No.450687

エルロンドとマグロオルの話をひとまとめに。

ほしなみさん

シルマリルの物語(シルマリルリオン)からエルロンドとマグロオルを主に書いたものの詰め合わせです。キャラの名前は旧版準拠のこだわり。ストックホルムしてたり実のお父さん形無しだったり、色々捏造たっぷりかも。需要低すぎて笑える感じですが…。指輪物語の映画好きな方は原作を是非。原作好きな方はシルマリルも是非。

2012-07-10 21:57:31 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:1445   閲覧ユーザー数:1445

  ■海と父

 

 掌(たなごころ)が、酷く痛む。火傷のひりつく様な、凍傷の鈍痛の様な、擦過傷の火照りの様な。けれど何よりそれは、「何もかも」に対する裏切り、その果ての、それ故の、罰と悔恨の痛みだった。

 彼はそれを手放した。世のエルフが作りしものの中で最も美しく、最も永遠に近しいもの。最も切望し、最も絶望したもの。天空の明星、大地の礎、海原の灯火たるシルマリル、その穢れ無き輝きを。

 彼は、最早琴を爪弾かない。掌の傷が癒える事を自ら拒むからである。その痛み故に手放したにも拘わらず、寄せ来る白波に両手を浸し、激痛にのた打ち回りながらも密かに安堵する。「嗚呼、私は今、罰を受けている」。

 そうやって海岸を放浪し、泣き暮らして歌を紡ぐ。同族の元に帰る気は無く、エルフの多くも、そんな彼に同情こそしたものの、矢張り愛情を寄せるには至らなかった。その傷は余りに哀しく、その涙は余りに辛(から)かったからである。 鴎の声を聴いて、水沫の白きを見て、西の果ての憂い無き地へ思いを馳せる事は幾度と無くあった。だが彼は帰れない。帰る事への赦しを、一体誰より得られると言うのだろうか。彼はヴァラアルを、父を、兄を、誓いを、自身を、養い子とその親を、愛する全てを、愛するが故に順々に裏切った。裏切り故に、そして裏切りへの裏切り故に、世にも稀なる宝玉は彼の手を焼いた。

「もし、マグロオル」

 シルマリルは昔の物語となり、時代はドゥネダインのものになりつつあった。エルフは只、穏やかに西を見詰めていた。まだヌメノールの滅亡にはかなりの間があり、人間はそれ程までに驕っては居らなんだ。その様な時分、ウルモは誰にも語り掛けなかった。海は静かで、また穏やかでもあり、悲しみは薄まり恐怖もまた薄れていた。

「もし、偉大なる伶人、カナフィンウェ」

 それは誰の名だろう、とぼんやりと思う。耳にした覚えがある声に、聞いた憶えのある名前。遠い昔、あの峻烈な、けれど敬愛すべき父親は、己を何と呼んで居たのか。

「もし、我が恩師たるマカラウレよ」

 嗚呼、その名も知っている。遠い昔、本当に何よりも遠い昔、最初の思い出に、その名を聞いた。その名を呼ばう、母の優しい声音。憂いの無い、裏切りを知らぬ己の名。 海を見ていた。海は何時とて、変わらずそれが海であった。けれど彼はふと、陸地を目に映したく思われて、覚えのある声のする方へと頭を傾いだ。

「――…エルロンドか」

 養い子の名は、思いの外簡単に口の端にのぼった。そしてその瞬間に、失ったと思われたあらゆる思い出が、胸を突いて思考の中に溢れ出た。忘却の淵に追いやられていた、愛と不条理と。

 また、涙が出た。けれど温かい涙だった。痛みからではなく、哀しみからではなく、愛惜からの涙であった。

「マグロオル」

 再び呼びかけると、エルロンドは些か安心した様子で、彼の隣の磐に腰を下ろした。潮風が穏やかに二人の面に当たる。波は足元を遠慮がちに濡らす。再会の喜びは無かったが、巡り会いの安堵が二人を包んだ。「掌は、痛う無いのですか」

 かつてのエルフの王とは思えぬ程に、荒れ、ひび割れ、傷跡の残った掌を一瞥して、エルロンドはぽつと呟く。心配、というよりは不安げな面持ちで、彼の涙に曇った瞳を見返していた。

「ああ、痛い。痛いけれど、それで善い。それが全き姿なのだ」

「貴方の御姿は、貴方自身斯く在るべきと思われるか」

 違う、と小さい声が聞こえた。けれどその直後、だがその他に何がある、と力強い声がした。その通りだった。命を投げ出せば父や兄の待つマンドスの館へ、西へ行けば二度裏切ったヴァラアルの元へ、中つ国のエルフに混じれば、殺しながら愛した子等の中へ。何処へ行けと言うのだろう。独りより他に、如何在ろうと言うのだろう。

「斯く在るべきなのではない。私は『何もかも』に於いて、斯く在らぬべきなのだ。それ故の哀しみ、それ故の痛み、それ故の彷徨なのだ」

 エルロンドはその言葉に、重たげに目蓋を閉じた。潮騒が二人の周りに横たわる。彼の父が憧れ、彼の養父が見据える、その海の、始めも終わりも、唯、それだけの、それだけであり続ける海の音である。

「本当は」

 エルロンドは目を開いて、嘗て自身を育て、伝承を教え、淡い後悔と倦怠を交えて昔語りをして呉れた養父を見た。

「貴方に言わんとして、用意していた言葉は別のものでした。『もう、哀しまれずとも、赦されて西へ』。そう言わんとして、けれど、辞めました」

 エルロンドは含羞む様に笑むと、ふと目を水平線へと転じる。青の混じる、西の果て。

「私は何も話しますまい。貴方の歌を聞きとう御座います」

 エルロンドのあっさりとして明るい口調に、彼はふと心を動かされて、けれど哀しみが彼の緩んだ思考の間隙を覆い尽くして、口を突いて出た音は、まるで潮騒の様だった。

 潮は、もしかすると本当に涙なのかもしれないと、エルロンドは半ば本気で思った。エルロンドの見ていた養父の姿は、今も昔も変わらず、見えぬ何かを愛していた。

 そんな彼から紡がれた歌を、エルロンドはごく自然に覚えた。哀しく、力強く、涙の様な、海の様な愛に溢れていた。書き留める必要も、繰り返す必要も無かった。それが歌われる事は、遠い昔に決まっていた。そんな気がした。

 彼の声は衰えていなかった。嘗て、ダイロンに次ぐ楽の名手と謳われた彼の、深く澄んだ響き。エルロンドの父は二人居て、そのどちらもが、海を求め、海を愛した。今、彼は海に居た。 誓願、戦い、裏切り、同族殺し、シルマリルの痛み。綾を織り成す様に美しく歌われてゆくそれらの出来事、いや遠の思い出。節回しはゆったりとエルロンドの中に根を張り、彼の一部となった。歌い継がれるものであり、二人の間、一度限りのものでもあった。永遠なる限りあるもの、それが彼の愛した楽だった。

 歌は結ばれた。本当の潮騒のみが、また絶える事無く響く。鴎が歌う。白い船が、出帆する。

「エルロンドよ」

 彼は歌い終わった後の、陶然とした瞳の儘に嘗ての養い子を見た。額には叡智、手には妙技、唇には深慮、足元には威厳。彼の理想を映した様に、養い子は成長していた。その事に彼は、漸く気付いたのである。

「エルロンドよ、今暫し耳を傾けてくれ。私の歌はお前の族の間に納め、私の言葉はお前の胸の内に納めてくれ」

 彼は目を瞑ると、言葉を探しながらゆっくりと話し出した。

「私が父や兄弟と共に誓いを樹てた時、私はまだ己が何を求め、愛しているか知らなかった。私は楽が、とりわけ言葉と共に紡がれる歌が好きだった。けれどその歌が何ゆえこれ程迄に私の心を揺さ振るのか、それを考えた事は無かった。今にして思うと、考えるべきだったのだ」

 彼は磐のごつごつとした肌を、粉の吹きそうな程に乾いた指でつい、となぞる。かつてその白皙の繊手は竪琴の上に置かれ、また或る時は優美且つ荘厳な剣の柄に置かれた。そう思うと、エルロンドの心は痛んだ。思いのみ先立たせてしまう事が赦されるのなら、今にでも彼をリンドンに案内し、或いは西へ送り、安寧を享受して貰いたかった。彼は赦されている。ヴァラアルが、彼の父が、兄が、弟が、誓いが、或いは己の実の父が赦さずとも、エルロンド自身が彼を赦したく思われた。

「世の長子たるエルフの命は、アルダの命と分かち難く繋がっている。エルフに与えられた恩寵は永遠であり、普遍であった。そして次子たる人の子には、死が与えられた。エルロンドよ、永遠と普遍を選びし我が同胞よ、其方の様に恩寵を選ぶ事が出来るのなら、私は有限と死を選ぶだろう。一度限りの、だがそれ故に眩く美しく煌く、刹那の燃える様な命を選ぶだろう。私はシルマリルを求めた。けれどその思いは、兄上とは異なっていた。其方達を預かって気づいたのだ」 

 彼の兄、フェアノオルの長子たるマエズロスの求めたシルマリルは、父の技と誓いへの忠誠、己と己の族の永劫の証明たる光であった。彼はマンドスの館へ赴いた。けれどそれでも尚、最期までシルマリルを手放しなどしなかった。それは真実彼の求めた、光それ自体であったのだ。

「兄上はシルマリルを求めて居られた。理由は途中で閑却された。シルマリルは、兄上にとって唯一の光だった。西方であり、誓言であり、父上の証であった。故に求めて居られた。故に手放さずに、手放せずに、そのままマンドスの館へと赴かれた。けれど私は」

 赤い髪。隻腕の、威風凛々たる将軍の幻。彼は目蓋の上にそれを見て、小さく歎息する。彼の兄は、紛れも無く父の子だった。

「シルマリルが、其方の父、エアレンディルと共に明星となって天上に照り映えた時、私はどれほど嬉しかったろう。『嗚呼、父の手に象られし宝玉は、斯くこそあるべけれ』と思うた。私は誓いこそすれ、あの宝玉を手に入れたいと思った事は一度たりとも無かった。私はあの光に、特別なものを見た。限りある筈の命の輝きが、永遠に続くかの様な。結びある歌が、とこしえに続くかの様な。叶う事無き、世の理に反する夢を見た。故にあの光を求めた。二本木よりも清新で、星よりも鮮やかな光を。けれど私は裏切りを重ね、同族を殺め、そして其方達を引き取った。というのも、私はその時、既に朧気ながら己の願いを知っていたからだ。誓いに、裏切りに、そしてエルフである事に、私は倦んでいた。けれどどれも手放せない。どうして手放せようか?其方達は人間もであり、またエルフでもあり、私はそれを徴として受け取った」

 エルロンドは、何百年か前にこの世を去った片割れに思いを馳せた。エルロスは人間として生き、そして死んだ。死は恩寵であった。永遠も恩寵であった。

「私は人間を羨んだ。シルマリルが我が手を焼いてからは、一層その思いが深まった。私は西にも、マンドスの館にも、エルフの間にも赴く事が出来ない。誰もそれを赦しはしないだろう。私は全てを順々に裏切り、全てを失くして、唯歌だけがある。二度と朗ず事の叶わぬ、その時限りの、けれどいついかなる時にも心に響く、有限にして永遠、千変にして普遍の音(ね)。私は永遠を誓った。けれど心は限りある輝きを求めた。私の言葉は」

 出帆した船は、最早霞んで見えなくなっていた。没り日がゆっくりと、海に近づき始めている。世界は凪いでいた。世界は軛では無いのだ。世界すら、この、愛と悪の蒔かれた世界すら恩寵であったのだ。

「エルロンドよ。言葉は誓う為にあるのではない。言葉は語り、名付け、生み、巡り、そしてまた象る為にあるのだ。私の胸に燃える灯は、この世の命と結ばれている。けれど私の心に宿る燈は、絶えず変わり続けて歌を紡ぐ。言葉は、歌う為にある。私が其方に歌う為に、其方が族に歌う為に。そしてまた、数多のエルフと人の子が、其方等の父を歌う為に」

 二人は天上を仰ぐ。父が居た。シルマリルが燃えていた。ウルモは語らない。風も無い。西は薔薇色に輝き、そして海は、唯、海である。海であり続ける海である。

「マグロオル、いえ、そうお呼びして良いのならば――父上」

 エルロンドは遠く、茜色の夜空に舵を取る父の姿と、隣に立つ、孤独を託(かこ)つ父の姿とを見比べる。間にはただ、潮騒の音。 赦されている。全てが全てに赦され、そして全てイルーヴァタアルの恩寵である。だのに生みの父が赦され聖(きよ)められながら、育ての父が赦されぬなどと云う事がどうしてあり得ようか。

 シルマリルは彼の掌を焼いた。けれどそれは罰では無かった。傷は罪人への入墨ではなく、赦免の焼印であった。

「私が倦み疲れ、中つ国を離れるその暁には――赦されて、西へ」

 その哀しみを、その痛みを。誰がそれを分かっていて、貴方を赦さないで居られようか。その言葉は一雫、涙となって、海に溶けた。

 

 

 

 了

 

  ■希求

 

「我等は、どんな父を望んだろう」

 その瞬間迄、色々と難しく考えていたにも拘わらず、口の端から零れ落ちたのは存外子供っぽく、だが素直な言葉だった。

 自身の最期を、穏やかに見据える片割れ。そしてその片割れに別離の挨拶を、と赴いた自分。かつては共に在った。ずっとずっと、世界の終わる日迄、手を繋いで、額に銀色の星を戴いて、そうやって行き、生き続けるのだと思っていた。

 けれど片割れは往く、逝ってしまう。もう誰の手も、誰の光も、誰の闇も届かぬ処へ。それが彼の選んだ恩寵だからだ。永遠に寄り添うのではなく、永遠に憩う事を、彼は望んだ。そしてそれ故、明星シルマリルも斯くや、と思う程に、命を輝かせる。

 屹度、片割れの瞳に映る「父」は、自分のそれとは違うのだろう、とエルロンドは思う。琴より剣を。海よりも焔を。天上よりも大地を、彼は愛したからだ。イルーヴァタアルが次子の、その燃える様な命の炎を、彼は胸に宿して居たからだ。

 あんなに一緒だったのに、眼差しの向かう先は、最初から違っていた。

「エルロンド」

 皺枯れた、けれど哀しくなる程に穏やかな声だ。こんな声は、知らなかった。変わらぬ容姿を保つ、エルフたる己が辛かった。異なる決断を受け入れては居たが、何処かで納得が出来ていない。

「御覧、父上だ」

 水晶の嵌められた飾り窓の外、藍色と茜色の混ざり合う空の中に、眩く輝く大粒の星が見える。偉大なる航海者エアレンディルは、そのまま彼等の父でもあった。

「私にとって父上は、ただエアレンディルの事を指す。養い、育てて下さった方も居る。知と武を授けてくださった方も居る。けれど、私の父は矢張り、エアレンディルだと心より思うのだ」

 ――あれが、父か。

 無感動に空を仰いだ。悲しくなって目を伏せた。嗚呼、天空には今もシルマリルが穢れ一つ無く輝いている。燦然と、無慈悲に。

 おかしい、何かが酷く間違っている。それを何と言えば分からずに胸に仕舞っていた。片割れにも通じない、それは「父」の事。

 一族を殺し、何より母を殺さんとした者達。さぞ、父には憎く思われた事だろう。けれどその父が、あの宝玉を彼等に渡していたら?母が海に身を投げず、マエズロスに、或いはマグロオルに渡していたら?両の手は焼かれたのだろう。彼等は絶望の淵に身を投じたに違いない――けれど。

「もっと早く、終わらせる事とて出来た筈なのに」

 呪縛に、誓言に、縛られ囚われて喘いでいた。黒髪の伶人はかつて言ったものだ、私達はシルマリルが欲しいのか、それともそれによる解放が欲しいのか、と。彼等こそ、喩えどんなに過ちを犯し、同族を殺めたとて、最もかの宝玉を手にすべき者達だったろう。それは「相応しい」かどうかでは無い――それを「希求」するかどうかだ。

「苦しそうで、悲しそうで。どうして、どうして誰も、あの方々を救えなかったのだろう」

 救いたかった!幸せになって欲しかった!

 長兄は、大地の裂け目に抱かれて死んだ。最後に残った火精の家の子は、只海辺を流離い悔恨の歌を紡ぎ続ける。両の手は焼き爛れ、琴の弦は赤く染まった儘だ。

『長子がエルフで次子が人間だと言うのなら――もし本当にそれが、その言葉の儘であるのなら、私はどうしてエルフで在りたい等と思うだろう。死は紛れも無く恩寵だ。赦しも無い、罰も無い、その様な時に死があるとしたら、どんなに嬉しい事か』

 ダイロンに次ぐ伶人と謳われた、エルロンドの思うもう一人の父は、そう言って只、海を眺め遣る。切なくなるほど海の果てを見渡して、けれど舟にはもう、載らないのだろう。

「私の父は、二人居る」

 片割れは大儀そうに微笑むと、かさかさとした皺だらけの、骨ばった手で頬に触れてくる。

「それで良いのだよ、エルロンド。父や、母や、息子や娘が多くないと、屹度エルフは生きていけない。いつか死ぬのなら、花の散る様な淋しさにも耐えられようが、世界の命に沿ってゆくのならば、菩提樹の様に、地にしっかりと根を降ろさねば」

 思い出だけが、お前を守ってくれる。そう言うと片割れは、ゆっくりと目を閉じた。

 思い出の中に、航海者エアレンディルは、住んでいない。

「私は、どんな父を望んだろう」

 違う。父に望んだのではない、父である事を望んだのだ。

「矢張り、私には父が二人居る」

 ――「希求」しているのだ、「父」を。海の様に歌う男が、ただ「父」である事を。

 

 

 

 了

 

  ■孤独の傀儡

 

 連れてこられたのは、広間と呼んで差し支えない、暗く冷え切った場所だった。

 黒曜とも御影ともとれぬ床。西日の差し込む縦に細長い窓と、細かな意匠の施された壁。影の澱んだ天井。奥に設えてある、玉座とは言わぬまでも、統べる者の坐すそれ。孤独がこの部屋の主人なのだ、と思うと胸が軋んだ。この部屋の主は、本当は孤独の傀儡に過ぎないのだ、と想像を逞しくすると、自然と悲しくなった。

 二人は、物事の経過が飲み込めていなかった。遠くから、何か、誰かが攻めてきた。母は二人に言った、此処で大人しくしていてね。その通りにしていた。声も出さず、ただ抱き合って居た。日が沈み、また昇った。そして黒髪の男達が訪ねて来た。彼らは言ったのだ、貴方がたの御母上は、もう居られません。為すがまま、運ばれてきた。暖かいマントにくるまれて。今、再び日が沈もうとしていた。

「マグロオル様、お連れ致しました」

 玉座、と思える椅子に、一人の男が腰掛ける。濃藍の衣に、銀色の柔らかい肩布を掛けている。長い髪を一つに結って、余りに控えめな印象が喪を連想させた。背後の男達は言い終えると、形式的に礼をして去っていく。小さな労いの言葉が聞こえた。高めの、穏やかで悲しい、海の声だった。

「其方等が、エルロンドとエルロスか」

 マグロオル、と呼ばれた玉座の男は、二人に手招きしながら問う。エルロスは躊躇した様だったが、エルロンドはすぐさま男の膝下に駆け寄った。

「エルロンド、駄目」

 片割れは焦燥に駆られた声を上げる。けれどエルロンドは、違う理由で矢張り焦っていた。彼には男が悲しそうに見えた。今にも、泣いてしまいそうに。

 だが男は意外にもくすりと笑い、其方の方がエルロンドだな、と呟く。双子を見分ける事が出来たのが嬉しいらしく、玉座の下にぺたりと座ったエルロンドを咎める事無く、寧ろ、そんな処に座って寒くは無いのか、とまたしても笑った。

 エルロスは暫しの逡巡の後、緊張を解かぬままにエルロンドを前にして、玉座の正面左側に座る。マグロオルは笑う。穏やかで、暖かくて、悲しそうに。

 海の声では無いな、とエルロンドは己の考えを改めた。涙の声だった。それは塩辛く、澄んでは居るけれど、別のものだ。

 この男が孤独の傀儡なのか。エルロンドはそう思うと、男の仕草に織り込まれた悲哀の出処が分かる様な気がした。そしてさも、当然の様に思考は飛躍する――この男に、罪など無いのに。

「私が其方等を此処に召した。というのは、私と私の兄弟が、其方等の御母上とその族を殺めたから」

 分かっては居たが、こうも直截に言われると驚きを禁じえない。幼いながらも義憤を心に養うエルロスは、マグロオルをぎりり、と睨み据えた。その表情をしかと受け止めると、彼はふと俯く。

「私と兄弟は、シルマリルを欲している。其方等も知って居るだろう、あの宝玉を。我等はあれを欲する余り、この様な浅ましく醜い行いを為す迄になってしまった」

 マグロオルは虚ろに言うと、何処からか一つ、短剣を取り出して床に投げた。鞘を形作る青銅の冷たい音が、広間に反響する。短剣はくるくると弧を描き、そしてエルロスとエルロンドの間で静止した。

「一体――シルマリルが欲しいのか、シルマリルを手にすることによって得られる安寧が欲しいのか。もう、それすらも良く分からない。只、飢えて飢えて飢えて、殺して、殺されて」

 その宝玉を、二人は朧気に知っていた。美しくもあり、恐ろしくもあった。母はそれを尊び、同時に畏れた。見せびらかすものでも飾るものでも無く、崇めるものだった様に思う。嗚呼、あれがこの殺戮の引き金か。そう思うと何故かすとん、と心の中に納得と共に悲しみが落ちてきた。その悲しみは、当然母と族へのものである筈なのに、どうしてかエルロンドは目の前の男を哀れんだ。しょうがない、だってあの宝玉に魅入られてしまったのだもの、と小さな声が心に響く。孤独の傀儡。あの宝玉は、そうか孤独か。エルロンドは内心で深く頷いて、男の突然の身動きに些か驚いた。

 マグロオルはいきなり玉座を立つと、二人を前に、同じ様に床に座った。短剣を鞘から抜き、白刃を己の方へ向けて、柄を差し出す。恐ろしさに、心臓が早鐘を打った。

「其方等にとって、私は親の仇」

 それ以上聞きたくなくて、エルロスに抱きつく。片割れも同じ事を感じていたらしい、図らずも二人は、マグロオルを前にして抱き合う。

 声は朗々と、広間に響く。まろやかで、けれど厳かで。そして何処か矢張り、悲しくて。

「殺せ。その為に、其方等を此処へ呼んだのだ」

 柄を差し出された。刃物等、持った事も無かった。二人の中で、刃物は武器ではなく、調理と魔除けの為のものだった。流石のエルロスもこの様な展開は想像の範疇を超えていた様で、がたがたと真っ青になって震えている。

「殺せ。もう私は、其方等の様な者を生み出したく無いのだ。シルマリルを追うのは、疲れた。けれどそれは裏切りだ」

 誰に言っているのだろう、とエルロンドは思う。少なくとも、二人ではない誰か、遠くの者に。

「初めはヴァラアルを。次に親族と同族を。内心で、父を。もう裏切る事のできるものは殆ど残されていない。全てを裏切る前に、さぁ」

 マグロオルはゆるゆると、だが有無を言わせぬ力で、二人の小さな手を取り、短剣の柄を握らせる。その手は大きく、しなやかで、綺麗な指をしていた。

 恐ろしかった。歯の根が合わず、がちがちと口内で情けない音が発せられる。嫌だ、この男を殺したくない。

「嫌だ」

「嫌だよ」

「其方達しか居ないのだ」

 男の目を見た。疲労と悲哀と、狂気が見えた。そんなにも研ぎ澄まされた瞳をしていては、きっと男は滅んでしまう。

「お願いだ、殺してくれ」

 その時、背後の扉が開かれた。二人は驚いて、手はその儘に振り返る。目にしたのは赤い髪。夕映えと焔と、その両方を併せたかの様な、銅(あかがね)の。

「マグロオル!何をしている、斯様な子供に」

 赤い髪の男はやや焦って、徐に近づいて短剣を取り上げると、床に転がっていた鞘に収める。同時にパン、と乾いた音が響く。マグロオルの頬を打ったらしかった。

「目を覚ませ。お前が今、どれだけ残酷な事を行っていたか」

「――…すみませぬ」

 マグロオルは、思いの外冷静に、赤い髪の男を見上げる。瞳には、諦観までもが滲んでいた。

「殺しを無理強いする、それ以上だ。お前はそうやって、責任を取らずに楽になる積もりか」

「けれど」

「父上の蒔いた種だ、我等が刈る以外にあるまい。どうしても死にたいのなら、何処ぞより飛び降りるなり毒を煽るなりするのだな」

「……はい」

「気の迷いとは思うが」

 赤い髪の男は、ふと眦を和らげると、淋しそうに言う。マグロオルはそれを見上げて、小さく笑った。

「――もう、殺すのも殺されるのも嫌です。それを歌にしたい、歌い、奏でて、遠く美しい物語にしてしまいたい」

「マグロオル」

「私がこの子等に何をしたか。考えてみると、余程私は気が違って居る様な」

 はた、と涙が零れた。マグロオルの纏う、藍色の衣の襟に染みができる。それが酷く大きな事に思えて、エルロンドは辛くなった。

「これがエアレンディルとエルウィングの子等か」

 赤い髪の男は振り向くと、厳しい視線を二人に向ける。目を直視することは出来なかった。恐怖からでも、畏敬からでも無い。只、眩しかったのだ。その、翡翠の双瞳が。

「フィンゴンに似て――いや、その様な訳も無い。余りに遠い血縁だ」

 負い目なのかもしれない、と片頬で笑って、赤い髪の男は二人の頭を撫でる。眩しかった。光の様に、焔の様に。

「挨拶が遅れた、私はマエズロス。この、マグロオルの兄だ。其方達との繋がりを無理矢理にでも説明するならそうだな――其方等の曽祖父殿と従兄弟だ。ゴンドリンも滅び、その民も我らが殺したとなれば、意味も無き事だが」

 嗚呼、そうやって貴方までも悲しそうに俯くのか。詮の無き事、あの宝玉に魅入られてしまっては。エルロンドは半ば必死で慰めようと頭を働かせたが、思いに反して目からは涙が零れた。

「エルロンド」

 エルロスも、呼びかけと共に泣き出す。途方に暮れた。目の前に居る二人の男が哀れだった。裏切った、とマグロオルは言う。負い目だろうか、とマエズロスは言う。けれど、けれど。

「あの宝玉がもし、私に手招きをしたら、私だって簡単に殺してしまう」

 それだけを言って、泣いた。母の死よりも大きな悲哀が、目の前に佇んでいたのだ。

 ふと抱き寄せられて上を向くと、先程殺せと迫った顔だった。手は矢張り大きく、しなやかで、暖かい。

「貴方達が殺したんじゃない、貴方達に殺させたんだ」

 上手く言えなかったけれど、何かが、何処かが捩れていると思った。男達の面差しに走るそれは、欲でも悪意でも激情でも無く、唯それは。

 背なに回される腕が暖かく、大きく、涙が止まらない。

「何ゆえ、エルロンド。何ゆえ其方が、其方に限ってそんな事を言うのか」

 答えられない。答えようも無かった。そうやって二人は、新たな居場所を得た。暖かく穏やかで、悲しい場所だった。

 

 

 

  了

  ■降るものよ、積もるものよ

 

 マグロオルは、何でもテレリを凌ぐ様な楽師の君だと云う。

 マエズロスは滅多に自身や自身の身内について語らなかったが、この事ばかりは手放しで褒め称えた。

「我が弟の声は鬨ではなく歌の為に。手は剣ではなく琴の上に」

 艶やかな黒髪を揺らして、マグロオルは爪弾き、歌う。ダイロンに次ぐ伶人、フェアノオルが次子の、海の様な楽。流麗なるシンダリン、遠大なるクウェンヤ、淵より谺する運命の糸の震え。

 エルロスとエルロンドは、寝る前にその響きをせがんだ。悲しみの中の美、喜びの中の瑕。マグロオルは真実を丁寧に紡いだ。深く深く、海の様に。

 多くを知る訳では無かったが、二人が頼んだからだろう、ゴンドリンの陥落の断片をも歌った。泉のエクセリオンの勇壮なる死、上級王トゥアゴンの最期、彼らが祖父たるトゥオルの功、そして身を賭して忠を尽くした金華公、グロオルフィンデル。

 天翔ける二人の父は、それらの出来事を本当に知って居るのだと思うと、エルロンドは不思議な思いに駆られる。彼らにとって、父は何時も遠い存在だった。明星を戴いてよりは尚遠ざかった。けれど昔語りの時、高く低く流れる音律の狭間でだけは、酷く懐かしい存在でもあったのだ。

 

「父上」

 或る日の事だった。夜、夕餉の後にマグロオルの奏でる調べに耳を傾け、エルロンドがマエズロスの膝で夢の小路に迷い込もうとして居た時だ。最後の一音が終わり、その急な静けさに却って驚いて、彼の意識は浮上する。と、エルロスの些か躊躇を含む声が聞こえて来た。

「父上――?」

 その瞳はマグロオルに向けられて居る。片割れの言動をたちどころに理解すると、同時に自分を抱いていたマエズロスの左腕が強張るのを感じた。

「エルロス」

 エルロンドは思わず双子の兄に駆け寄る。エルロスは不安そうにマグロオルを見る。

 エルロンドも恐る恐る、マグロオルを振り返った。琴の上をのろのろと彷徨う手、質素ながら飾られた肩口や襟元、白い首、綺麗な頤の線、血の通い切らぬ唇、高い鼻梁、赤みに乏しい頬、それから――

「エルロス、私は其方の父では無い」

 声は震えているのに、それは歌う様に。

 エルロンドは視線を更に上に向ける。頬を伝うものを認めて、思わず怯んだ。

「如何して其方等の父たり得よう」

 泣いている。この方が、この声が、歌う様に。

 静かな口ぶりだったが、苛烈だった。いつもは見えぬ双瞳の埋み火が、激情に照り映えて結晶する。涙だ。彼の声は海に満ち、彼の瞳は火に喘ぐ。汐の味する筈の涙の一雫が、肌を焼く様にすら思われた。

「其方等の父は唯、航海者エアレンディルのみぞ」

 エルロスはぺたり、と床に手を突くと、火の付いた様に泣き出した。流石に見兼ねてマエズロスが抱き上げる。彼も複雑そうな表情だったが、何も発さずに、片手にエルロスを抱いたまま部屋を去った。開かれ、そしてまた閉まる扉から冷たい空気が押し寄せる。

 沈黙も、長くは続かなかった。エルロンドが扉から視線を外しマグロオルを見ると、涙がはらはらと散った。琴を持つ手が、真っ白になって震えて居る。思わず近付いて名を呼ぶと、琴を捨てる様にして彼は泣き崩れた。

「エルロンド」

 嗚咽混じりの声に呼ばれ、抱き上げられる。涙の温度だった。

「多くの出会いと別れを歌って来た。その、喜びと悲しみを。多くの愛と憎しみを歌って来た。その、熱と重みを。知って居ると思って居た、分かって居ると思って居た。けれど」

 涙よ、これ以上この者の肌を焼き給うな。エルロンドは念じ、それを指に掬う。透明で、海の味のする雫。何だ、シルマリルよりも、まこと美しいものが在るでは無いか。

「マグロオル」

 エルロンドの高い声は、思って居たよりも随分と悲しみを帯びて高い天井に響く。自身でも驚いたが、捨て置いた。

「私達には、『父』が必要なのです」

 稚拙な物言いだったが、それ以外に良い言い回しが在るとも思われない。マグロオルは意外そうな表情の後、涙の跡を留めた面差しを切なげに歪めた。

「如何して、私が斯く在り得ようか。私にはその資格が無い。嗤う莫れ、罪咎を甘んじて負わんとするは、我が心。私が、私自身に望んで居るのだ、赦されなどするものか、とな」

 嗚呼、この方は何時だって、自身に躊躇う事無く刃を突き立てる。そしてその流るる血で、出来得る限りの愛しき者の渇きを贖わんとする。そんな貴方にこそ、私は水を差し上げたいのに。

「その様な事は如何でも良いのです!」

 もがいた。肩口で甘える様に泣いた。即座に、強く抱き返して呉れる。海の音がする。鼓動は潮騒だ。父だった。

「子は親を選べぬもの。貴方を知ったその時から、貴方は私達の父。とうの昔から、何もかもの始まりから」

 養い親は驚きの中で口を開こうとするが、エルロンドは言い訳を聞きたくなくて、必死に畳み掛ける。

「貴方の贖罪と貴方の願いとは、全く別の処に在るのです。貴方が誓い、呪われ、殺さなかったとしたら、私は如何して貴方に逢えたでしょう。貴方がシルマリルを求めなかったなら、貴方が私達を救わなかったなら、如何して私達は、もう一人父が欲しい等と言いましょうか」

 マグロオルは、エルロンドよりもまだ幼い仕草で泣いた。可哀想だった。彼に、彼等にこそシルマリルを与えてやれれば良いのに。彼に幸せで居て欲しかった。エルロンドの生みの親たるエアレンディルに守られたあの光は、あんなにも美しく輝くのに、この悲哀の淵に佇む伶人一人、幸せに等出来ないのだ。

 歌に織られた、己の父を想う。祖父を想う。その又父、偉大なるゴンドリンの主を想う。歯痒かった。彼らはシルマリルを知っていた。それによる喜びも、苦しみも、怒りも、嘆きも。己が其処に居たのなら、この方に幸せを手渡せたかもしれない。少なくとも、一切の終焉を与える事が。母を想った。あの石を彼女から奪えば良かったのだろうか?機は幾らでも在った。そうすれば、不幸を背負い、悲哀の血で琴を染めるばかりのこの方を、幸せに出来たかもしれないのに。

「エルロンド、もう誰一人として、私の願いを聞き入れる者等居らぬ。私の平安と幸福を、赦す者等居らぬよ」

「此処に居ります!」

「何時か分かる。兄上と私の、誓いに縛られる愚かしい様が。浅ましい心が」

「それでも良う御座います」

「エルロンド」

「もう赦して居ります、最初から――」

 最初から。世の全てに先んじて、貴方は。

「とうの初めから、貴方は赦されて居る。全てに、全て故に」

 この方に幸福は訪れない。シルマリルには、否、最早この世の全てには、彼を幸せにする術が無い。そんな事は分かっていた。けれど然らばそれ故に、幸せになって欲しかった。誰よりも、何よりも。無力なこの世の全てに先んじて、何もかも初めから。

 父と呼ばれて振り返って呉れる迄、己はアルダと命を分かち生き続ける道を選ぼう。哀しみや苦しみが待って居ようと、この方が歌うのではなく、いつか偉大なる航海者と並んで、歌われる日が来るのを夢に見よう。

「何時か別れる日が来るのでしょう。けれど、私はきっと、貴方の傍らに居ります。私は赦したく想われて――さらばこそ、この世に在るのですから」

 幸いあれ、幸いあれ。この哀しき者の上に、重き荷を背負う双肩に、それは降る様に、積もる様に。

 

 

  了 


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
0
0

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択