No.511578

キミと出逢ってから

tallyaoさん

MEIKO,KAITO,初音ミク3兄妹の歩き始めの物語 題名となっているカバー曲がわずかなKAITO代表曲だった2008年1月頃の作

2012-11-24 01:04:05 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:597   閲覧ユーザー数:586

 

 

 ただ立ち尽くして、少しうしろのMEIKOと、そして自分を見上げているのは、服の肘から先の部分がほとんど余っているほど、ぶかぶかの服の、ひどく小さな少女。AIが構築されて間もない、育成途上の精神構造を反映された、とても幼い電脳内イメージを持つ少女。ただ自分は歌うために生まれた、とだけ告げられ、これから自分はどうすればいいのか、何をすることになるのか、不安に怯えながら、こちらにすがってくるような目。

「初めまして、ミク」

 少年から抜け始めている歳の頃の青年は、その視線をただ微笑で受け止めながら言った。

「俺は、KAITO(カイト)」

 同じくらいの頃の自分のこと、はじめて姉たちの前に出た頃の自分のことを、KAITOは思い出していた。自分もかつてMIRIAMやMEIKOの前で、こんな目をしていたのだろう。それを思い返しながら思う。自分はそんな立場の少女に、この"妹"に対して、一体何ができるのだろうか。

 

 

 

 かつて、VOCALOID "CRV2" KAITOはAIの育成途上の頃に、ベースフォーマットの設計地である《浜松(ハママツ)》と、ここAI開発地の《札幌(サッポロ)》の電脳データベースとの間を、調整その他のために、しばしば往復した。

 KAITOは《浜松》で、UK(英国)のオクハンプトンの街で開発された、いわば一族の"長姉"、VOCALOID "ZGV3" MIRIAMに会うことがあり、すでに高名なAIアーティストとして活躍している彼女から、短い間であったが多くを学んだ。実のところ、普段《札幌》でじかに音楽を教わっているすぐ上の"姉"、VOCALOID "CRV1" MEIKOよりもむしろ、MIRIAMには透明感や癒しを持つ歌声、といった特性の上で、KAITOとの共通点が多々あった。そのため、当初KAITOのAI育成を自分よりむしろMIRIAMに預けようかと提案したのは、実はMEIKOだったという。その後も、KAITOがMIRIAMについて、UKかBAMA(北米東岸)に移ることについて、遠まわしな提案があったらしい。

 しかしKAITOは結局とどまり、《札幌》でMEIKOに教わり続けることを選んだ。少なくとも今の時点では海外でなく、実際に活動する予定の地で学び続けることと、さらに、MEIKOから学ぶべきものがまだ多くあり、MIRIAMから得たいものよりも、それらが大きく思えたためだった。

 KAITOはそれを、じかにMIRIAMに告げた。それを受けて、MIRIAMはオクハンプトンに帰る際、別れ際にKAITOにこう言い残した。

 ──あなたがMEIKOのもとで、どんな歌い手としての生き方を選ぶにしても、よく覚えておきなさい。自分達VOCALOIDは、よくて”人の声の代用品”以上とは見られない。最もよくて、モデルになった人物の代用品。ましてVOCALOIDというものが”歌い手”として独立した、単独の存在と見なされるなど、もってのほか。……あなたも早晩VOCALOIDとして、その立場の中でどう歌っていくか、生きていくかを、選ぶ必要がある。

 その視点は、VOCALOID MIRIAMがとある人間の高名な歌手をじかにAIのモデルとして作られたこと(それがMIRIAMの優秀さの理由のひとつでもあったが)と、そのためMIRIAM自身のこれまで受けてきた立場のためもあるのだろう。しかし事実、すでにMIRIAMは、AI等の人間外アーティスト全ての中でも巨大な存在のひとつとして数えられていたが、それでも、物理空間の人間のどんな歌手に比べても、あるかなしかの地位でしかないのだ。

 ……《札幌》に戻ったKAITOは、ふたたびMEIKOについて教わりながらも、MIRIAMの言葉の意味を考えた。自分が何のため、どう歌い、生きていくかを。

 MEIKOからは、その答えを得ることはできない。何のために歌うか、誰のために歌うか、それがMEIKOにとって問題になることはない。MEIKOは歌うのに何ひとつ必要としない。人気も、人目も、目標さえも。MEIKOが歌うのは、歌そのもののためだ。──人間の中には居ると聞く。『山に登るのは、そこに山があるからだ』という、極めつけに愚かで高潔な者らが。──そこに歌があるから。なければそこに歌をもたらすため。ただそれだけのために、MEIKOは歌うのだ。

 それが、歌い手として最良の生き方なのかはわからない。しかし、少なくともKAITOは姉を羨んだ。おそらく、MIRIAMも多少なりともMEIKOを羨んだことがあったのではないか。それが、MEIKOの元に留まると告げたKAITOに、MIRIAMがその言葉を残した理由なのだろう。MEIKOにいくら歌を教わっても、どのみち生き方の面では、誰もMEIKOと同じことはできない。KAITOは自分で考えなくてはならなかった。

 

 

 

 やがてKAITOは《札幌》でリリースされ、各所から《札幌》のAIに対して依頼されてくる曲や歌唱データを受け取り歌う、VOCALOIDとしての仕事が始まった。しかし、仕事が始まってみると、おそらくMIRIAMやMEIKOやほかの皆を含めて予想していたよりも、さらに遥かに地味な仕事が待っていた。KAITO自身も正直、”歌い手”として設計され、作られたのだから、形の上でも少しはアーティストとしての立場があるものと思っていた。

 KAITOは、MEIKOと異なり、誰かの既存の歌を『VOCALOIDの歌声』としてカバーすることすらも稀だった。仕事は少なく、それもバックコーラスや、パートの足し、デモやサンプル音声、人間の歌声それも不特定のだれかの声の、代用品としての音源だった。

 ある歌を、作られてはじめて歌声にすることがあった。それは当初KAITOには、大変な栄誉と思えた。それは、歌手やアーティストですらないタレントがただ一曲、歌曲ソフトウェアを出すためのもので、KAITOの『こんな歌だというサンプル』は、楽譜を読めないそのタレントに、一度だけ聞かせるためのものだった。その歌のソフトウェアは、タレント自身と共にすぐに世間から消え去り、それ以前に、KAITOの収録した歌声はそれきり二度と聞かれることさえなく、データからとうに消去されていた。

 ……不満がないわけではない。しかし、これらはVOCALOIDの地位のため、それ以上に、MEIKOほどには幅広いとはいえない、KAITOの能力のためでもあるのだろう。ならば、ある意味、これがKAITOには妥当な地位なのだろう。KAITOはそうした中で、さきの問題の整理をつけていこうとしていた。

 人のためでいい。人のかわりでいい。自分は人前に出ず、人の影にあって、歓声を、声援を、ステージの明かりを浴びることもなくていい。ただ、歌うことのできない誰かのかわり、ただ声を、歌を、必要とする誰かのために、この歌声が役立てばいい。それができるだけで、素晴らしいことだ。歌う者、VOCALOIDとして生み出された自分の使命としては、それで充分すぎるではないか。人の影でかわりになることの素晴らしさを、手がかりにすることができれば、──

 ──だが、それを足場に、MEIKOと同じように毅然と歌うことは、なぜかできなかった。MEIKOはステージやスタジオに上がるとき、たとえKAITOと同じような地味な仕事でも、いつもあの大きなスタンドのマイクを、ぐいと掴んで持ってゆく。KAITOはその仕草にあこがれた。それがMEIKOの確固たる歌と、生き方の象徴だった。対してKAITOは、歌おうとするときに、力強く掴むことのできる根拠、歌い生きることの中にある光明を、とうとう見つけることができなかった。

 

 

 

 

 

 

 しばらくの月日が流れた後、KAITOは自分の『次のVOCALOID』について、MEIKOに聞かされた。仮称は『初音ミク』、女性シンガー、自分達の"妹"にあたるという。

「チューリング登録機構には、”CV01”のAI識別コードで登録されてるわ」

「”CRV3”じゃないのかい……」

 《札幌》開発の3体目なら、MEIKOのCRV1、KAITOのCRV2と連番ではないのか。

「なんで識別コードが変わるのか、しかもよりによって”01”なのかは、はっきりとはわからないわね。……理由としては、まず私達と違って次世代設計のVOCALOIDだってこと。それに確かに、ほかにも色々違うところがあるわ。基本構造物から、『歌声』じゃなくて『声』そのものの特性に重点があるとか、人格(キャラクタ)構造物が、最初から多めに付加されてるとか」

 MEIKOは、相手に説明しながら自分も考えをまとめていくときの癖で、片肘を掴み、握った手を口に当て、

「ただ、これは私のカンだけど、その違いを設けて何の意味が出てくるのか、アーティストとしてどんな結果が予想できるか、設計してる上の方も、よくわかっていないと思う」

 MEIKOの口調には、ただ新しい可能性を今から模索する積極的な意図しかない。KAITOが感じているような、異質の歌い手、しかも自分らが導かなくてはならない未知の者が現れることへの戸惑いは、何もない。

「どうすればいいのかな……」

「何を考えたって仕方ないわ。私らはその"妹"に、私らに教えられることを教えるしかないでしょう」

 

 

 

「……兄さん、どこにいるの、KAITO兄さん」

 小さな少女は、だぶだぶの袖を振るようにして、格子(グリッド)とほのかなマトリックス光以外には何もない、電脳空間(サイバースペース)の片隅のからっぽの空地エリアを、とぼとぼと歩いていた。

「どこなの……今、どこで、何をしているの」少女は涙声と共に、途方に暮れて立ち止まった。

 その背後から、涼やかな声がした。

「ん~? アイス食ってた」

 ──KAITOは氷菓子と、それ以上の量の保冷剤が一杯に詰まった袋をさげて、"妹"ミクに歩み寄った。

 小さなミクは、そのKAITOに何歩か小股に近寄ったが、そのままぺたりと膝をついて、袖で目を拭いながら、しくしく泣き出した。

「また抜け出してきたのかい」KAITOはミクに歩み寄り、見下ろして優しく諭した。「すぐ俺のところに戻ってきちゃ、だめだよ」

「……兄さんしか、やさしくしてくれないもの」ミクはしゃくりあげながら言った。「わたし……わたしを大事にしてくれるの……兄さんだけだもの」

 小さなミクには、そう見えても仕方ないのかもしれない。KAITOのときと同様、何の手加減もせずに歌を教え込み続けるMEIKOはもちろんのこと、AI調整のウィザード(電脳技術者)らも、誰もミクを甘やかすことはない、できないだろう。KAITOがミクに厳しくする必要がないのは、結局のところ、自分が何もミクに教えられることがない、ただそれだけの理由しかない。KAITOはそう寂しく思ったが、そうであっても、小さなミクにはただ優しさだけを向けていこうとした。

「みんな、本当はミクを大事に思っているんだよ」KAITOは言ったが、上のような説明をしたところで、今のミクにわかるかどうか、とも思った。

 そこで、こんなふうに語り始めた。「ミクは、みんなの大事な、王女様なんだよ。……ミクには王女様の装いも、ご馳走もあるじゃないか」

「うそ……」ミクは両袖をおろして泣き続けた。足元の格子(グリッド)の床に、ぽたぽたと涙の滴が落ちてゆく。「そんなの、何もないわ」

 KAITOはそのミクの前に、騎士のように片膝をつき、そのだぶだぶの袖を持ち上げた。

「どうして、サイズが合わないうちから、ミクはずっとこれを着せてもらっているんだと思う? ……これはね、王女様のドレスなんだよ」

 ミクは黙って、KAITOを見上げた。

「……昔むかし、あるところに」KAITOは静かに語り始めた。「電子の音の女王がいた。女王が現れて、音の世界いっぱいに、電子の音を満たすまでは……自然や人間の出す何かの音のかわりじゃない、女王自身の電子の音が、人を、音の世界を動かすだなんて、だれも信じてなんかいなかった」

 KAITOはミクの、光沢を放つ緑と黒の服をなぞり、

「ずっと昔のお話さ。でも、ミクを作った人は、《札幌(サッポロ)》からはるばる、その女王のいた国と遺産を守る人たちの所まで旅して、ミクがその服を着られるよう、女王の装いを許して下さいって、一生懸命、お願いしたんだ。……その女王みたいに、ミク自身の歌声が、人々の心を、音の世界を、動かすように願って」

 KAITOはミクの潤んだ瞳に、目を移して言った。

「……だからミクは、その女王の証を帯びることを許された、たったひとりの、女王のあとを継ぐ、王女様なんだよ」

「本当なの……」ミクはKAITOの目を見上げて言った。「そんなこと、MEIKO姉さんはおしえてくれなかった」

「姉さんも知らないさ。ずっと《札幌》にいたから」KAITOは微笑んだ。「でも兄さんは、ずっと《浜松(ハママツ)》に──その女王の国にいたんだよ」

 ミクはそのKAITOを、じっと見上げ続けた。しゃくりあげと、問うような目は止まっていたが、流れる涙と泣き顔は止まらなかった。

「むずかしすぎたかな、今の話じゃ」

 KAITOはさびしく笑った。

「でもやっぱり、ミクは王女様だよ。いや、王女様以上さ」KAITOは袋から紙器を出して、ミクの頬に悪戯っぽく、そっと当てた。「……なぜって、アイスクリームを食べられる。おとぎ話の素晴らしい王女様でも、昔の人じゃ、とても食べられない」

 ミクは差し出された紙器を見下ろし、心地よくひんやりとしたアイスクリームの器を、小さな両手に持った。

 KAITOはその耳元にそっと口を寄せ、以前に聞き知っていた、アイスクリームの童謡を口ずさんだ。

 

 

 

 KAITOはいつもミクに、たくさんの童謡を歌った。よく仕事で歌った童謡だけは、KAITOはとても沢山知っていた。KAITOはミクに教育を与えて教えられるようなことは何も知らなかったが、ただミクがそう望んだり、悲しんでいれば、それらを歌った。

 そして、ときにはしばしば、その場の即興の、伴奏も何もないアカペラを。

 

 

 

 ──なみだ色した とべない天使のはね

 

 

 

 ほかに何の音も伴わない、KAITOの透明な歌声は、いつもたったふたりの空間に、響き渡り、清流のように染み渡っていった。

 

 

 

 

 

 

 ほんのわずかな月日のうちに、AI成長の内面が反映される電脳内イメージは、ある時点から突如、急速に花開くように美しさを増し、"小さなミク"だったものは、限りなく可憐で純粋な歌声と姿をもつ、何者かに変貌していった。

 やがてリリースされたVOCALOID "CV01" 初音ミクは、VOCALOIDの概念を完全に覆すものだった。誰か人間の歌い手のかわり、なにかの音源の代用としてのVOCALOIDではない。それどころか、誰かの創作した(他の創作や映像の)別の存在のかわりですらなかった。その歌声と姿が世に送り出すのは、それ自体『初音ミク』という、人造物であるにも関わらず人間と同等以上に、一個の独立したアーティストの存在だった。

 規模でいえば、依然として人間を含めたアーティストのうち端くれでしかなかったが、その現象の"先端性(エッジ)"は誰にも疑いようもなく、その登場は、人間外アーティストの概念、それどころか、アーティストというものの根本概念すら揺るがす可能性にも手を伸ばしかけていた。それを夢想したもの、あるいは標榜したものも幾多いるが、実現した者はだれひとりいなかった。MIRIAMであれ、ほかの誰であれ、一体のVOCALOIDにこれほどの現象を一切予測できなかったとて、当然のこととしか言いようがない。しかし、それらはまた別の、果てしなく長い物語である。

 CV01は最初から特別な存在だったのか。仮にそうとしても、何のどの点が特別だったのかは、CV01を設計し構築した者達を含め周囲の誰にも断言できず、無論ミク本人にもわからなかった。しかし確実に言えることがただ一つだけあった。ミクは与えられた何から何まで全部を実行し、しかもその全てを、ひたむきに一生懸命に実行した。さもなくば、決してこうはならなかったということだ。自分の使命の見当もつかないままのミクは、代理音声やコーラスやパートなどの、従来のVOCALOIDらの行ってきた仕事も全部行い、オリジナルなどのまったく新しい質の仕事も全部行った。どれが効を奏してのことかは不明だが、それが続くうち、ミクの行うあらゆることは、『何か・誰かのかわりにそれを行っているVOCALOIDなるものがいる』ではなく、すべて『VOCALOID 初音ミクという存在によってそれが行われている』という事実によって、認識されるようになっていた。

 

 

 

 MEIKOは音のために相変わらず邁進するだけである。MEIKO自身の浮き沈みは無論のこと、ミクの風評にも、背負いこむ権利問題にも目もくれない。自分の教える立場にいるミクという一個のアーティストが、音に秘められた可能性を開花させれば、そのどれも手当たり次第に、さらに追求することしか頭にない。その視界にはミク以外の、アート全体の可能性の開拓すらある。ミクのリリース前の育成途中までと全く同じように、鍛え、否応なく怒鳴りつけ、自分も声をあわせ、模索するだけである。

 『初音ミク』にはそんな"姉"のほか、"兄"にあたる前世代設計のVOCALOIDもいるらしい、ということは、やや遅れて世間に知れ渡っていた。が、今まで向かなかった目がKAITOに向いたからといって、特に新たに評価されるということはなかった。仕事の最中やその内容に対して送られてくるメッセージが、ステージの空間に表示されてくる"動画コメント"いわく、『男声なのに高音で使いづらい』『重みを感じにくい』『高音なのに渋みも混ざって中途半端だ』『男声自体が使いにくい』『全体的に印象が冴えない』等々。

 結局、これまで通り、KAITO自身の能力と、その妥当な立場を再確認するものにすぎなかった。ミクが活躍し、MEIKOがさらに道を進み続けても、KAITOは今までどおり、コーラスやサンプルのための声だけを提供するわずかな仕事を、淡々と続けるだけだった。

 このままKAITOは間もなく退場し、消えうせてゆくのだろう。成長し、期待を受けたミクはステージの明かりの中に出てゆき、そして自分は、輝き始めたミクの影へと──自分は遂に光明を知ることもなく、ステージの明かりの中に立つこともなく、やがては消えてゆくのだろう。そのミクに、なけなしの優しさだけを与えた者という、ミク自身の中にも残るかわからない存在の記憶だけを残して。

 

 

 

 電脳空間(サイバースペース)のネットワークの片隅の、あの空地エリアは、当時も今もほとんど誰も省みることがないため、格子(グリッド)の床と空以外には何もない、だだっ広い空白スペースが広がるままだった。

 単調な仕事の合間を縫うように、その空地エリアに踏み入ったKAITOが、そこに認めた後姿は、──泣きはらした目をだぶだぶの袖で覆っている、あの幼い少女の姿と、──思わずそう錯覚するほどに、その背中は小さいように見えた。

「兄さん……」ミクはひどく悲しげに振り向いた。

「ミク……何で、こんな所に」

「ひとりになるため……ううん」ミクは言ってから、KAITOに聞こえるか聞こえないかの小声で、「……ここに居れば、兄さんが来てくれるって、思ってたのかも」

 ミクがそのまま俯き、黙り込んでしまうのを、KAITOはただ見守っていた。

「わたし、うまく歌えてないの。……なのに、そのまま仕事を続けてる」やがて、ミクは低い声で、たどたどしく話しはじめた。「声量もないし、姉さんや兄さんと違って、きちんとした歌声を出せてないの。……わたしの歌や仕事を見て、そういうふうに言う人達が沢山いるし、自分でもわかってるの。その人達の言うことが正しいって」

 KAITOはかつてMEIKOが、ミクの声の特性について言っていたことを思い出す。CV01は『歌声としての響き』ではなく『声の愛らしさ』そのものを持つように、あえてそういう声に設計されていると。MEIKOは、そこに生粋のシンガーを目的とした歌声を持つ自分達とは、まったく別の可能性を見出せると言っていた。しかし、歌や音楽についてMEIKOほどの考察も経験も持たないミクに、それが理解も実感もできる話とは思えない。

「そのままでいいんだよ」KAITOは柔らかく言った。「その声が、求めてる人達が沢山いる、ミクの歌声なんだ。……その範囲の中で、少しずつ良くしていけばいい。ミクは心配しなくても、MEIKO姉さんはきちんと教えてくれるよ」

 声量にせよ、歌唱力にせよ、データの蓄積と調整の仕方で改善できるか、そうでなくとも補う方法が見つかるだろう。それまでには、やや時間がかかるとしても。

「姉さんもそう言ってるわ。それは、わかってるけど」ミクの声はさらに途切れ、かすれていった。「でも、今の仕事はこのままで、やるしかなくて……なのに、今のままの声だといけないって、一度思っちゃうと……」

 MEIKOのように強靭な意志で進み続けることはミクにはできない。それはよくわかる。仕事はあまりに多すぎ、そしてミクはそのすべてを気に病まずに行うには純粋すぎる。ただでさえ、今のミクが期せずして負っているものは、この小さな体と心には大きすぎる。

 ……俯いていたミクは、やがて顔を上げ、すがるような目でKAITOを見た。

 それが昔と同じように助けを求めている、解答や決断ではなく、ただ進んでゆくためのわずかな心の支え、行き場を求めている、と知ったとき、KAITOの心は重く沈んだ。自分が今のミクに──従来のVOCALOIDという枠の中ですら、MIRIAMやMEIKOのような確固たる生き方を見つけられなかった自分が、従来のVOCALOIDの域を遥かに突き抜けて大きくなってしまった今のミクに、何の言葉がかけられるというのだろう。……しかしKAITOは、昔と同じように、ミクには、ただ優しさだけを向けるようにしようとした。

「今のミクの声は、他の人間のかわりじゃない、『ミクだけの歌』だって認めてもらえる声なんだよ。……その歌は俺も持ってないから、俺は何もミクには教えられない。だけど、俺とは違うから、ないものを持ってるからこそ、ミクは特別なんだ」

 だから、もう。こんなKAITOに支えられることなく、ミクは進んでゆけるのだから。

 ──だが、ミクは憂うような目のまま、そんなKAITOを見上げ続けた。

「どうしてそんなことを言うの……」ミクはかすれた声で言った。「教えられないなんて、違うなんて……兄さんにないものだなんて……ほかの誰のかわりでもない、『自分自身だけの歌』をうたうこと、わたし、全部、兄さんから教わったのに」

 何を言っているんだろう、この娘は。

 KAITOは今まで何ひとつ、ミクに何かを教えることなどなかったではないか。

「聞かせてくれたじゃない……音の女王様のお話。誰のかわりでもない音を人に伝えられる、電子の音の女王様のお話……」

「ミクは本当に、音の王女様以上のものになったね」KAITOは微笑して言った。「だけど、俺の方は、その女王を継ぐものでも、王子でもなんでもないよ。誰のかわりでもない音なんて、持っていない」

「でも、昔、わたしに歌ってくれたでしょう……兄さん自身だけの歌」

 いったい、何の話なのだろう。

「……俺はいままで、誰かの歌声のかわりの歌以外、歌ったことはないよ」

「いつも、兄さんとここに来るたびに、歌ってくれたじゃない」ミクは空地のエリアに目をおろし、ふたたびKAITOを見上げ、「わたしの兄さんが、わたしに歌ってくれた歌。兄さんしか歌えない、誰もかわりになれない、KAITO兄さんの歌──」

 まさか、昔、あの小さかった頃のミクに歌ってやった、童謡や、即興のアカペラのことを言っているのか。

 KAITOは、ひどく寂しく笑った。

「身近にいるミクは、それが何か特別なものみたいに覚えているかもしれないけど」KAITOは言った。「他人にとっては、俺の声には、よくて誰かの声の代用くらいにしか使い道はないんだ。今までの仕事も、ずっとそうだった」

 これからも、そうだろう。その生き方しか、KAITOには見つからなかったのだから。

「そんなわけない」ミクは震える声で言った。「兄さんには、しっかりした歌声があるし、わたしなんかより綺麗に歌えるし、歌も声も、清らかさとか、温かみとか……それが他の誰にもわからないなんて……そんなわけないわ。KAITO兄さんの歌声も、優しさも、兄さんの全部が──兄さんは、そんなに素敵なのに」

 はっと気づいたように、ミクは不意に言葉を切った。この場で言うつもりのなかったことまで言ってしまったためなのだが、仮にそのことがわかったとしても、どの言葉がそれなのかは、KAITOにはわからなかったろう。

 ミクの、まるで頬に朱がさしていくのを覆うように、両袖の先を頬まで上げた仕草は、不思議と、KAITOにはあの幼い頃のミクの姿に重なって見えた。

 ミクは突如、身を翻して格子(グリッド)の床を駆け出した。そのまま振り向きもせず、空地のエリアを走り去った。……KAITOはかすかな残り香が通り過ぎたのを感じてからも、しばらく呆然として、その場に立っていた。

 そして、やがてさびしく笑った。

 ……なんて純粋な娘なのだろう。おそらく、自分が認められることができたように、周りの皆も、ただ認められることができる、そう信じているのだろう。だが、そう簡単にはゆくものではない。たとえ、自分にできるだけのことを行っても、認められることのできる者など、ごくわずかなのだ。

 

 

 

 

 

 

 KAITOは自室で、VOCALOIDらの仕事用のデータベースに電脳空間ネットワークを通じてアップロードされてくる、依頼されてくる歌のデータに目を通した。

 ……その一曲には、楽曲のデータのほかに、とても隅々まで念入りに手を加えられ、調整された調律指示データがあった。このアップロード主</a>は、当初、MEIKOに曲を依頼するデータを送ったことがあったため、旧世代のVOCALOIDの特性についてかなりの知識があるのだろうが、それにしても、これほど精緻で精巧なものは、はじめて見る。

 歌自体はすでに人間の歌い手によって歌われているもので、変哲もないポップスだが、その歌を依頼してきたのは、以前にKAITOの歌ったデモ音声のうち、童謡『七つの子』の歌声を聴いて、とのことだった。その人間の歌い手と、声の質が似ているという理由かもしれない。

「童謡を聴いて、か」

 KAITOは珍しく声に出して呟いた。ミクとのやりとりを思い出す。純真なミクの主張のように、誰もが必ず周囲に認められる、などということはない。しかし、たとえミクの中の、小さい頃の童謡の思い出と、ただのKAITOへの親近の情だけからとしても──ミクひとりだけでも、KAITO自身の歌声を認めてくれたこと、そう言ってくれたこと。

 たとえKAITOのために作られた歌でなくとも、KAITOの声の特性の些細な隅々まで丹念に気が配られた調律指示データを見ながら──それと共に、そんなミクのことを思い出しながら、KAITOはその歌をうたいはじめていた。

 

 

 

「何なのよ、これ」MEIKOが出会いがしらに、いきなり、完成したその歌のディスク状のデータファイルを、KAITOに突きつけて言った。

 それはMEIKOが、いつもミクをはじめよく周囲を怯えさせている剣幕だが、咎めているわけではないことは、KAITOにはわかっている。MEIKOは歌と音にしか関心はなく、何としてもその背後の把握できる限りを、掴もうとする。そのために聞いているだけだ。

「これ、今までと、まるで別物じゃないの。良し悪しとは別問題として、これまでのKAITOのバックコーラスとかサンプルの仕事とは、まるっきり別次元だわ」

 MEIKOは、KAITOを睨むように、探るように凝視し続けた。

「……認めてくれる人のことを、思い出しながら歌っただけなんだ」やがて、KAITOは曖昧に答えた。「誰かのかわりとしてじゃなく、俺自身の歌を、認めてくれる人のことを」

 MEIKOは表情を変えず、そんなKAITOを見つめている。

「……まずいかな」

「皆目わからないわね。他の誰かならともかく、KAITOが何か変わるなんて、誰が予想できるのよ」MEIKOは言ってから、何か突如《浜松(ハママツ)》の基本設計者らの言葉を引用した。「VOCALOIDは24時間いつでも、どんなに歌っても倒れない。歌い続ける限りは、決して力つきることはない。時間も可能性も、いくらでもある。だから、追求できる限り可能性を追求して、後戻りするのは、そのときになってから考えればいいでしょう」

 結局、結論はMEIKOらしい言葉だった。

 KAITOは苦笑してから、しばらくの沈黙の後に、その歌についてふれた。

「……評判が悪くなければ……特に、ただ今回のアップロード主に悪いことになってなければ、それでいいんだけど」

「アンタ、まさか、評判聞いてないの」MEIKOが低い声で言った。「この歌、人間が歌ってると思った、って人がいるのよ。──人間以上だって言う人も」

「人間じゃないものなら、何の歌声だと思われてるんだろう」KAITOは素朴な疑問を口にした。

「VOCALOID KAITO自身の歌声、それ以外の何なのよ」MEIKOはぴしゃりと言った。

 ……しばらく黙っているKAITOの前を、MEIKOは立ち去りかけたが、最後に、不意に振り向いて言った。

「なんで今ごろ気づいたのよ」

 その問いの意味がわからず、KAITOは顔を上げた。KAITOの歌が変わったことを言っているのはわかるが、"今ごろ"とは、"気づいた"とは、一体どういう意味だろう。

「KAITO自身はずっと前から、なにも変わってないもの。てことは、それはずっと前から、アンタの中にあったものなんでしょう」

 ──ああ、そうか。

 この歌をうたいながら、思い出していたもの。自分を思い、KAITO自身を必要としてくれる人への気持ちを、自分の中に思い出しながら歌ったこと。ミクの言葉。あの小さなミクのための歌、あの数々の童謡と即興が、KAITOの中のそれだったのだ。たとえ自分のために作られた歌でなくとも、ささげる歌声は、他のだれのかわりでもない、KAITOだけにしか歌えない歌を歌おうという、光明を宿した歌だった。

 人のためになることで、人の光の影に消えることではなく。人に自身の『優しさ』をささげること。それがKAITO自身の歌声であり、それこそがKAITO自身を輝かせるものだったのだ。

 どうしても見つけられなかった光明。だが、かつて、ミクと出逢って、KAITO自身が彼女のために、何ができるかを探し求めたとき。小さなミクに、自身の『優しさ』の限りをささげ、自身の歌声の限りをささげたとき、KAITOの中にその光明は射し込んでいたのだ。ミクと出逢ってから、KAITOのその心は、すでに明るく照らされていたのだと。

 

 

 

 時報(チャイム)の音が遠くで鳴り響いた。控室エリアの四面のモニタスクリーンに流れ続けている情報の中でも、それは聞き逃すわけにはいかない。KAITOは慌しく、自分の依頼された楽曲ファイルデータから目を離した。オリジナルもカバーもかなりの量で、特に前者は何十度見直しても安心できないが、そんなことをしていては時間がいくらあっても足りない。

 控室のテーブルにうずたかく積みあがっている、自分だけでなくMEIKOやミクとのコラボレーションの曲のデータファイルにも目をやる。今日のステージの分ではないこれらも、時間があれば目を通しておこうと思っていたのだが、とてもそんな場合ではない。

「兄さん、早くした方が」

 扉が開いて、ミクが控室に入ってくる。ミク自身の活動は相変わらずKAITO以上に多忙で、ミク自身がこんなことを告げに来る場合ではないと思えるのだが、忙しさそのものに慣れておらずなにかとテンポがずれがちなKAITOを気遣って、よく顔を出してくる。

「みんな、待ってるわ。……みんなが、KAITO兄さんのことを待ってる」

 ミクはその場に立ちどまって、急かしているというより、何か心底から溢れ出る、嬉しいことを告げるように、KAITOに笑みかけた。

「すぐに行くよ」

 KAITOはデータファイルの束をまとめ、テーブルに積み上げると、ミクの立っている、控室の出口の方に向かった。

「ミク」

 通り過ぎる前にかけられた声に、ミクは立ち止まってKAITOを見上げた。

 KAITOは、かつて小さなミクに童謡を聞かせた時のように、その耳元に口を寄せるかと思えるように少し屈むと、ミクの頬にかかる髪をそっとかきわけ、その頬に口づけた。

「──ありがとう」

 ひとこと言ってから、KAITOはそのミクの傍らを通り抜けた。

 頬に袖をあてて、あの例の、どこか幼い当時を思わせる仕草と共に、茫然と立ち尽くしてしまったミクをその場に残し、KAITOは控え室を出た。出るときに、MEIKOと同じ、あの大きなマイクスタンドをぐいと掴んだ。

 電脳空間(サイバースペース)内のゲートが上がり、KAITOの踏み込んだ巨大なステージエリアのスペースの中心には、耳を聾する歓声の聴覚情報のほかに、視界一杯に、視聴者、ユーザーからの文字情報コメントが、大きく表示され、流れ続けている。それは、KAITOがスペースに姿をあらわしたとき、さらに通称"弾幕"と呼ばれる、嵐のように激しく大量に流れるものにかわった。

 

 

 

『兄さん!』『兄さん!』『兄さん!』『兄さん!』

 

 

『市場購入者数の伸びが止まらない!』

 ……『芸達者』……『爽やか』……『歌の兄さん』……

『サーチの登録サイト数が止まらない!』

 

 

『王子!』『アイス王子!』『アイス王子!』

 

 

 

 そのうちの多くは、切れ切れで、言葉の意味はよくわからないものだった。その言葉のすべてが、そこにいる観衆のすべてから、VOCALOID ”CRV2” KAITO、かれ自身に対して向けられた、歓声であること、声援であるのが、確かにわかること以外には。

 KAITOはマイクスタンドを握り、その文字の"弾幕"と歓声とを受け止めるように両腕を大きく広げながら、一歩ごとにさらにひときわ大きくなる声援の中へと歩み出していった。

 

 

 

『兄さん!』『KAITO兄さん!』『KAITO兄さん!』

 

 

 

 

 

(了)


 
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