上げる代わりに自分のネクタイを外すと真奈美に投げつけ、彼女が手に持つネクタイをひったくる。そして踵を返してまた部屋を出て行った。

「いってらっしゃい。」

 秋良の広い背中に、真奈美は明るく声を投げかけた。

 

 実のところ真奈美は、これから自分に起きることを受け入れようと必死になっていた。契約を交わしてお金を受け取ってしまった以上逃げるわけにいかない。やっと人並みな生活を送れるようになった母や妹を見捨てるわけにはいかなかったのだ。しかし、男もしらない真奈美が身ごもり出産するということには、母が与えてくれた身体と神が与えてくれた心が、理屈抜きの拒否反応を示す。自分からこの反応を消すためにはどうしたらいいだろうか。一晩かけて考えた結果得られた結論は、出産を終えるまでおとぎ話を作って自分自身を騙すことだった。

 実は私は結婚した。献身的な若妻になって愛する旦那様に尽くす。やがて旦那様の赤ちゃんを身ごもり、幸せの中で出産する。このおとぎ話を自分に信じ込ませて、これから起きる事実を受け入れよう。

 真奈美はかって借金の返済に悩み疲れて公園のベンチで寝てしまった日を思い出す。そうだ、ちょうどいい。あの時見た夢を、現実なのだと自分に錯覚させよう。こうして、彼女のおとぎ話しの中の夫に、秋良がキャスティングされた。秋良の意思とはまったく関係ない所で、彼は真奈美と言う妻をめとったのだ。今朝の真奈美の秋良に対する態度は、これで納得頂けたと思う。

 その日から、真奈美は秋良の献身的な若妻として、家事をこなし秋良に食事を作り続けた。一方、そんな真奈美の心境をゆめゆめ知らぬ秋良は、真奈美の献身を頑なに拒否し続けた。彼女が作った料理は、箸ひとつ付けない。彼女が洗濯しアイロンをかけたワイシャツを無造作にゴミ箱に捨て、新しいシャツを買ってきた。秋良の遅い帰宅に、夜食を作って待つ真奈美にも、一言もしゃべらずに書斎へ直行する。

 しかしそれでも真奈美は平気だった。自分を好きになって欲しくて、こんなことをしているのではない。自分の拒否反応をごまかすために、必要なことだったから、リアルな秋良にどんなに拒まれても、笑顔で料理を作り、笑顔で秋良の服をたたみ、笑顔で秋良の背中にお休みなさいを言い続けた。

 受精卵を受け入れる迄あと1週間に迫っていたある日、秋良のスマートフォンが鳴った。冷静な秋良にしては珍しく、スマートフォンを家に忘れていったのだ。少し悩んだが、忘れた本人からの連絡かもしれないので、スマートフォンを取った。

「もしもし?」

『あら…電話番号間違えたかしら…。』

 女性の落ち着いた声が聞こえてきた。

「いえっ、小池秋良のスマートフォンですけど…。」

『そうよね。でっ、あなた誰?』

 高飛車な質問に、真奈美も一瞬言葉を飲んだ。

『息子の電話に、なんであなたが出るの?』

「えっ、お母様ですか…あの、秋良さんが家にスマートフォンを忘れていかれたものだから…。」

『家に?息子は家に女を入れない主義よ。母親のあたしだって入ったことが無いのに。』

「いえ、わたし…家政婦みたいなもので…。」

『家政婦にしては声が若いわね。それに、主人を名前で呼ぶ家政婦も珍しいわ。』

 矢継ぎ早やの母親の追及に狼狽するあまり、真奈美もついに答える返事が浮かばなくなってしまった。

『まあそんなこと、どうでもいいわ。』

 母親の声が自信の無い小さな声に変わった。

『しかし…いまだにあの子は自分の誕生日にはスマートフォンを持ち歩かないのね。よっぽど私の声を聞きたくないのね…。』

 しばらくの沈黙の後、母親は言葉を繋げた。

『機械相手に伝言残すよりは、生身の人間に託した方がましだわ。母親が誕生日おめでとうと言っていたと伝えておいてね。それから…またお願いしたいことがあるから、連絡くれって…。頼んだわよ。』

 母親は真奈美の返事も聞かず電話を切った。今自分が話した相手が秋良の言っていた『若い男の尻ばかり追いかけていた母親』なのか。電話に出た相手に心遣いの感じられない話し方は、そんな彼の話しを裏付けているような気がした。しかし、母親の話が本当なら、息子の誕生日を祝う母親の言葉が聞きたくないからとスマートフォンを置いていくのは、少しやり過ぎではないか。まあ、それはそれとして…今日は忙しくなるわ。真奈美はキッチンに駆け込んだ。

 

 真奈美がやって来た日以来、秋良は妙なストレスに見舞われていた。家にいると鈴の音が鳴りやまない。本当にじっとしていられないやつだ。秋良はできるだけ真奈美と顔を合わさないように、鈴の音から遠ざかり、彼女との間に距離を保つようにしていたが、こんな調子で家を我がもの顔でウロつかれれば、それもままならない。それにあの世話焼き千本ノック。拒んでも、拒んでも笑顔で繰り出してくるお節介に、秋良のストレスもそろそろ限界点に来ていた。

 秋良は、仕事の関係からも女の扱いには慣れていた。いかなる女にも自分のペースを乱されることなくクールに接っすることができた。確か真奈美も上手くあしらっていたはずだが、自分の家にやってきてからというもの様子が違った。ストレスを感じる人間は母親だけで十分なのに…。今や真奈美は、ストレスメーカーとして母親と肩を並べるほどの存在となっている。

 仕事から帰って玄関ドアを開けて中に入る秋良。いつもならオートで点灯する玄関のライトが点かない。また、第一声できこえてくる真奈美の『お帰りなさい。』も聞こえてこなかった。あまりもの静的な室内に一瞬秋良の身体が緊張した。

『あいつ逃げた?』

 その時、かすかであるが秋良の耳が鈴の音をとらえた。

「ハッピバースデー、ツーユー。ハッピバースデー、ツーユー。」

 下手な歌が聞こえてきた。歌の聞こえる先を見ると、暗い通路をろうそくの点いたケーキを持って、真奈美が歩いてくる。そして歌の終わりとともに、計ったように彼女は彼の目の前で止まった。不格好なケーキを持って、真奈美の笑顔がろうそくの明かりで揺れている。秋良は目を見開き、信じられないといった表情でこの一部始終を見つめていたが、ついにキレた。

 秋良は真奈美からケーキをひったくると、地面にたたきつけた。ケーキは無残にも粉々に砕け散る。驚く真奈美をしばらく秋良は荒い息で睨みつけていたが、やがて大きな足音を立てて外へ出ていってしまった。

『苦労した手作りケーキなのに…。』

 喜ばれはしないだろうと大片予想していたから、真奈美に失意はなかった。しかし、ケーキを床にたたきつけるのは、いくらなんでも過剰反応だ。部屋に残された真奈美は、砕け散ったケーキを片付け、ぶつぶつ不満を言いながら床を掃除する。真奈美が気に入っている彼の緑がかった瞳。その瞳を瞬時に覆ったあの物凄い怒りはいったいどこから来たのだろう。それは、彼を怒らせる天才の真奈美ですら、かつて見たことのないほどの感情の発露であった。

 

 秋良は気がつくと、絵を描いている少年の横に立っていた。そこは狭いアパートの一室で、見回しても少年以外の人影は見当たらない。食べ散らかったカップ麺の殻、畳に転がるビールの空き缶、吸い殻が山のように盛られた灰皿、しかも部屋がとんでもなく寒い。そんな劣悪な環境の中でも、少年は一心に絵を描いていた。

「坊主、何を描いているんだ?」

 秋良の問いに少年は顔も上げずに答える。

「誕生日ケーキだよ。」

「誰の誕生日なんだ?」

「僕だよ。」

「なんだ、それなら金やるから本物のケーキ買ってこい。」

「本物じゃ駄目だ。」

「どうして?」

「弟が食べられないんだよ。」

 秋良が部屋を見回しても弟らしき姿は見当たらない。

「弟はどこにいる?」

「天国だよ。弟は天国にいるから、ケーキを絵にして燃やしてあげないと、食べられないんだ。」

「そうか…。」

 秋良は少年の描く絵をのぞき込んだ。

「まずそうなケーキだな。」

 秋良の皮肉にも少年は絵を描く手を止めずに、ポツリポツリと話し始めた。

「弟はね…生まれた時からキラキラしていて、大きな声で泣く元気な赤ちゃんだったんだよ。僕は弟ができてとっても嬉しかった。だから大きくなったらキャッチボールできるように、ボールを買うお金を貯めることにしたんだ。でも…。」

 秋良は、少年の小さな背中を見つめた。

「坊主、もういいよ、説明してくれなくても…。」

 しかし、少年は秋良の声が聞こえなかったかのように話し続ける。

「確か弟が生まれて6カ月たった頃だったかな。お母さんが、知らない男の人と出て行って、帰ってこなかった日があったんだよ。」

「もう聞きたくないって言ってるだろ。黙れ。」

 秋良は跪いて耳を塞いだ。

「朝起きて弟のところにいったら、顔まで布団にかぶって寝ていたんだ。それでね…いつまでたっても静かだから、不思議に思って布団を取って顔を見たら、弟の息が止まっていたんだよ。大人は、赤ちゃんの息が突然止まって死んでしまう病気(乳幼児突然死症候群/SIDS)だとか言っていたけど…、僕は違うと思うんだ。」

 秋良が少年の言葉を遮るように絶叫する。

「いつも帰ってこない母さんが、もう少し早く帰ってきてくれていたら…、もっと早く自分が気付いていれば…、今頃は本物のケーキを弟と食べて、キャッチボールが出来たはずだって言いたいんだろ。」

 少年がケーキを描く手を止めてゆっくりと顔を上げた。

「よくわかるね…。」

「ああ、俺はお前の事なら何でも知っているぞ。ついでに言ってやろうか。弟が死んだ日は、確かお前の誕生日だったよな。」

 少年は、その緑がかった瞳で秋良に悪戯っぽく微笑んだ。

「さあ、こっちにおいでよ。一緒にケーキの絵を描こう。」

「俺は嫌だ。」

 秋良は激しく首を振った。振りながらも涙が溢れて止まらない。

「嫌だ、嫌だ、嫌だ。」

 さらに激しく頭を振る秋良。その時、秋良は自分の頭が、優しく柔らかな胸に包まれるのを感じた。

「いいのよ。嫌なことはしなくていいの。」

 秋良が顔を上げると、そこに真奈美がいた。少年もアパートも消え去り、彼女の温かな息だけが彼のまつ毛を撫ぜていた。彼女は秋良の頬を伝わる涙を、その細い指で拭いながらも、自分自身も涙ぐんでいるようだった。

「わかったから…。嫌なことはもうしないから…。家に帰りましょう。」

 秋良は立とうとするが、泥酔している足が言うことを聞いてくれない。大きな秋良が小さな真奈美の身体にすがるようにしながら立ち上がった。真奈美の細い肩を借りて歩く秋良。身を寄せ合ってできたひとつの影が、よろよろ揺れながら地面を滑っていった。

 

「えーっ、泥酔してマンションの前に転がっていたの?」

 三室の驚きの質問に、真奈美の声が電話口から聞こえてきた。

『はい、あまりにも帰りが遅いので心配して出てみたんですが、その時彼を発見しました。しかも途中どこかの水溜りにハマったらしくて、全身ビショビショでしたよ。』

「それで。」

『やっとこさ家に運びあげたんですが、夜風で体が冷えたらしくて、今朝になったら熱が出て起きられないんです。』

「どんなに酒飲んでも決して自分を失わない人なんだけど…珍しいこともあるもんだ。」

『どうも私が怒らせちゃったことが原因みたいで…。』

「やってくれるね。」

『済みません…。さっきお医者さんに連絡したので、まもなく往診に来てくれるはずです。』

「そうか、いずれにしろ今日は出てこられそうもないな。」

『ええ、熱が下がるまで私が面倒見ますから。』

「そうしてくれると助かるよ。後で様子見て連絡くれるか。」

『わかりました。』

「ありがとう。それじゃ。」

 三室が電話を切ると定例会議に集まっている各マネージャーに報告した。

「社長が熱出ちゃって、出てこられそうにありません。今日は会議中止です。」

「珍しいこともあるもんだ…。」

 守本ドクターが立ちあがりながら言った。

「風邪?」

 秀麗も眉間にしわを寄せて三室に質問する。

「たぶんそうでしょ。泥酔して水溜りにハマった上に、外で転がって寝てれば、そりゃ風邪もひきますよ。」

「自分の管理が出来ない人じゃないのにね…。見舞いに行ってこようかしら。」

「あっと、それはやめた方がいいかも。」

「なんで?」

「来なくていいって言ってたし、行っても、いつものように部屋には入れてもらえませんよ。」

「そうかしら…。でも三室くん。今の電話、いったい誰と話してたの?」

「うっ、そりゃあ社長に決まっているでしょう。」

「そう…あなたいつからCEOとタメぐちきけるようになったの?」

 三室はたまらず会議室から逃げ出した。

 

 往診に来た医師が一日休めば熱もさがるだろうと言ってくれたので、真奈美もとりあえずひと安心だ。医師は注射を一本打ち、解熱剤の処方箋を書いて、診療所に戻っていった。真奈美は、枕元にミネラルウオーターと水に濡らしたハンドタオルを置いて、時折額に集まる汗を拭きとったりしながら、秋良に付き添っていた。

 秋良がかすかにうめいた。真奈美は読んでいた本を閉じて秋良をのぞきこむ。彼は、薄眼をあけて、わずかに口を開いた。真奈美は、ミネラルウオーターのペットボトルにストローを差し込んで、彼の口にあてがう。秋良は、喉を鳴らして水を飲んだ。真奈美が秋良の額と首筋に手をあてたが、彼の熱はまだ下がっていないようだ。しかも、身体全身に汗をかいていて、パジャマも濡れていた。

「おまえ…なにを…やめろ。」

 秋良が怯えて、自分のパジャマを脱がし始めた真奈美を制止する。しかし抵抗しようにも、熱のせいで声も弱々しいし、解熱剤が効いていて身体が動かない。真奈美は彼の困惑にも構わず、パジャマを脱がせて、固く絞ったハンドタオルで汗にまみれた彼の身体を拭いた。そして、真奈美の手がブリーフに掛かると、さすがに秋良も、力を振り絞って精一杯の声を出して彼女を脅した。

「おまえ…それ以上やってみろ…殺すぞ。」

「脅しているつもり?どちらかと言うと、懇願にしか聞こえないわよ。しょうがない、武士の情けでタオル掛けてあげるか…。」

 真奈美は秋良の腰をタオルで覆うとタオル越しにすべての作業をし終えた。乾いた身体に乾いた下着とパジャマでさっぱりした秋良は、また眠りに落ちた。

 真奈美はしばらく秋良の寝顔を眺めていた。出会った当初なら、恐れ多くて近づくこともままならなかったが、いまでは息がかかるくらいに近づいても平気だ。真奈美はさらに顔を近づけた。よくよく見ると不思議な顔だ。彫刻のように彫の深い精悍な顔と、長いまつげがゆれる少年のような愛くるしい顔の両方を持ち合わせている。

 真奈美は、今まで体験した彼との様々なシーンを想い返してみた。ほとんどケンカしているようなシーンばかりだ。しかし今想えばそれは、残忍と思えるほどクールな秋良が、他の人には見せない人間臭い部分を、真奈美だけに見せていたような気がしている。そう…遥か天空のオリンポス神殿に住んでいたアポロンが、人間の娘を見染めて地上に降りてきたのよね。真奈美は、秋良の顔を眺めながらそんな妄想を楽しんでいた。

 真奈美はもっと顔を近づけた。薄い寝息が聞こえてくる。彼の顔の熱が自分の肌に感じられた。わずかに伸びたひげが見受けられたものの、なんてキメの細かい肌をしているのだろうか。考えてみれば、真奈美は男性の顔をこんな間近で見た経験が無い。彼の発する熱とは違う熱が、彼女の顔を火照らせた。

 そうよ、まともに男性とキスもしたことがないまま、赤ちゃんを産むなんて悲しすぎるわ。今なら彼も寝ているし、チャンスかもしれない。この悪党にだって責任があるんだから、すこしばかり玩具にしても問題ないわよね。真奈美が誰も居るはずのない寝室を見回して、ふたりだけであること確認する。次に秋良の顔をしばらく見つめて、彼が本当に寝ている事を確認した。なぜか心臓の鼓動が高まる。これ以上眺めていたら、キスする前に気絶しそうだ。真奈美は、ゆっくりと自分の唇を、秋良の唇の上に重ねた。

 キスをすると鐘の音が聞こえる。高校時代にそんなことを友達から聞いてはいたが、そんな甘いもんじゃなかった。真奈美の脳下垂体で爆発が起きた。触れるだけのこんな軽いキスなのに、なんでこんな水爆級の爆発が起きるのか…。身体が溶けるを通り越して、蒸発しそうだ。決して長いキスではなかったはずなのだが、触れていた秋良の唇がわずかに動いた。

「これ以上…俺の熱を上げてどうするんだ…今はキスよりも…水をくれ…。」

 真奈美は飛び上がって顔を離した。恥ずかしさのあまり、真奈美の顔がゴーストライダーのように炎に包まれる。ペットボトルを彼の口に添えると、濡れタオルを替えると理由を付けて、キッチンへ逃げ出した。

 

 どれくらいたったのだろうか。再び秋良が目を覚ました。今は頭がすっきりして身体もだいぶ軽くなっている。熱が引いたようだ。横を見ると、真奈美がまくら元で秋良の顔を、心配そうにのぞき込んでいた。真奈美は、体温計で熱が下がったこと確認すると、秋良にニッコリと笑いかけた。

「だいぶ良くなったみたいね。さあ、次は体力をつけなくちゃ。」

 そう言って部屋を出た真奈美は、キッチンからスープをお盆に載せて戻って来た。

「はい、あーん。」

 真奈美は秋良の口にスプーンを差し出す。秋良は、赤ちゃんがイヤイヤをするように、口を閉じて顔を背ける。

「手作りのパンプキンスープよ。美味しいから、ね。食べてみて。」

 秋良はそれでも、口を開こうとしない。

「家に帰ってきてから何も食べてないんだから、栄養つけなくちゃ…。私の料理は餓死しても食べたくないってことは良くわかっているけど、今回だけでいいから、目をつぶって食べなさい。」

 秋良は断固として拒否の姿勢だ。

「この悪党、私は怒ったわよ。」

 真奈美は、秋良のベッドに飛び乗ると、嫌がる秋良の顔をわきに抱えて押さえつける。まだ完全ではないとはいえ、秋良の男の力で真奈美の抑え込みなど跳ね返すことは簡単だった。しかし、真奈美の脇で挟まれた自分の頬が、真奈美の柔らかい乳房にあたると、なぜか抵抗する気力も力も消え失せていた。

 真奈美が、パンプキンスープを無理やり秋良の口に流し込む。秋良が少しむせた。

「わかった…俺の負けだ。素直に食べるから。」

「最初からそう言えばいいのよ。」

 真奈美が抑え込みを解いて椅子に戻ろうとした。

「ちょっと待て…。今の態勢が一番…飲みやすい。」

「へんね、何が狙いなの?」

「別に…。」

「いやらしいこと考えてない?」

「馬鹿言うな、熱で苦しむ病人からキスを奪うような奴に言われたくない。」

「ぐっ、返す言葉が見つからない…。」

 赤くなる真奈美を見て、秋良が笑った。真奈美に初めて笑顔を見せたのだ。真奈美は脇の間で秋良の頭を抱えると、スプーンを彼の口に運んだ。

「おい…ちょっと、熱いぞ。」

「そう、ふー、ふー。はい、どうぞ。」

 真奈美が口で冷ましたスープを、素直に口に含む秋良。この日を境に、彼らの関係性が徐々に変化していった。

 

 秋良と暮らすマンションのそばのスーパー。野菜売り場で、真奈美は悩んでいた。思いのほか野菜が高い。秋良に野菜の料理を食べさせたかったのだ。

 回復した秋良が仕事に出る朝、スーツに着替える前に彼は黙ってキッチンのダイニングテーブルに座った。驚く真奈美に視線で『会社に遅れる。はやく朝飯を出せ。』とサインを送る。慌てて真奈美が準備した朝食を、新聞を読みながら黙って食べ始めたのだ。それ以来、秋良は朝晩のほとんどを家で食べるようになった。

「真奈美、いい加減野菜売り場の前で悩む癖はやめろ。」

 振り返ると秋良がいた。そう、秋良が初めて真奈美のスープを口にした以来、変わって来たことがあとふたつある。帰ってくる時間が日に日に早くなってきたことと、名前で彼女を呼ぶようになったことだ。

「あら、早いじゃん。」

「仕事はあるんだが、家でやろうと思って…。」

「それじゃ夜食も考えなくちゃね。」

 ふたりは並んでスーパーの各売り場を巡った。前のように、秋良が無造作に買い物かごに食材を投げ込むようなことはしない。今ではメニューも、買う食材の品定めもすべて真奈美にまかせていた。

「いつも思うんだが、真奈美の料理はちょっと薄味じゃないか。」

「そう…。秋良さんは味が濃い方がいいの。」

「もう少しな…。」

「わかった。しかし意外だわ…食事に関心のない人が、私の手作り料理をちゃんと味わっていたなんて。」

 秋良は笑って返事を返さなかった。最近よく話すようになったふたりだが意図的に仕事の話しは避けていた。やがてやって来る日を思い出させるような話しは、ふたりにはちょっと重たいようだ。

「おい真奈美、デザートにキウイが食べたくなった。」

「ちょっとぉ、フルーツ売場の前で言ってよね。戻らなきゃならないじゃない。ホントに我がままなんだから…。」

 真奈美がバタバタとフルーツ売場へ駆けて行く。実は秋良は、真奈美が発する鈴の音を楽しんでいたのだ。動くごとにチリンチリンと可愛い音を立てる鈴が、姿を見ているより確かに彼女がそこにいることを実感させてくれる。家の中でも、水が欲しいとか、タオル持ってこいと真奈美に言いつけることが増えた。真奈美は人使いが荒くなったと文句を言うが、実は鈴の音がすれば遠ざかっていた秋良が、いつしかその音を近づけたいと思うようになっていたのだ。

 やがてニュージーランド産のキウイとともに鈴の音が戻って来た。ふたりは買い物のレジを終えると、真奈美が家から持ってきたエコバッグに詰めて自分達のマンションへ向かった。

「昔ね、妹がオーストラリアやニュージーランドの人は、キウイは皮を剥かないでそのままかじって食べるって話しをテレビで見たらしくて…。しかもその方が栄養にも良いって。」

「俺に出す時面倒だから、そんなこと言っているんじゃないだろうな。」

「そんなことないわよ。それで試してみたのよ。」

「馬鹿な…」

「繊毛のある皮が口に不気味で、酸っぱくて…。翌朝お腹を壊して学校に行けなかったことを思い出すわ。やっぱ、民族によって体質がちがうのね。」

「ガセネタに踊らされたな…。俺にオーストラリアの友達がいるが、そんな習慣ないぞ。」

「えっ、ホント?妹に騙されたわ。」

 真奈美が空を見上げて遠い目つきをした。

「お母さんやミナミはどうしているかしらね…。」

 そんな真奈美を見て秋良が少し不愉快な顔をする。

「家族に会いたいか?」

「…ごめんなさい、もう言わないわ。契約は守らなくちゃね。」

「ミナミって妹か?」

「ええ。」

「姉さんを騙すなんて…いったいどんな妹なんだ?」

「悪い子じゃないわよ。」

「俺が説教してやる。」

 ふたりがマンションの玄関に着くと、レジデントコンシェルジェともめている少女が目に入った。

「ちょうど良いわ。説教してあげて。」

 真奈美はそう言うと、笑顔で少女へ向かって駆けていった。

 

 モダンなオープンキッチンで立ち働く真奈美の後ろ姿を、ミナミが驚き顔で眺めている。真奈美はミナミを部屋に入れてくれた秋良に感謝した。もっともそんな彼は書斎に入ったきり出てこない。ミナミはやがて部屋中を眺めまわしインテリアのひとつひとつを値踏みしているようだ。

「すごい部屋ね、お姉ちゃん。この部屋で暮らしているの?」

「…住み込みの家政婦みたいなものよ。」

「家政婦の買い物に主人が付き合ったりするの?」

「それに…ふたりで寄り添って帰って来る姿は、尋常じゃなかったわよ。」

「しかも…家政婦がメインの寝室のでっかいベッドで寝ていいの?」

 矢継ぎ早なミナミの追及に真奈美もたじろぐ。

「まあ、いろいろあって…。」

「あの男の人誰?」

「社長さんよ。」

「まさかお姉ちゃん、あの社長さんの愛人?」

「ミナミ怒るわよ。」

「いずれにしろ、私の学費もお母さんの治療費もあの社長さんから出てるのは間違いないようね。」

「でも安心して、私の仕事に対する正当な報酬だから…。」

「まさか家事の報酬じゃないわよね。仕事ってなに?」

 真奈美は、ミナミの質問には答えず、逆に質問を切り返してごまかした。

「でも、よくここが解ったわよね。」

「たったふたりの姉妹だもの…お姉ちゃんが何処へ行っても探し出すわよ。」

「お母さんは?」

「今、重粒子線治療で群馬に入院中よ。だいぶ良くなったみたい。」

「そう…よかった。なら、晩御飯食べていくでしょ。テーブルを片付けて…。食器も並べてくれる。」

 姉妹は、小さなアパートの台所に戻ったように、楽しくおしゃべりしながら晩御飯の用意をした。

 

 ミナミは斜に座って食事する秋良を興味深く観察した。洗練された部屋着を身にまとい、リラックスしたα波を全身から発する彼は、表参道を闊歩していた時の鋭さとは違った魅力を感じさせる。

「あのぉ、わたしミナミって言います。姉がお世話になって…。」

「ああ。」

 男はワイルドの方が絶対いい。秋良の無愛想な返事もミナミは好感が持てた。

「わたしのこと覚えてません?表参道の高級カフェでご馳走してもらっちゃって…。」

「えっ、ミナミ。秋良さんとそんなことあったの?」

「俺は女の顔を覚えられない性質なんでね。」

 かっこ良過ぎ。こんなソリッドで金持ちのお義兄さんが欲しかったのだ。

「まさかミナミ…また、スカウトに出会うために、街をうろついているんじゃないでしょうね。…あっ、秋良さん、ニンジン残しちゃだめ。もう大人なんだから、好きなものばかり食べないで、多少嫌いでもちゃんと食べなきゃ。」

 秋良はキッと真奈美を睨むも、ため息をつきながら目をつぶってニンジンを食べた。それを見たミナミが目を丸くする。嘘、信じられない。こんな格好いいソリッドな金持ち男を、手のひらの上で操ってる。なんてお姉ちゃんは凄いの…。ミナミは勝負に出た。

「実はさぁ、ミュージックスクールの生徒の臨時募集があってさ…。」

「だめよ。そんなお金どこにあるの?」

 姉は瞬時に却下する。

「だいたい…申し訳ないと思うけど…お母さんの面倒を見ながら、学校に通って、スクールに通う時間がどこにあるの。」

「お母さんの看護や学校に、手を抜かないことには約束するわ。お姉ちゃんのところに来る時間は無くなると思うけど…。」

 最後の言葉に秋良が反応した。

「そこまで言うなら…良いんじゃないか…。」

「秋良さん!」

「俺がなんとかしてやるから、スクールへ行け。」

「きゃーっ、お義兄ちゃん素敵。」

「おい、いつから俺は…。」

「スクールに通うのにピッタリのプラダのバッグがあるの、それもよろしく。」

 この図々しさがあるがゆえに、この姉妹は借金地獄を生き抜けてこられたのだ。秋良は改めて納得した。

 

 いつものように秀麗の締めで定例会議が修了した。マネージャー達が席を立って持ち場へ戻る中、秀麗が秋良に近づく。

「いよいよ、明日ね。」

「そうだな…。」

「明日は朝からマレーシアへ飛ばなければならないけど、私抜きで大丈夫?」

「ああ、いつものことだろう。」

「ウテルスの体調は万全なの?」

「真奈美の準備も良いようだ。」

 秀麗が眉間にしわを寄せて秋良を見る。ウテルスを名前で呼ぶなんて…。

「ところで気になっていたんだけど…。」

「なんだ?」

「秋良の右そでのボタン…似ているけど他のボタンと同じじゃないわよね?」

 秋良はとっさに、ワイシャツの袖をジャケットの中に隠した。

「まさか自分でボタンつけたの?」

「悪いか?」

「ボタンが取れたら、その場でシャツを捨てていた秋良がねぇ…。」

 いつまでも秀麗の疑いの眼差しに曝されて、ばつが悪くなった秋良はレストルームへ逃げ出した。

 

 その日の夜、秋良は、外で食事を取ろうと、真奈美を呼び出していた。Xデーの前日は、外で食事をした方が、気がまぎれるだろうと配慮したのだ。秋良は、この日は高級志向をやめてカジュアルに食事ができる場所を選んだ。乃木坂の『ピッツァリア1830』。ここは薪窯で焼き上げる本物のナポリピッツァ提供してくれる店で、有機野菜のバーニャカウダとともに、秋良のお気に入りである。そして、話し好きの真奈美が、周りに気を使わず思いっきり喋れる雰囲気なのが嬉しい。

 秋良は、外苑東通りから店内を見た。真奈美はすでに座っている。自分のスマートフォンに耳をあて、どうやら秋良が残した、少し遅れるというメッセージを聞いているようだ。清楚な花柄のワンピースを身にまとい、背筋を伸ばして座るその美しい姿を、初めて宅配便のユニフォームでやって来た時に想像できただろうか。秋良は遅れているにもかかわらず、その場から動かず彼女を見守っていた。

 スマートフォンをバッグにしまった彼女は、テーブルキャンドルの揺れる灯に照らされて、幾分か表情が不安そうに見えた。しばらくすると、彼女が顔を上げ外に視線を向けた。そして、外のガードレールに腰掛けて見つめている秋良を見つけると、真奈美の表情がぱっと明るくなった。観賞を諦めた秋良は、片手をあげて挨拶し店内へ入っていた。

「いつから、あそこにいたの?」

「今…来たところだ。」

「嘘つき…。」

 秋良はフロアスタッフを呼ぶと、ミネラルウオーターの空き瓶を持ってこさせた。そして、後ろ手に隠し持っていたかすみ草を出すとその瓶にさした。

「わあ…、わたし、男の人からお花をプレゼントされたの初めて…。」

「真奈美へのプレゼントじゃない。テーブルの飾りだ。」

「なによ…照れてるの?」

「馬鹿な。」

 秋良は、真奈美の突っ込みに迷惑そうな顔をしながら、オーダーのためにフロアスタッフを呼んだ。真奈美は、嬉しそうにいつまでもかすみ草を眺めている。

「ねえ、かすみ草の花言葉知ってる?」

「知らん。」

「喜び…無邪気…感激…切なる願い。よく出産祝いに贈られる花なのよ。」

 秋良は真奈美の顔を見た。やはり、明日のことが頭から離れないのだろうか。

「緊張しているのか?」

「覚悟は出来ているけど…やっぱりね…。」

 不安な顔をする真奈美に、秋良は、バーニャカウダのディプソースをたっぷりつけた有機野菜を差し出した。

「ほら、食べろ。」

「秋良さんは、ニンジンが嫌いだから私に押し付けるわけ?」

「いいから…。」

 真奈美は笑いながら、秋良が手に持つ野菜をかじる。秋良は手に残った野菜を自分の口に入れた。たった2週間の同居ではあったが、ふたりはこんなことが自然にできるようになっていだ。

 真奈美は、ナイフとフォークをテーブルに置くと甘えるような声で言った。

「ねえ、お願いがあるんだけど…。」

「プラダのバックはダメだぞ。」

「違うわよ。」

「なに?」

「誰かのタマゴだとしても、私のお腹の中にいる間は私の赤ちゃんでしょ。」

 秋良は黙って聞いていた。

「私の赤ちゃんの時は、パパがいないと可愛そうな気がするの。その間だけでいいから、赤ちゃんのパパになってくれない?」

 絶句する秋良。

「ただ出産までそばにいてくれて、たまにお腹に話しかけたり、触ったりしてくれればいいのよ。」

「…何言ってるんだ。」

「最初から最後までをしっかりと見届けるのが、この世界に引き込んだものの最低限のマナーだって言ってたじゃない。」

「それはお前が言ったんだぞ。」

「お願いします。」

 真奈美がテーブルに両手を付いて頭を下げた。秋良にはその肩がやけにか細く感じられた。

「どんなに頼まれても、親父のマネは出来ない。しかし、最後まで見届けるという約束は守る。」

 真奈美が顔を上げた。半分の失望と半分の安堵で、その瞳には複雑な光が浮かんでいた。真奈美は、食事を再開する。

「ねえ、私がどんな女子高生だったか知りたい?」

「話したければ、勝手に話せ。」

 真奈美は、秋良に勢いよく喋りはじめる。しかし、話しながらかすみ草のもうひとつの花言葉を想い出した。それは『きよらかな恋』。秋良と自分の間にある花としては、およそ似つかわしくない花だと真奈美は感じていた。

 

 その日は朝から雨が降っていた。真奈美と秋良は昨夜とは違って、お互いにひとこともしゃべらず朝食をとった。視線も合わさず、『三室が迎えに来るから』とだけ言って出ていった秋良。バスケットの試合じゃあるまいし、こんなこと頑張れなんて励まされるようなことじゃない。別に彼に何を求めていたわけではないが、真奈美はまた突き放されたような気分になっていた。

 彼女はなんとなく身を清めなければいけないように思えて、バスタブに浸かって、入念に身体を洗った。髪を整え、真っ白な肌着を付けて、化粧の無い顔に薄い口紅を引く。足にはめた鈴のアンクレットを外しながら、こんなことを言ったら故人に失礼だが、切腹に向う武士の心境ってこんな感じかしらと思ったりもした。

「さあ、行こうか。」

 迎えに来た三室の言葉に背中を押され、真奈美は車に乗った。車窓についた雨粒ひとつひとつに街の景色が映る。車が停止と発進を繰り返すたびに、雨粒の街が一斉に後方に流れていく。街に雨が降っているのか、雨の中に街があるのか、そのうち真奈美は解らなくなってきた。

 車の後方シートで真奈美は頭を振った。雨が降っているから、こんな気分になるんだ。自分で受け入れたことだから、絶対後悔はしない。もっと軽く考えよう。真奈美は初めて秋良に会った時、彼が言っていたことを思い出した。『貸し出す前も後も、健全な身体のままだ。』そう、これはただの仕事だ。一時的に自分の身体を貸すだけなんだ。しかも、それだけのことで家族が救われる。母が高度先進医療をうけられて、死なずに済むのだ。

 そう自分に言い聞かせる一方で、真奈美の胸に、大磯先生に言った言葉が響く。『わたしは愛している男の人の子供しか産みませんから。』いくら言い聞かせても、徐々に潮が満ちていくように、倫理の波が真奈美の心に迫って来るのを止められない。

「顔色が悪いぞ。車に酔ったか?窓を開けるか?」

 三室が心配そうに声をかけた。

「いいえ…大丈夫です。」

 真奈美はルームミラーに映る心配顔の三室に笑顔で答えた。

「あの…聞いてもいいですが?卵のご両親は、この前特別室でお会いした方ですよね?」

「悪いな…顧客情報は答えられないんだ。」

「そうですか…。でも、こころから自分達の赤ちゃんが欲しいと思ってらっしゃるんでしょ?」

 真奈美は倫理の波に溺れないように、是が非でも、善良な悩める市民へ貢献している実感が欲しかった。

「ああ、もちろんだよ。でも…赤ちゃんが必要な理由は様々だけどね。」

 三室の答えが直球でなかったことが、わずかに真奈美の心に引っかかる。

「もし、私でうまくいかなかったらどうするんですか?」

「いつもなら、別なウテルスでもう一度トライするんだが…今回はそうはいかない。」

「どういうことですか?」

「特別なお客さんでね…今回をしくじったら、この会社どころか、社長が存続できるかわからないほどの影響力があるんだ。」

「影響力?」

「いや、森さんには関係ない話しだから気にしないで…。会社の問題だから、森さんはただ普通にしていてくれればいいんだよ。」

 三室は自分自身に舌打ちをした。いつになったら、このひとこと多い自分から解放されるんだ。

 

 車がクリニックに着いた。出迎えた看護師は、真奈美を病衣に着替えさせると、先進的な医療機器が並ぶ処置室に誘導した。処置室には、大きな鏡がある。真奈美は自分の姿をしばらくその鏡に映して見た。前と後とでもこの身体は変わることがないと秋良は言った。しかしこの身体の中にあるこころが、変わらないという保証を誰も言ってくれない。真奈美は鏡から目を背け、宇宙船のシートのような処置椅子を眺めた。座り心地は良さそうなのだが、産科椅子のように両足をそれぞれに載せる台が有って、処女の真奈美にしてみれば、かなり抵抗がある。躊躇する真奈美を、看護師はやさしく手を貸して座らせ、椅子を囲むようにカーテンを閉じた。

 耳元を覆うスピーカーから聞こえる森を流れる小川の音。腰もとをかすかに揺らす振動波。何処から漂ってくるのかラベンダーの香り。受精卵のスムーズな挿入を助けるように設計された数々の仕掛けに身をゆだね、真奈美は目をつぶって、出来るだけ頭を空にするように努めた。

 やがてカーテンが開く。いよいよだ。真奈美は大きく息を吸う。看護師は、その手を優しく真奈美の肩に添えて言った。

「森さん、今日は中止になりましたよ。」

 真奈美の全身の力が抜けるように感じた。このまま身体が溶けて、処置室の排水溝へ流れ出てしまいそうだ。説明できない笑みが、真奈美の顔いっぱいに広がった。

 

「ですから…ご主人の凍結精子を解凍して奥様の卵子と体外受精し、8細胞期胚、桑実胚、胚盤胞へと順調に育ったことを確認して再凍結しました。」

 守本ドクターは額の汗を拭った。暑さの汗ではなく、寒気からくる汗だ。  

「昨日それを解凍して生体活動を確認し、今日に備えたものの、ハッチングを見せず…。今朝になって完全に分割が止まって生体反応を失ってしまいました。…いただいたご主人の凍結精子に欠陥があったとしか…。」

 処置室の大鏡の内側で、守本ドクターが必死に代議士夫人に説明している。この部屋は、マジックミラーを通して受精卵が代理母に挿入されるのを、依頼者が確認できる仕組みになっている。代議士夫人は、鏡の内側から、笑顔で椅子から降りる真奈美を、無表情で見下ろしていた。

「約束通り、2週間後に私の目の前であの田舎娘を妊娠チェックして、妊娠したという結果を見せて。」

「ですから、奥様…。」

「説明なんか要らない。あんた方プロでしょ。結果だけ見せて。」

 代議士夫人は、同席する秋良に向き直って言った。

「プロとして結果が出せないなら、私は約束通りのことをするだけよ。」

 代議士夫人の威嚇的な視線を一身に受ける秋良。その間に守本ドクターが必死に入ろうとする。

「ですが奥様、代理母はいても、着床させる受精卵もありません。今度は、直接おふたりの卵子と精子をいただいて、当クリニックで受精させれば、確実に来月には着床が可能かと…。」

「主人に採取できる精子なんかあるわけないでしょ。」

「はいっ?」

「それに、これ以上私の身体の中を探られるなんてとんでもないわよ。もともと渡した凍結精子は、夫のものじゃない。遺伝子なんてどうでもいいの。生まれてきた子供の遺伝子検査なんてやらないし、絶対にさせない。主人はあの田舎娘から出てきた子供が自分達の子供だと思い込んでる。だから、あの娘から出てきた子で血液型さえあっていればそれでいいの。障害児だろうがなんだろうが、どんな子が生まれてきてもまったく構わない。だいたい、大臣経験のある政治家の夫婦が、こんなわけのわからない会社を、法の隙間を縫ってまで選んだ理由がわかっているの?」

 代議士夫人は、秋良と守本を交互に睨みつけた。

「どんな子であろうと、実子として戸籍に入れられるからよ。どうしても10カ月後の戸籍に、実子として子供の名前が表記されなければならない。私たちは子供が欲しいんじゃないの。戸籍が欲しいの。」

 秋良も守本ドクターも、興奮してまくし立てる代議士夫人に押されて、黙って見つめていた。

「わかったら、さっさとあの田舎娘を椅子に戻して、誰かの受精卵を入れなさい。2週間後にあの田舎娘が妊娠した証拠を見せることが出来なければ、あなた達に明日は来ない。主人も言っていたわ、結果が出せないプロは、生存の価値はないってね。」

 それだけ言い放つと、代議士夫人は席を蹴って部屋を出て行った。

 

 部屋に残された秋良と守本ドクター。やがて事務スタッフが、接客用に出したコーヒーカップを下げに入って来た。

「三室はどこにいる?」

 秋良がスタッフに聞いた。

「さきほど森さんを家に送りに行かれましたが。」

「そうか…。」

 事務スタッフが部屋を出るのを確認すると、守本ドクターがため息をつきながら口を開く。

「どうしますか?CEO。」

「とりあえず彼女を呼びもどすか…。」

「呼び戻しても、胚盤胞の冷凍ストックなんてありません。」

「血液型の適合する冷凍精子は?」

「彼女をサロゲートマザーにするんですか…。契約違反ですよね。彼女が納得するわけが無い。」

「あくまでも選択肢の検討だ。」

「ご存じのように精子は女性の体内で3日から5日の間生存しますが、卵子が生きられるのはわずか12時間から24時間程度です。彼女は今日排卵日だから、もう排卵しているかもしれない。彼女は母方の血液型に適合しているからいいですが、父方に適合する凍結精子を探しだして、解凍し、今夜中に彼女の卵子に振りかけるなんて不可能です。」

「父方の血液型は?」

「A型です。」

 秋良は黙って考え込んでいた。

「あーあ、2週間後に姿を消せるように準備するしかないか…。」

 守本ドクターの嘆きも耳に入らないかのように、秋良はただ黙って考え続けていた。

 

 家に帰る際にも雨は降っていたが、同じ雨なのに真奈美には、その雨が今度はダンスを踊っているように感じた。単にXデーが延期になっただけとは理解しているが、少なくとも1カ月先までは、今のままの自分でいられることが嬉しかったのだ。そして何よりも、今の自分のまま、また1カ月秋良との生活が続けられることが、彼女の心を軽くしていた。

 秋良が心の底に秘めた本来の姿を真奈美にさらけ出した夜以来、あのクールでスマートな秋良が、こどものように真奈美に甘え出した。それは彼が自分だけに見せるものであることがわかるだけに、余計に彼が愛おしい。短くはあるが彼との生活で、いつからか、彼を自分の男であるかのように感じ始めていた。家に帰ると、軽やかな気持ちで、やがて帰って来るはずの秋良のために、食事の準備を急いだ。

 

 秋良は新宿ゴールデン街の母の営む店の前に佇んでいた。守本ドクターに、『心配するな。手は考えるから…。』と言ったものの、思案にくれてあちこちを彷徨い歩いた。そしてひとつの解決策を持ってここに来た。秋良はそれを実行する為に、自分の母親から何か確信のようなものを得ようとしていたのだ。

 自分は、親に世話になったという記憶が無い。独学、バイト、奨学金。まさに自分の力でここまでやって来た。父親など顔も知ることなく、自分を捨ててどこかへ消えた。母親は、無くなった弟がお腹にいる時でさえ、家に居つくことなく男の尻を追いかけていた。たまに家に居ても、迷惑そうな目で自分を見ていたことばかり憶えている。秋良は確かに母親の胎内から生まれたのかもしれないが、こちらから頼んで産んでもらったわけではない。勝手に産み落としながら、なぜ迷惑そうな顔をされなければならないのか。

 店から男と母親が姿を現した。母親は店を出る男を引き留めるように、その腕を取っている。男は、腕を引き離して立ち去ろうとするが、母親がなにやら必死にその男に話している。そして、何枚かの万札を男に見せると、それを男の胸ポケットに入れた。男は、固い表情を和らげると腰に手を回し、母親の尻を何回か撫ぜて歌舞伎町の街に消えて行った。やがて男の姿が見えなくなり、母親は大きなため息をついて店に戻って行った。

 母親はお金の無心の時だけ連絡をよこす。店の運用資金とは言うが、店の売上をあのように吐き出していれば、当然資金など無くなる。つまり、母親は自分が男に貢ぐ金を秋良に無心しているようなものだ。

 あの母親にしてみれば、自分はたまたま金を持っている無心相手であり、自分がいなければ別の無心相手を探すだけのこと。自分にしてみれば、母親の存在は迷惑でこそあれ、それ以外はなんの意味もない。所詮、人と人の関係は、利用するか、それとも利用されるかに過ぎない。

『血のつながった親子って特別な関係なのか?』

 秋良はそう呟くと、店を背にして歩き始めた。母親を見て、自分が期待していたものが得られたからだ。

 

「お帰りなさい。食事が出来ているわよ。」

 帰って来た秋良に真奈美が恐る恐る声をかけた。きっと不機嫌に違いない。今日の失敗が秋良に与えた影響を心配していたのだ。しかし意に反して秋良は笑顔で答えたが、その声には張りが無かった。

「まずシャワーを浴びる。」

 いつも手と顔を洗うだけで、シャワーは朝なのに…。真奈美は普段と違った行動パターンをとる秋良を不思議に感じたが、こんな状況だから気分転換をしたいのだろうと考えた。きっと問題はまだ解決していないのだ。

 濡れた髪のまま食卓につく秋良。少しウエーブのある前髪が瞳にかかる。髪の毛の隙間から見える瞳が、いつにもまして緑を濃くしているように感じる。本当にいい男だ。真奈美はしばし箸をくわえたまま秋良を眺めていた。

「俺の顔に何かついているか?…。」

 真奈美は慌てて箸を動かして、自分の食事を再開した。

「おい真奈美。水をくれ。」

 真奈美は、ミネラルウオーターを取りに行く。

「おい真奈美。味噌汁が冷めた。温め直してくれ。」

「おい真奈美。この箸気に入らない。取り替えてくれ。」

 真奈美が座れば注文を出し、また座ればモノを言いつける。半分いじめのように用事を言いつける秋良に真奈美もたまらず言い返す。

「何よ、上手くいかなかったから、私にあたってるの?」

「いや…。」

「だったら何でゆっくり食べさせてくれないのよ。」

「鈴がね…鈴の音が聞きたいんだ。」

「どうして?」

「聞けるのも今夜が最後かと思って…。」

 失敗したから、当分代理母としての自分は必要なくなったのだ。この家から出されるのだと真奈美は理解した。今まで浮かれていた気持の半分が消し飛ぶ。また突き放された気分になった。しかし、妻でも愛人でもない自分がここで駄々をこねても仕方がない。秋良との共同生活が終わるのは辛かったが、それでブルーになった自分を、彼に気付かれないようにしなければ。

「だったらたっぷり聞かせてあげるから…。」

 そう言うと真奈美はキッチンの少し広いフロアに立った。腰に手を当ててポーズを作る。秋良は何が始まるのかと彼女に注目した。

「オッパ、カンナムスタイル! エーオ!」

 真奈美はいきなり江南スタイルを歌いながら踊り出した。これにはさすがの秋良も笑い出す。

「どう?満足した。」

 ひと通り踊り終えた真奈美は、ハアハア言いながら食卓に戻る。

「ああ、満足だ。」

 真奈美は額に浮かぶ汗を拭って、水をごくっと飲み干した。

「仕事のこと聞いてもいい?」

「ああ」

「今日は延期になったけど、私はどうなるの?」

 秋良の食事をする手が止まった。

「延期にはできないんだ。」

「どういうこと?」

「この仕事を延期するわけにはいかないんだよ。」

 真奈美は、ふとクリニックへ向かう車の中で、三室が言っていた事を思い出した。『今回をしくじったら、この会社どころか、社長が存続できるかわからない。』それがどういう意味なのか、あの時の真奈美には理解できなかった。しかし今、静かに話す秋良の口調に、真奈美は凍えるような恐怖を覚えた。

「この仕事のお客さんは、どうしても10カ月後に子供が必要らしい。そのために悪魔に魂を売り渡してきたそうだ。」

 秋良が真奈美を見た。その瞳が今まで真奈美が見たこともないような狂気に覆われていた。

「何が何でも今夜、真奈美には妊娠してもらわなければならない。」

 真奈美が身を固くして身体を後ろに反らした。

「どういう意味?これからクリニックへ戻れって言うの?」

「いや、クリニックに戻っても、使える受精卵なんてない。」

 真奈美は席を蹴った。

「じゃあ、どうやって私を妊娠させるつもりなの?」

「真奈美の卵子を借りたい。」

 真奈美を見据えながら秋良が席を立った。真奈美は弾けたように飛びのけて、キッチンの食器棚にへばりつく。

「サロゲートマザーは契約にないはずでしょ。」

「そう言うわけにないかなくなった。」

「ふざけないで!私は絶対に嫌よ!」

 秋良が真奈美へにじり寄って行く。秋良のただならぬ殺気に、真奈美は自分を妊娠させる男が誰であるかを直感した。

「秋良、まさか…嫌よ!絶対に嫌!近づいてこないで!」

 真奈美は叫びながら、手に握れるものをかたっぱしから秋良に投げつけた。秋良はよけようとしない。皿が口に当たり唇が切れた。コップが額に当たり血がにじむ。真奈美の必死の抵抗にも表情を変えずに、ゆっくりと彼女に近づいていった。真奈美はキッチンの隅に追い詰められた。とっさに棚から果物ナイフを抜きだすと秋良に向けた。

「それ以上近づいたら刺すわよ。本気よ。」

 秋良はそれでも歩みを止めようとしない。真奈美はナイフを横に払った。秋良のシャツが裂け、胸の皮膚が切れた。しかし、それでも痛いとも言わず、表情も変えず、ただゆっくりと真奈美に近づいてくる。真奈美は悟った。狂気が秋良の心を覆い、もう彼は自分で自分を止められないのだ。だから心の奥底に隠れた良心が、このナイフを無抵抗に受け入れて、自分の死が自分を止めてくれることを願っている。こんな状況でも、真奈美はこの男を死なせるわけにはいかないと思った。しかしだからと言ってこのまま秋良を受け入れるわけにはいかない。とっさにナイフを自分に向けて叫んだ。

「どうしてもやる気なら、私は死ぬわ。」

 ようやく秋良の動きが止まった。見つめ合うふたり。真奈美が怯えた眼差しで秋良を見ると、不思議に彼の瞳を覆っていた狂気が消えていた。そして、あろうことか真奈美は彼の瞳の、奥の奥に自分への愛情の灯を見たのだ。後日、真奈美がそのことを秋良に告げても、彼は笑いながらも決して認めようとはしなかったが、真奈美はそれを一生確信し続けている。

「俺が生きているうちは、絶対に真奈美を死なせない。」

 彼はそう言いながら素手でナイフを掴むと、自分の手が切れることもいとわず、ナイフを真奈美の胸から退いた。秋良の身体から今まで感じていた殺気と、まったく別なオーラが感じられた。真奈美の心が秋良に吸い取られていくような気分だった。真奈美の身体の力が急に抜けた。そして、そんな崩れそうな彼女を秋良が抱きとめた。

「あなたはどうしても…そうしたいの?」

「ああ…。」

「そう…でも、レイプされて出来たなんて赤ちゃんが思ったら可哀想だわ。…だから『愛している真奈美。俺の子供を作ってくれ。』って言って。」

 秋良は真奈美を抱きしめながら、耳元で囁いた。

「愛している真奈美。俺の子供を作ってくれ。」

「だめ、心がこもってないわ…。」

「愛している真奈美。俺の子供を作ってくれ。」

「ちゃんと目を見て言って…。」

 秋良は、真奈美を抱きしめる身体を引き離し、その瞳に向ってしっかりと言った。

「愛している真奈美。俺の子供を作ってくれ。」

 ふたりの心の中で、なにかの鍵が開く音がした。

「いいわ…。あなたの赤ちゃんを産んであげる。」

 秋良は真奈美を抱き上げると寝室へと向かって行った。

 

 秋良が目を覚ますと、腕の中に裸身の真奈美がいた。秋良は、寝ぼけた頭でゆっくりと昨夜のことを想い出していた。真奈美の髪が、枕に広がり、秋良の身体にもかかっている。何の不快感もなかった。逆にその髪の一本一本が自分の身体の一部のような気さえしていた。

 昨夜の真奈美とのセックスは、今まで自分が体験したものとまったく異質なものだった。感じたことのない熱さと寛容の中で、意識が飛びそうなほどの喜びを味わった。子供を作るためのセックスを知らぬ秋良は、初めて意味のあるセックスがあることを知った。しかし、単に子供を作るという意識だけで、そんな喜びが生まれるわけではない。彼に喜びを与えたもうひとつの訳を、その時は気付けなかった。

 秋良は、真奈美の頭の下にある自分の腕を静かに抜いた。真奈美は胎児のように身を丸めて秋良に寄り添っていた。彼女の肩までかけ布団を引き上げると、秋良はじっと真奈美を見つめた。彼が過去に味わったことのないような得体の知れない感情が湧いてくる。慌ててシャワールームに飛び込んだ。

 シャワーを浴びると体中がヒリヒリする。自分の身体を見ると、あちこち傷だらけだ。朝になって冷静に考えてみると、真奈美の抵抗によく命を落とさなかったものだと思う。しかし最後に自分を受け入れた理由はなんだったのだろうか。今の秋良では、答えが見つかるはずもない。とにかく、これで彼女が妊娠してくれれば、10カ月の猶予が持てる。

 シャワーを浴び終えた秋良は、いつものクールな顔に戻っていた。

 

 真奈美が目を覚ました時、すでに秋良はベッドに居なかった。まず心に飛来したのは強烈な自己嫌悪と後悔だ。なんで自分は受け入れてしまったのだろう。昨夜の自分が信じられなかった。秋良と顔を会わせたくない。あたりを伺ったが、彼の気配が部屋の何処にもないことに感謝した。彼は仕事に行ったようだ。真奈美はため息をつきながら頭を掻きまくる。こんな時は熱いシャワーが一番だ。

 シャワールームへ入ると、床が濡れていた。秋良が使って、そう時間が経っていないようだった。秋良がシャワーにあたっている情景が目に浮かぶ。それが彼女に昨夜の事をまた思い出させた。昨夜は真奈美が初めてのことなのを知ってか知らずが、秋良が急がずゆっくりと彼女を導いてくれたことが嬉しかった。さすがに最初は異物感があったものの、やがて秋良の逞しい腕で抱きしめられているという意識が彼との一体感を生み出し、彼とともに至福の空を舞ったのだ。熱い水滴に身体を打たれながら、真奈美は自分の臍のあたりを見つめた。手のひらを臍の下あたりにそっとあててみる。生理学的にはあり得ないことだが、真奈美にだけわかる確信のようなものが、手のひらから伝わって来た。嬉しいのか、悲しいのか、真奈美にはよくわからなかった。

 

 定例のマネージャー会議が始まる。秋良は会議テーブルに両肘をついてふたりのマネージャーを待った。やがて守本ドクターと三室がエレベーターから現れ、それぞれの席に着いた。今日の議題は昨日の失敗への対応についてであることは、ふたりは良く理解している。それだけに座った時からふたりの顔には暗い影が射していた。時間になったので三室がクアラルンプールに居る秀麗とウエブを繋ごうとすると、秋良がそれを制した。

「秀麗とつなぐ前にふたりに言っておきたい。」

 守本ドクターと三室が秋良に注目した。

「森真奈美は2週間後に妊娠チェックをクリアする確率が高い。」

「なぜです?」

 守本ドクターが目を大きく開いて秋良に詰め寄る。

「理由はどうでもいい。」

「まさか社長…。」

 三室が非難めいた目で秋良を見つめる。秋良は構わず言葉を続けた。

「2週間後にクリアできなかったらアウト。クリアしたら10カ月の猶予ができる。猶予ができたら、俺はこのビジネスを整理しようと考えている。あの代議士夫人の性格を考えると、受精卵のからくりを知ってしまった以上、最終的にこの仕事の結果がどうであれ、俺たちを放っておいてくれるとは思えない。あの代議士夫人が手を下す前に綺麗に姿を消さなければならない。」

「ちょっと待ってください。」

 三室が秋良の話しを遮った。

「でも、ウテルスが妊娠していたら当然子供が生まれるわけで…。」

「生まれた子供をどうするかは、母親が決めればいい。手放したくなれば胸にいだいたまま逃げればいい。手放してもいいなら、代議士夫人は大喜びするだろう。」

「そんな簡単なことですか?」

 食い下がる三室。

「誰の意見も聞くつもりはない。チームが生きのびるための最善策を実践するのがCEOである俺の役目だ。」

 それがどんな理不尽な理屈であろうと、秋良の確固たる口調に押され、ふたりは黙らざるを得なかった。もう守本ドクターも三室も会話を続ける気力を失っていた。黙りこむ三室に秋良が向き直った。

「そこで、三室には特別な仕事を頼みたい。」

「なんですか…。」

「2週間真奈美をホテルに軟禁して、逃げないように監視してくれ。」

「2週間後の先はどうするんです?」

「真奈美の好きにさせるさ。逃げてもかまわない。中絶したってかまわない。最初のチェックだけクリアすれば、その後はエコーデータにしろ、膨らんだ腹の外見写真にしろ、合成や他からの転用で代議士夫人を騙せるからな。」

「社長命令に逆らうわけじゃありませんが、社長の部屋に軟禁したらどうですか…。」

「もう俺の顔など見たくもないはずだ。きっと殺される…。」

 三室は不承不承ながらも、社長の命令に従うことを了解した。

「それから、秀麗はやはり女だから、いくら最善策だと言っても、こんな話しには生理的に拒絶反応を示すだろう。事業を整理する話し以外は黙っていて欲しい。」

 ふたりの男は黙ってうなずいた。秋良はふたりの了解を確認すると、ウエブを繋ぐように指示を出す。

「あんたたち、いつまで待たせるのよ。」

 いきなり秀麗の怒った顔がモニターに飛び込んできた。

「悪かった…。実は秀麗、昨日の受精卵の挿入は成功したが、その後について俺の独断で決めたことがある…。」

 秋良が淡々と説明を始めた。

 

 三室に連れられ、帝国ホテルへやって来て2週間が経った。真奈美は、インペリアフロアのジュニアスイートで暮らして秋良の顔を見ずに過ごせたことが嬉しかった。自分の身に起きている事をとにかく整理したかったのだ。

 どんな理由であれ、契約を破った秋良は許せない。しかし、レイプと言うには、最後に受け入れてしまった自分や喜びを感じてしまった自分に負い目があった。すぐに警察へ駆けこめない理由がそこにある。憎しみなのか、未練なのか、秋良への感情の整理に時間が必要だった。だからこそ、復讐なのか、逃亡なのか、自分の行動も決めることができなかったのだ。

 やがて、ドアのノックとともに三室が顔を出した。

「さあ、妊娠チェックにいこうか。」

 三室は無表情に真奈美に言った。真奈美は素直にうなずくと、黙って彼に従った。お互い黙ったままクリニックへ着くと、馴染みのある看護師が馴染みのある処置室へ真奈美を誘導していく。例の大鏡の前で真奈美は自分を見た。鏡に映る自分の顔が、今まで自分知っている顔とすこし違っていると感じた。

 一方鏡の内側では、代議士夫人と秋良が真奈美を見ていた。秋良は久しぶりに見る真奈美の顔に、視線が吸い寄せられている。

 真奈美は守本ドクターの指示に従い、処置室のカーテンコーナーで尿と血液採取をおこなう。妊娠すると受精卵からhCG(ヒト絨毛性 ゴナドトロピンHuman Chorionic Gonadotropin)というホルモンが分泌されるが、守本ドクターは尿と血液の両面からこのhCGの検出を試みる。そして、大きく安堵のため息をつくと、その試験紙とデータ票を大鏡の前に置いて、鏡に向かってOKサインを出した。

 鏡のからくりを知らない真奈美はそんなも守本ドクターの振る舞いを不思議に思ったが、とにかく自分が妊娠している事が医学的に証明されたようだ。真奈美は驚かなかった。秋良の部屋でシャワーを浴びた時からもう解っていた事だから。

 

 三室に送られて再びホテルの部屋に戻ると、三室はすぐに部屋を出ずにリビングのソファーに座り込んだ。

「少し話しをしても良いですか?」

 いきなり切りだす三室に戸惑いながらも、真奈美は素直にソファーに腰掛けた。

「なんで敬語なんですか?」

「社長は自分にしてみれば、兄貴みたいなもので…。社長の子どもを身ごもっていることが分かった以上、俺にとっては姉さんになりますから。」

「何かヤクザみたいですね…。」

「いえ、自分はただの体育会系野郎なだけです。だから気にしないでください。」

「わかりました。」

「姉さんの人生に関わることなのに、簡単に言ってしまうようで申し訳ありませんが…」

 三室はうつむき加減に話しを続ける。

「これから先は姉さんの自由にしていただいて構いません。家に戻って子どもを産むのも、降ろすのも、そして会社の庇護のもとに出産して子どもを手放されても構いません。どんなご選択をされても、姉さんの被った被害については社長が充分な賠償をするはずですから。もともと社長はそんなに悪い人ではありません。どんなに商売が違法であっても、こんなことをするような社長ではないのに、なぜ…。」

 三室は真奈美の顔色を伺った。真奈美はキツイ視線ながらも、どうぞとうなずいて発言を促した。

「なぜ、こうなったのかというと…。」

 三室は、仕事受注のいきさつから、会議室で明かした秋良の考えまでを正直に真奈美に打ち明けた。

「姉さんはあくまでも被害者で、どんな理由があろうとも許しがたい話しであることはわかります。実際今度のことは、社長以外の誰もが賛成しているわけではありません。しかし、残念ながら会社には姉さんの心の傷を癒してくれるような人が居ないのも事実です。やはり、このことを乗り越えるためには家族の力が必要だと思いまして…。」

 その時、ドアが突然開いて、聞き覚えのある明るい声が部屋に響いた。

「お姉ちゃん、今度はどうしてこんなすごいホテルで暮らしてるの?」

 ミナミが無邪気な歓声とともにジュニアスイートに飛び込んできた。

「出すぎたかもしれませんが、自分が妹さんを呼んでおきました。社長の顔を見るのは嫌でしょう。賠償に関するパイプ役は自分がしますので、安心して家にお戻りください。」

 三室はそう言い残すと、自分のスマートフォンの番号を真奈美に告げて部屋を出て行った。

 

 ミナミは、真奈美の話しを聞くよりもまず、スクールへ通い出した自分の新しい生活を話したかったようだ。帝国ホテルのクッキーを頬ばりながら、どんなレッスンなのか、自分の評価はどうなのかを怒涛のごとく話し始めた。練習の成果を見てくれと、その場で歌い出したミナミに、真奈美は久しぶりに腹から笑った。どんな苦境にある時も、やはりミナミは自分を癒してくれる。この可愛らしい妹の存在を心から感謝した。

「それで…」

 ひと通り話し終わったミナミは部屋を見回す。

「あのイケメンのお義兄さんはどこなの?」

「あんなのお義兄さんなんて呼ぶのやめなさい。別に私とは何でもないんだから…。」

 真奈美は自分のお腹の中に彼の赤ちゃんがいることなど、どうやっても説明できない。

「そうなの…で、ここで何してるの?」

 今の自分が整理できずどうしたいのか解らない自分が、ミナミの質問に答えられるはずもなかった。こんな状態では、三室の言う通りとりあえず家族のもとに戻った方がいいのかもしれない。

「これから家に戻ろうと思うのよ。」

「えっ、お姉ちゃん戻れるの?」

「ええ…。」

「ホント?お母さんが喜ぶわ。とっても会いたがっていたもの。仕事はいいの?」

「当分仕事しなくても、会社が面倒見てくれるみたい。」

「へーえ、何だかわからないけど…とにかくまた3人で暮らせるのは大歓迎よ。わたしもスクールに専念できるし。」

「結局ミナミの大歓迎の理由はそれなのよね。」

 真奈美の皮肉に、ミナミは笑いながら頭を掻いた。

 真奈美はベルを呼んで荷物を玄関に持って行くように依頼すると、自身はバッグひとつを肩に下げて、ミナミとともに部屋を後にした。

 フロントへ寄ってキーを返す。

「ご請求はすべて会社へと伺っております。」

 フロントスタッフの笑顔で見送られロビーへ出た。真奈美の身体の変調はそこで起きた。急に差し込むような下腹部の痛みでたまらずフロアのソファーに座りこむ。

「大丈夫?お姉ちゃん。」

「ええ、少し休めば大丈夫よ。」

 そうは言ったものの、これといって特異なものを食べた記憶もないし、腹痛の原因が思い当たらない。ストレス性の胃炎にしては、下腹部すぎる。ストレス性の腸炎なんてあるのだろうか。ふと最近生まれた新しい命が、真奈美に何かを告げたいのではないかと思い当たった。馬鹿げた話だが、真奈美は自分の下腹部に両手を添えて会話を試みる。

『どうしたの?』

 言葉にならない言葉が、手のひらを通じて伝わり、脳でしっかりとした像を結ぶ。子宮の住人が、真奈美に彼女の本心を示し、そして真奈美に行動への決意を促した。

「ミナミ、ごめん。やっぱり当分戻れないわ。私たち…とりもどさなくちゃならないの。それも命がけでね。」

 謎の言葉を残して真奈美は帝国ホテルを飛び出して行った。


 
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