No.465540

桜鶴

己鏡さん

2012年8月5日作。桜鶴(おうかく)=造語。偽らざる物語。

2012-08-05 18:50:13 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:473   閲覧ユーザー数:473

 ――私は撮影を終えたあとも、しばらくファインダー越しにその姿をみつめていた。目をそらしてしまうのが、どうしても勿体無くてならなかったのだ。

 

 どれだけ見惚れていただろう。カメラを下ろしたときには、ずいぶん時間が流れていた。

 その宿の客室に掛けられた一幅の軸には、不思議な鶴の絵が描かれていた。

 まっすぐに伸びた細い脚。丸みを帯びた体もぴんと張り詰めた姿勢を保っている。軽く広げた翼は、まさにいま飛び立たんとしているかのようだ。長い首を軽く曲げ、顎を引いたままこちらに向けられた眼差しは、私の心を見透かすようにじっと一点を捉えていた。

 それだけならまだ、探せば似たような絵を見つけることもできるだろう。

 この掛け軸の鶴の変わっているところは、その翼の色と舞い散る羽にあった。

 白い翼は先に行くほど桜色に染まり、散った羽の一枚一枚は、まるで桜花を模したかのようにふんわりと漂い落ちていく。

 その身の白さより移ろい出たる薄紅の羽になんの疑問も抱かず、かの鶴はむしろ当然とでも言いたげに、優美にたたずんでいた。

 雌雄の違いなど私にはわからなかったが、なんとなくこの鳥は雌のような気がする。

 作品名は「桜鶴」となっていた。作者の署名や落款はない。

 噂を耳にするまで、東方の地にこんな絵があるとは思いもしなかった。

 ただ、一目見るなりこの鶴が私の心を虜にしたのは、紛うことなき事実である。

 

 床について後、私は夢を見た。

 はっきりと、夢とわかる夢だった。

 あらかじめ宿の主人から聞いていたとおりだ。それならと身を起こしてみる。とくに力をいれずとも容易に上半身が起き上がる。奇妙な感覚だった。

 暗い部屋には障子越しに月明かりがうっすらと射しこむ以外、一切の光源はない。にもかかわらず、その姿は燈明にでも照らし出されるがごとく私の視界に飛び込んできた。

 ――(彼女)はたしかにそこにいた。

 くっきりと浮かび上がった輪郭や、その羽毛の質感は、間違いなく本物のそれであった。

 何より目を引いたのが、あの桜の花びらにしか見えない羽である。

 羽は抜け落ちるというよりも、湧き水みたいに、どこからともなく溢れ出すかのようにとめどなく出現した。不規則にひらりひらりと舞い落ち、時折風もないのに吹かれては散り散りになる。しまいには淡くぼんやりとした燐光を残して、儚く消えていくのだった。

 私は彼女に手を差し伸べた。といっても当然手を取ろうというわけではなく、親愛の証として、ほんの嘴の先でも触れてくれればという思いからだった。

 そんな私の真意を察したのか、彼女は黒い羽毛に覆われた細い首を摺り寄せてきた。

 やわらかい感触は夢の中とは思えぬほど明瞭で、驚いたことに普通触れるだけでは感じ取れない感情の機微まで直接伝わってきた。

 彼女には間違いなく「心」と呼べるものが宿っていた。穏やかでやさしく、人間のものよりももっと純粋な心が。

 私は彼女から離れるとそっと腰を下ろした。

 飛ぶというより、ふわりと軽く舞い上がったと表現するほうがふさわしいかもしれない。

 彼女の体が軽いステップを踏むように右に、左に動く。そのたびに花弁と化した羽がゆっくりと落下していった。

 舞踊は時を忘れて続けられた。歌もなければ曲の演奏もない。手拍子すらない。なれど、どこからともなくそれらが聞こえてきそうなほど、彼女は楽しげに体を翻し、歩を踏み、翼を羽ばたかせた。

 永遠にこの時が続いてほしいとさえ思った。

 しかし、覚めない夢はない。

 やがて終わりのときは近づく。

 いつしか私は、遠くなりつつある意識に任せて目を閉じていた。まぶたの裏に焼き付けた姿は、目を開けばそこにいるはずの彼女と重なるようにいまだ動き続けていた。

 夢の中にて眠りに落ちる。初めての体験。そんな感慨すら次第に曖昧になっていく――

 

 夜の戯れは数日繰り返された。

 日中は街中を見て回り、夜は宿にて鶴の艶やかさに顔をほころばせながら「ほぅ」と息をつく。彼女とあいまみえると我が心は浮き立ち、不思議なほど癒されるのだが、他方、彼女は徐々に元気をなくしていった。

 私は心配になって宿の主に事情を話した。すると主は「そうですか。もうそんな時季なんですね」と意味ありげに呟き、なにやら木箱と水の入った瓶を持って部屋まで来た。

「年に一度、食事を取らせるんですよ」

 そう言うと、軸を下ろして室内に広げた。

 持参した木箱を開ける。なかには絵の具の入った小瓶や筆などが詰まっていた。いずれもかなり使い込まれているのか、多少汚れたり瓶などは口が欠けたりしているものもあった。けれども丁寧に手入れされているらしく、主が大切にしていることが窺える。

 彼は絵の具を混ぜ合わせ、ためらうことなく掛け軸に筆を走らせた。

 最初から描く所を決めていたのか、鶴の足元に、桜の枝を一本、二本と描き足していく。

 少し色あせた紙の上に、瞬く間に鮮やかで真新しい桜が満開になった。

 唖然とする私を尻目に、描き終えた宿の主人が手際よく画材を片付けていく。

「乾くまでこのままでお願いします。少しお話ししましょう。お茶を淹れてきますので」

 彼は部屋を出て行くと、しばらくして今度は湯飲みを載せた盆を持って戻ってきた。

「何から話しましょうか……。そうですね。順を追って話したほうがわかりやすいかな」

 主人は茶を一口すすると、少し間を置いてからおもむろに口を開いた。

「私の妹は絵描きをしていましてね。この絵も、その妹が描いたものです。兄の私が言うのもなんですが、変わった感性の持ち主でしてね。日がな一日、気ままに絵を描いたり、歌ったり踊ったり。ぼーっと外の景色を眺めていることもありましたね。とにかく衝動に駆られるまま過ごしていました。肝心の商売のほうも、気に入った客には二束三文で絵を売ってしまうものですから、うちに生活費すらろくに入れてくれませんでね。よく『この穀つぶしが!』って怒鳴ったものです」

 苦笑した主人は、しかし、なんとなく寂しそうに掛け軸に視線を落とした。

「その……妹さんは?」

「……十年前に自ら命を絶ちました。この絵は妹のお気に入りだったようで、唯一誰にも売ろうとせず、手元に残した作品です」

 絵の具の乾き具合を確かめると「もういいでしょう」と、軸を元の所に掛けなおす。

「あとで知人から聞いたんですが、妹は生前、よく零していたそうです。『兄に申し訳ない。父と母が残してくれたこの宿に申し訳ない』と。けど、彼女には型に嵌った生き方はどうしても馴染めなかったんでしょう。たまに、突然子どもみたいに泣きじゃくることがありましてね。理由を尋ねても首を横に振るだけで教えてくれない。いま思えば、私や宿のために役に立ちたいと思う気持ちと、どうしても言うことをきかない体や心の間に葛藤が生じて、堪えきれなくなったんでしょう。その苦しみに気づいてあげられなかった。……妹には本当にかわいそうなことをしました」

 まっすぐに向けられた視線は、掛け軸を通して過ぎ去った時をみつめているのだろうか。

「やがて、宿泊客から不思議な話を聞くようになりましてね。私も自ら真偽を確かめました。結果はお客さんが夢で見たとおりです」

「その噂が旅人たちの間で広まった、と」

「そうです。おかげで宿はずいぶん繁盛しました。しかし、妹が亡くなって一年後、急に鶴が弱りだしたという話を聞きましてね。どうしたらいいのか、途方に暮れました。なんせ絵に描かれた鶴の療法ですから。私じゃなくても困惑しますよ。結局手を打てないままいよいよ死んでしまうのではないかと思った折、ようやくあることに思い至りました」

「桜の枝……ですか?」

「はい。妹と違って絵心がないので心配でしたが、それから年に一度だけ描いています」

「しかし、なぜ桜の枝を?」

 桜の花のような羽を零す鶴には、これ以上ない取り合わせではあるのだが……。

「思い出したんですよ。遺品を整理してこの軸をここにかけるときには、違和感を覚えつつも気に留めなかったんですが」

 主はかがみこむと、枝が描かれたあたりを撫でるようなしぐさをした。

「まだ妹が生きていたころ、一度だけこの絵を見せてもらったとき、たしかにここに満開の桜の花が描かれていたことを」

 

 その晩が最後の逢瀬であった。

 彼女がゆっくりとした動作で桜の花をついばむ。一口ずつ口に含むたびに羽がうっすらと発光して、彼女の滋養となっていった。

 食べ終えた彼女はいつもどおり舞おうとした。私はそっと制止する。今宵はどうかゆっくりと羽を休めてほしい。そう思ったのだ。

 

 明くる朝、軸の傍らに枝が落ちていたので鞄に詰め込み、別れを告げて宿を発った。次お目にかかるのはいつのことか。客が途切れないので、あの部屋に泊まるのは難しいのだ。

 けれど、いつかまた必ず会いに来ようと誓う。「心」の……「魂」の宿った麗しき彼女に。

 


 
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