No.226105

【加筆修正版】Two-Knights 外伝 第二話 「贖罪の山羊」

C80発表の「"Two-Knights" 外伝短編集」のうち、第二話の序盤部分を公開いたします。

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 <1>

 

 少女が祈りを捧げていた。

 小さな礼拝堂。木造の祭壇に、石造りの神像──これら神具の数々は、大都市の聖堂の持つ荘厳にして煌びやかなそれとは対極に存在する質素な代物であった。

 壁越しに海鳥の鳴き声と、船乗りの威勢の良い声が微かに聞こえてくる。

 そこは港町にある小さな礼拝堂であった。

 祈りを捧げているのは銀色の髪の少女。年の頃は十二、三。

 彼女は正規の聖職者ではない。その身に纏っているのは純白の長衣──神殿の構成員たる神官が纏う青と白を基調とした神官着ではない事がその理由。

 平信徒の衣装であった。平信徒とは、正規の聖職者同様に神殿に身を預け、様々な宗教的教育や修行、及び祭事を執り行う際の雑用といった様々な仕事を請け負う宗教勢力の末端構成員である。

 彼女は最終地である聖都グリフォン・テイルにて洗礼を受け、正規の聖職者となる為の、巡礼の旅の途上にある。

 そんな巡礼者の小さな背中の後方。礼拝堂の入り口付近にて静かに佇み、近い将来、立派な聖職者になるであろう少女の祈りを優しい眼差しで見守るもう一人の女がいた。

 年の頃は十七、八。

 金色の長くしなやかな髪は、神官着の肩のところを超えたあたりまで伸ばされ、毛先に至るまで小奇麗に手入れが施されていた。

 派手さこそはないものの、見る者に清潔な印象を与える。

 物腰には大人びた穏やかさが滲み出ており、年相応の者達が持つ快活さとは無縁の様相。

 そんな若き女神官に向かって、穏やかな足取りで歩み寄る翁がいた。

「お久しぶりでございますな。神官セティ殿」

 翁は静かな声で、入口で佇む神官の名を呼んだ。

 セティと呼ばれた神官は、懸命に祈りと続ける少女に気遣いながら、声のした方を向き、静かに会釈をする。

「御無沙汰しております。司祭様」

「貴女が以前、ここを訪れたのは──かれこれ五年も前の事であったか」

「はい。あの頃の私は、あの子──リナリーのように、正規の聖職者となるべく巡礼の旅の途上にございました」

 老司祭は、深い皺に刻まれた顔に柔和な笑みを浮かべ二度頷いた。

「そんな貴女が今度は神官戦士として幼き信徒を守り、そして導いているとは、健気なこと。さぞかし神もお喜びであろう」

「いえ。私がここまで息災に過ごす事が出来たのは神の御加護があってこそ。このような形でその御恩に報いる事は当然であり、司祭様のお褒めに与るような事ではございません」

 そう言うと、セティは短い感謝の祈りを捧げた。

「──して、御二人は今しがた本国より来られたのか? 船に酔われたのか、いささか疲れの色が見えているようではあるが」

「いえ、司祭様」神官は首を横に振る。

「我々が旅を始めたのは、私が十六の頃にございます。疲れの色が見えているのは、この長旅が終わりに近付いているが故にございましょう」

「ほう、それでは……」

「ええ。明日一番の船で本国へと戻ります。そして、我ら聖職者にとっての魂の故郷。聖都グリフォン・テイルへ──」

 その声には、喜びの感情が籠められていた。

「聖都周辺の山道は魔物の出没なき極めて安全な地域。道こそ険しいが、あの美しき神の御園へと辿りついたのならば、旅の疲れや苦慮の記憶など軽く吹き飛ぶことであろう」

 司祭は、その表情に似つかわしい穏やかな声で、若き神官を励ました。

 少女の祈りは終わらぬ。

 そんな敬虔なる信徒の小さな背中に、セティは憂慮に満ちた視線を向けた。

「この子に、洗礼の苦しみに耐えられるのでしょうか?」

「断食の事かね?」

「ええ。私も十三の頃、聖都で洗礼を受け、晴れて神官となりましたが──今でも、あの苦しい日々を昨日の事のように思い出す事ができます。空腹故に夜は一睡もできず、当時私と共に巡礼をしていた数人の同胞らが、最初の一日で半数、二日で残りの半数が心身を狂わせ脱落していきました。唯一残った私が過ごした最後の一日がなんと苦しく、長かった事か」

 呟き、遠い目をして過去の苦行を思い出す。

 三日間の断食──心身が万全な者ならば乗り越える事も決して難しくないのかも知れない。しかし、巡礼者は二年以上にも及ぶ国内、諸外国に点在する巡礼地の訪問という長い旅路を経て、聖都にてこれらの試練に立ち向かうのだ。

 長旅の疲労もさることながら、道中で魔物に襲われ、同行者の死を目の当たりにして心に大きな傷を負う者、或いは巡礼者本人がその身に一生治らぬ損傷を残す者も少なくない。また、旅先での病や遭難などといった不運によって、その体力を大幅に削りながら旅を続行する者もいるのだ。

 そんな苛酷な旅の果てに待ち受けている最終試練──それが聖都での断食修行である。

 その苛酷さは言うに及ばぬ。

「しかし、リナリー殿の旅は順調のように見えるが」

「ええ、主だった障害もなく、ここまで無事に辿りつく事が出来ました。病の類にもかかる事もなく、旅の疲労も心身の疲弊も軽微なものであるはず。後はリナリー本人次第なのでしょう。ですが……」

 そう言うと、セティは表情を曇らせ、視線を落とす。

 落胆の理由を、司祭は瞬時に察した。

「やはり、セティ殿も御存じでしたか……」

「ええ。我々も数ヶ月前、ガルダバルトという南の群島諸国にある聖堂に身を寄せていた際に、知った話なのですが……」

 その話は、セティにとって信じがたい話であった。

 今年より聖都での断食修行期間を、三日から四日に引き伸ばされるとの事であった。

「理由は明らかとされませんでした。それ故、ガルダバルト聖堂では、様々な噂が飛び交っております。最も多い声としては、新しい聖職者の誕生を制限し、各神殿での支出軽減を促しているのではないかというものです」

「かつて我々聖職者が錬金術師に対して不当に強いて来た差別や弾圧。それに対する贖罪の盟約が締結された百五十年前以降、各地の神殿は錬金術師の支援を無制限に行ってきた。かつては民の信仰を集め栄華を誇っていた各地の神殿も、聖都グリフォン・テイル大聖堂と、セティ殿の本国王都グリフォン・ハート大聖堂を除いては、見る影もないのが殆ど。とうとう財政が困窮としてきたのでしょう」

 所謂、口減らしであった。

「──過去の負の遺産を、とうとうリナリーのような若い世代に背負わせてしまった事となってしまった訳だ。無力な我が身を恥じねばなるまい」

 老司祭はいまだ祈りを続けている少女の背中に、そして、彼女が祈りを捧げている神像を眺め、そう呟いた。

「神は現世に過剰な干渉はなさらない。それは我が子たる人間を育てる為。常に思考を促し、それが種としての前進を促す事に繋がるのだと──それ故、神は人に試練を課す事もあるのだと」

 セティは静かに頷き、眼前の小さな背中を静かに見守っていた。

 そして、考えていた。

 自分は神官戦士として、この試練に立ち向かう為に何をすべきなのかという事を。

 祈りを捧げる少女──リナリーを守り、そして、どのように導いていけばよいのかという事を。

 しかしこの時、セティは何も知らなかった。

 聖都に静かに忍び寄る『滅び』の未来を。

 その『滅び』を呼び込む、僅かなる『綻び』の存在を──

 

 

 <2>

 

 聖都グリフォン・テイル。

 宗教都市として名高く、この国で唯一、騎士団の保護下に置かれず、大聖堂の管理下に置かれる『僧兵』と称された神官戦士らによる自治が認められている街。

 この街には、主だった大路が二つ存在している。

 一つは大聖堂に至る大路。主にこの路を行き交っているのは青と白を基調とした神官着を纏いし神官と、純白の衣を纏った巡礼者ら。

 そして、大聖堂に身を置く武装した僧──この街の治安維持を任されし僧兵達。この都を象徴する三種三様の聖者の行き交う路であった。

 もう一つは、太守の居城へと至る大路。そこを行き交うは、旅の商人達。その各々の前後には、用心棒と思しき屈強な戦士達が肩で風を切って歩いていた。

 聖都は、不毛な岩山が大半を占める高山地帯に存在しているという土地柄の問題上、農耕には向かず、また清貧を重んずる宗教的な理由により、そこで行われる産業、商工業の類は一部を除き、制限が課せられている。

 それ故、この街には巡礼者や、周辺地域の敬虔な騎士や貴族らからの寄付金を除けば主だった収入はなく、物資の類は彼らのような旅の行商人らに頼っているのが現状。

 主だった産業に頼らずとも、長きに亘ってこの広大なる街を維持出来るという事実が、大聖堂の勢力は強さを物語っているとも言えよう。

 国内のみならず、諸外国民の信仰の対象としての役割を一手に担ってきた宗教機関である。寄せられ、蓄えられた財の高は推して知るべし。

 彼ら行商人にとっても、努力次第によっては大聖堂御用達となる事も夢ではなく、そうなれば一代にして財を築き上げる事も不可能ではない。

 名も無き露天商らにとって、この聖都こそ夢と現実を繋ぐ唯一の活路に他ならない。故に、商人らは競って重い物資を抱え、険しい高山の先にある宗教都市を目指す。

 そういった性質上、このグリフォン・テイルには各地より多くの名品・珍品が多く集まると謂れており、その噂を聞きつけ、これもまた各地より多くの者が、そんな目新しい品を求めて、この聖なる都を訪れるのだ。

 不毛の地に興された聖都は、この二つの大路を中心に活気づいていた。

 神官戦士セティと巡礼の少女リナリーは、この二つの大路が交わる広場に面した巡礼者用の宿に身を寄せ、宛がわれた三階の部屋の窓より、広場の様子を眺めていた。

 澄んだ空の下、広場には楽師、歌人や旅役者らが歌や芸を披露し、通りを歩く聖職者や巡礼者、商人や護衛の戦士の足を止めている。

 芸や用いられる衣装には宗教的な配慮が成されており、また、古来の伝統的技法をもってして編み出された類のものである。それ故に洗練されており、尚且つ聖職者らも安心してこれらを鑑賞することが出来るのだ。そして、一座の芸が終わりを告げた刹那、その技術に聴衆は皆、心より感服し、拍手を送っては用意された箱に銭を投げ入れる。

 セティはそんな雑踏の光景を、高みよりぼんやりと眺めていた。

 二人が聖都に入ったのは、今朝の事。だが、時機が悪かったのか、今日の大聖堂は沢山の巡礼者によって異常なほどに混雑しており、聖堂の神官らが、訪問者への対応と説明に追われていた。

 聞けば、非常事態であるが故、巡礼者の対応は行えぬとの事。

 その非常事態とは何だったのか──聖都では様々な憶測が飛び交い、何が真実か、誰も判断のつかぬといった有様。

 旅の疲労もあってか、これ以上、騒がしい大聖堂内に滞在する事を諦めた二人は、早々にこの宿へと引き上げたものの、目下の目的を失った彼女らは途方に暮れていた。

 そして。今に至る。

「明日、改めて大聖堂へと向かいましょう。今、何故洗礼が受けられないのか──少なくとも、それだけは明確にしておきたいですから。そして、私も正規の神官として協力できるのならば、手を貸さねばなりません」

「はい」

 リナリーが気丈に答えた。まだ子供の彼女にとって、二年にも及ぶ巡礼の旅は、長く辛いものであったに違いない。

 旅立ちの後、故郷グリフォン・フェザーの仲間達を思い出しては、寂しさのあまり、隠れて泣いていたところを何度見た事か。

 一日も早く正規の神官として認められ、故郷へと帰りたい事だろう。そこで、家族同然と言っても過言ではない仲間達──司祭、神官、そして歳の近い平信徒たちと再び、穏やかな生活を送りたいと思っている事だろう。

 焦る気持ちを押さえながら、やっとの思いで辿りついた最終地で思わぬ足止めを受けてしまったのだ。

 言葉に出さずとも、リナリーの顔を彩る繕った笑みの奥からは、明らかな落胆の気配が伺える。

 セティは、隣で窓の外の風景を眺める少女の髪を優しく撫でた。

「大丈夫。これは疲れた身体を休ませるようにと、神が御配慮されたに違いありません。今はそれに甘え、来たる断食の日に備えて体調を整える事を第一に考えるのです」

 我ながら苦しい言い訳であった。

 しかし、そんなセティの配慮が通じたのか、巡礼者の少女は小さく頷き、再び微笑んだ。

 彼女より漂う落胆の気配が幾分和らいだかのように感じ、セティも安堵の表情を浮かべる。

 そして少女の手を取り、言った。

「食事にしましょう。疲れた身体を癒し、体力をつけるには食べる事が一番ですからね」

「はい」

 そう言い、リナリーが頷いたその時、階下の通りより女の悲鳴が木霊した。

 

 石畳が敷き詰められた地面に今、一人の少年が叩きつけられた。

 痛みに蹲らんとしているその顔に、更に足蹴が見舞われ、傷だらけの身体に、新たな痣が作られる。

 革鎧を身に纏った軽戦士めいた装いの少年は、もはや抵抗を試みるほどの体力が残されていないのか、殆ど為す術がないといった有様であった。

「あの程度の働きで報酬を得ようなど、どの口がそれを言うか!」

「ならば、我々がそのような言葉など吐けぬようにしてやろう!」

 少年に暴行を加えているのは武装した二人の僧兵。

 罵声を浴びせながら振るわれる暴威は留まる事を知らず、それは少年が死ぬまで続けられるのではないかとさえ思われた。

 通りには人だかりができ、また宿場に身を寄せている者も、入口、或いは窓より顔を出し、誰もこれらの横暴を止める事もできず、ただ事の成り行きを戦々恐々と見つめていた。

 相手は僧兵である。通りを行き交う者の殆どは、宗教的な身分の低い神官や、まだ正規の聖職者として認められていない巡礼者である。そんな彼らに、この聖都の守護者とも言うべき者達に反抗する事など出来る筈もなかった。

 ただ、一人を除いては。

 騒ぎを聞きつけ、階下へと降り立ったセティだった。

「止めなさい!」

 凛とした、制止の声を上げる。

 その声に、僧兵らは動きを止めた。しかし、それも数瞬のこと。声を発したのが二十にも満たぬ神官の少女である事を知るや、脅威に値せぬと判断したのだろう。男達は声を無視し、改めて少年に向き直り、再び拳を振り上げた。

「止めなさいと言っているのです!」

 その一瞬の隙を見逃さず、セティは間に割って入る。

「何だ、この女!」

「大聖堂の管轄下にある僧兵が敬虔な信者の面前で無抵抗な者に暴力を振るうなど、恥と思わないのですか!」

 叫び、男を突き飛ばす。

 セティは旅の戦士。この二年間にも亘る旅の最中、魔物と遭遇し戦闘を余儀なくされた事は数知れぬ。それ故、女の細腕であっても、彼らを突き飛ばすに十分な膂力を有していた。

「貴様!」

「下級の神官の分際で!」

 大の男が雑言を浴びせる。しかし、地面に転がりながら上目気味に見上げ、喚き散らす様は滑稽にも見えた。

「これ以上、公衆の面前で大聖堂の恥を晒すような事は許しません。この子に謝罪をし、早々に立ち去るのです」

 心の中で呆れながらも、セティは男に諫言する。

 しかし、この言葉によって男らの敵愾心を煽ってしまったのか、二人の僧兵らはおもむろに立ち上がっては、片方は地面に唾を吐き、もう片方は凄みを利かせた声を発した。

「嫌だ、と言ったらどうする?」

 その声が発せられた次の瞬間、僧兵らは遂に腰に携えていた武器を──戦棍を構え、腰を低く落とし始めた。

 その所作を臨戦の態勢である事を察したのか、恐怖のあまり観衆の誰もが口を噤む。

「散々恥を晒しておきながら、まだ居丈高に振る舞うとは──」

 セティは眼前の二人を睨みつけ、侮蔑の言葉を吐いた。

「徳を積み、人道を重んじる事を至上とする聖職者にあるまじき所業。──その腐った性根、この私が叩き直して差し上げます」

 戦槌を構え、セティも臨戦態勢に入る。

 所詮は街中の喧嘩である。防御の際に相手の武器を叩き落とし、無力化させれば勝負はついたも同然。そうすれば、劣勢を悟って逃亡を図るか、降伏するに違いないと彼女は見積もっていた。

 無論、相手に怪我をさせるつもりなどない。だが、弾みで手や手首程度は痛めつける事もあるだろうが、その場合は格上の相手に喧嘩を仕掛けるという愚かな判断を下した代償と思って諦めてもらおう。

 そう、覚悟を決めた。

 両者間に漂う空気が急冷する。

 セティはじりじりと間合いを詰める二人の僧兵の一挙手一投足を交互に注視する。

 そして、二人の男の足取りが──止まった。

 セティは一瞬身を固くし、戦槌を一際強く握りしめ、二人からの一斉攻撃に備える。

 ──来る。

 そう思った次の瞬間。人垣の中より進み出て、セティと僧兵らの間に割って入る人物がいた。

 煤けた長衣を纏った男であった。

 中背であれども、長衣の上からでもわかるほど筋骨のしっかりした体格、広い背中の持ち主であった。

 袖から覗く手の甲の色は、まるで日に焼けたかのように赤黒く、髪は一切の手入れをしていない、荒れたもの。

 良く言えば野性的。悪く言えば粗野な印象を与える男であった。

 旅の戦士か──セティは、一瞬そう思ったが、見たところ戦士らしき武装をしている様子はなく、彼が所有しているのは右手の分厚い書物のみ。

「大の男が、こんな昼間から女相手に喧嘩か?」

 男は空いた左手で後頭部を掻き、そしていきり立つ僧兵らを鋭く睨みつけた。

「──面白そうじゃねぇか、俺も混ぜてくれよ」

 

「どんな物だって、固い場所で殴れば武器になる。何事も状況に応じて知恵をうまく働かせられるどうかが勝負の鍵なんだ」

 そう言い、不敵な笑みを浮かべた男が杯に注がれた酒に口をつける。

 夜。セティとリナリー、そして、昼間に現れた長衣の男は、大通りに面した食堂にて同じ卓を囲い、食事を共にしていた。

「ですが、貴重な書物をそのような用途に使うとは……」

「その意外性があったからこそ、簡単に追っ払う事が出来たんじゃねぇか。あいつらだって、たかが一冊の本で自分達がどうにかされるなんて思ってなかったんだろうからな」

 頬を掻くリナリーの頭を、男はその大きな手でやや乱暴に撫でる。

 男はクライドと名乗った。褐色の肌と、無造作に伸ばされた髭、そして獣めいた光を内包した目が印象的な──そう、セティが最初に受けた印象通り、良く言えば野性的、悪く言えば粗野な中年の男であった。

 だが、どこか温かい──まるで父性のようなものを感じる、そんな男でもあった。

 クライドはあの後、たった一人で、襲いかかる屈強な僧兵を伸してしまったのだ。

 手にした分厚い本の背表紙で。

「まぁ、学者たるもの本は大切に扱わなければいけないものらしいのだが、あそこで頭でも殴られて、折角蓄えた知識が幾つか飛んでしまうよりはいいだろう?」

 そして、クライドは下品な声をあげ、また笑った。

 事もあろうか、この男──学者であると言うのだ。

 以前、大聖堂より仕事の依頼を受け、今回はその結果を報告する為、聖都を訪れたのだという。

 俄には信じられぬ話だった。

 セティが抱く学者の印象とは──常時屋内に引きこもり、知識の蓄積や研究、論文の作成や議論に明け暮れる生活を送っており、男女問わず肌は青白く、体力の類は揃いも揃って貧弱といったもの。

 しかし、眼前の男はどうであろうか?

 歴戦の戦士の如き隆々とした筋骨を堂々と晒し、そして学者として繊細であると思われた精神面においても、この男に関して言えば大雑把な箇所が散見される。更には喧嘩っ早く、好戦的。

 セティが学者というものに対して抱く印象とは真逆に位置する風貌と性格であった。

 しかし、一度会話が始まれば、そんな風貌からは想像の出来ぬほどに知識の幅は広く、見聞の広さが伺えた。

 そして、これは本人が意識しているかは定かではないが──大雑把でいい加減な口ぶりも、学者特有の難しい話を噛み砕き、解りやすく他者に伝える為に役立っているように見えた。

 大聖堂直々に依頼を受けるほどに名の知れた学者であるのも納得のゆく話である。

 しかし、そんな高名な学者だったら『面白そう』なんて理由で喧嘩に首を突っ込まないで欲しい──喉元まで出かかる言葉を飲み込み、セティは必死に別の言葉を繕う。

「全くですね。クライドさんのお陰で、あの僧兵らも今頃は自らの犯した過ちの愚かさを悔いていることでしょう」

 セティとリナリーは、明朝、このクライドとともに大聖堂に行く約束を取り付けていた。

 事情を聞いたクライドが「明日面会する事となっている大聖堂の実力者に引き合わせてやろう」と提案してきたのだ。

 そうすれば、暫くの間その実力者の下で働く事になるだろうが、その見返りとして優先的にリナリーの洗礼を執り行ってもらえるのではないか?──いや、それがすぐには不可能であっても、何らかの便宜は図ってもらえるのではないかという。

 あの大聖堂の混迷ぶりを見て、途方に暮れていたセティにとって、これは願ってもない幸運であると言えよう。

 そんな親切な好漢に対し、礼を欠いた本音など言える筈もなかった。

「そうだといいんだがな」杯の酒を一気に呷り、クライドが呟く。「しかし、最近の聖職者というものも、随分と強欲になったものだな。昔はもっと清々しいまでに欲というものを感じなかったんだが」

 話題は暴行を受けていた少年の事へと移っていた。

「あの子も気の毒な事です。仕事を探して遥々遠方よりやってきたものの、まさか雇い主があのような人間だったとは……」

 そう言い、セティは昼間の少年の話を思い出していた。

「郊外に出没したゴブリンの討伐──提示された報酬金も相場通り。万が一、手傷を負った際には傷薬の支給もあるという事も、普段魔物の被害が少ない聖都の事情を考えるのならば、そのくらいの手厚さもあって然るべきとは思います。仕事の内容に怪しさはありませんし、所詮はたった一匹のゴブリン討伐。幾ら未熟な少年の剣士であれども、力量相当と思い至り、その仕事受けたという判断は間違ってはいないと私は思います。ですが……」

 戦士にとって至極簡単かと思われた仕事に、少年は失敗した。

 原因は明白。この聖都の地が高山地帯に位置している事を配慮していなかった事──空気の薄さを見誤った所為であった。

 それ故、少年はゴブリンへの追跡と戦闘の最中、とうとう息が上がってしまい、不覚の敗北を喫した。命からがら這う這うの体で依頼主のもとへと逃げ戻り、失敗の報告の後、せめて怪我の手当ての為に傷薬をと願い出たところ、あのような罵倒と暴行を浴びせられたのだという。

「まぁ、傷薬は錬金術の賜物。相当に高価な品だ。仕事に失敗した奴に渡したくないという気持ちもわからなくもないけどな」

「ですが、戦士とはいえ、手負いの子供にあんな仕打ちをする事はないと思いますが……」

「それは同感だ」クライドは、固く焼かれたパンを食いちぎる。「錬金術によって作られた傷薬というものは、あんたたち神官らが施療院でやっている医療よりも格段に効能が高い。たった少量を患部に軽く塗りつけるだけで、傷口の止血のみならず化膿をも予防するんだからな。聞くところによると、普段の倍、傷の治りが早いそうだ」

「まるで、魔法のようですね」リナリーが素直な感想を述べる。

「ああ。まさしく魔法だ」固パンを軽く平らげた男は、今度は眼前の皿に盛られた焼いた肉の山に手をつける。

 そして、その皿の肉を三割ほど平らげた時、クライドの眼差しが不意に真剣なものに変じた。

「だからこそ、そんな力を手にした瞬間、人ってものはどこかおかしくなってしまうものさ。特にそれが──『癒し』に関わる力ならば、尚更な」

「──どういう事です?」

 その不意にして、意味深長な言葉にセティの興味はそそられ、心が色めき立つことを自覚した。

「特にその──『癒し』の力というものが、人を狂わせるという事についてです」

「人ってものはな、傷つくのは簡単だが、その傷が癒えるには相当な時間と手間がかかる」

 褐色の男は、忙しく肉を口に運びながらも器用に話を続けていた。

「だから人は傷つく事を恐れるし、他人の為に自らが傷つく事を厭わぬ騎士に人は最大級の賛辞と尊敬を送る。そして、万が一傷を負ったとしても、その傷や痛みが一日でも早く治る手段を渇望するものだ。錬金術師が自分の作った薬に法外な値段をつけたとしても、手に入れようと思う連中がいるほどなんだからな。『癒し』とは、それだけ魅力があるものであると言い換えてもいいだろう」

 セティにもリナリーは頷いた。凡夫である二人にとっても、ここまでの話は十分に理解が出来る。しかし、どこか釈然としなかった。

 そんな当たり前の事を用いて男が何を言い示そうとしているのか?──論点が見えなかったからだ。

 それを察していたのか、クライドは再び二人を見据え、言った。

「じゃあ、少し想像してみな──もし、自分が人の傷をたちどころに癒す事の出来る、そんな奇跡の術を身につけていたとしたら?」

「──!」

 その言葉に、クライドの真意を悟ったのか、セティは息を飲む。

 一方、リナリーは質問の意図が掴めず、首を傾げた。

「マーガレッタ様のように、ですか?」

「──誰だ、そいつは?」

 この質問に対する質問に、クライドはあからさまに困惑した表情を見せた。

 その様子を見て我に返ったセティが慌てて補足する。

「お伽噺に出てくる架空の人物です。その信仰の篤さ故に、神より『人間が受けた病や怪我をたちどころに癒す事の出来る』力を与えられたという設定になっており、仲間とともに都を襲った悪い竜を打ち倒すというお話です。故郷の神殿では、この物語を教材として子供達に信仰の尊さと、他人との協力や団結の大切さを説いております」

「ああ、なるほど」クライドは得心して頷いた。「じゃあ、リナリー。お前が、そのマーガレッタという司祭のような力を持っていたらどうする?」

「私なら」リナリーは毅然とした態度で答えた。「病や怪我に苦しむ人達への奉仕の為に、一生を費やします」

「そうか。リナリーは偉いんだな」

 クライドは満足そうな笑顔を見せ、またリナリーの頭をやや乱暴に撫でる。

「その言葉と気持ち──絶対に忘れるんじゃねぇぞ」

「──はい!」

 少し痛そうに顔をしかめるリナリーも、どこか嬉しそうに見える。

 この、まるで本当の親子のようなやり取りは、傍目から見ると微笑ましい光景である。

 しかし、セティはこれを直視出来ずにいた。視線を落とし、卓上の器に注がれた、香草の香り漂う茶に口をつける。

 そして、一人思考の世界に耽った。

『もし、自分が人の傷をたちどころに癒す事の出来る、そんな奇跡の術を身につけていたとしたら?』

 先刻、クライドより投げかけられた、この質問の真意。

 その答えは、既に存在していた。

 リナリーの言う『司祭マーガレッタのお伽噺』に。

 いや、正確にはリナリーの知らぬ、その後に続く物語に──

 そう、『司祭マーガレッタのお伽噺』には続きが存在していたのである。神殿では、物語の前半部分を抜粋し、平信徒の子供達に対する教材として使用しているだけに過ぎないのだ。

 物語の後半に記されている内容とは──マーガレッタの凄惨にして狂気に満ちた転落の人生。名声がもたらす甘美に魅入られ、そして狂った哀れな女の末路であった。

 

 都を脅かす魔物を仲間らとともに掃討した戦士達は、遂に救国の英雄として崇められる事となり、中でも司祭マーガレッタは、神より授けられた『人間が受けた病や怪我をたちどころに癒す事の出来る』という唯一無二の力をもっているが故、更に格別の扱いを受けたのだという。

 戦いとは、常に自らが傷つきながら敵を倒す事である。そして、生身の人間ならば、傷の治癒にかかる時間は長く、それが重篤であればあるほど、戦線への復帰は遅くなる。

 しかし、彼らが不死身の戦士たらしめ、人々を救う事を可能とさせたのは、ひとえにマーガレッタの力があったがため。

『人間が受けた怪我をたちどころに癒す事の出来る』力──即ち、それは幾ら傷を負おうとも瞬時に最高の状態で復帰させ、常に仲間達が持ち得る戦闘力を高い水準で維持する事を可能としているという事である。

 その功績の大きさは誰もが認めていた。それ故、誰もが彼女が受けている扱いに対して何の異議を唱えなかったのだという。

 無論、民衆も彼女を救国の英雄として盛大に歓迎していた。

 以後も時折、都は魔物の襲撃を受け、その度に、マーガレッタは仲間たる戦士らを率いて、これを討伐した。

 戦士達に対する名声・求心力は日増しに高まり──そんな中、格別の扱いを享受し続けていたマーガレッタはやがて冗長し、次第に自分が神であるかのように振る舞い始めたのである。

 神の如き力を得ていたとしても、その心は人それと変わらぬ。うつろい易く、欲や感情に捕らわれ易い。

 そしてある日、彼女の暴挙に疑問を覚え、諭そうとした仲間の一人が──彼女の手によって謀殺された。

 直接、手を下した訳ではない。だが、それは彼女のみ可能であり、そして至極簡単な方法であった。

 彼女の仲間達が最強の戦士たらしめていたのは、マーガレッタの奇跡の術があってこそ。

 それを算段に入れた上での戦術──多少の損害を覚悟の上で、攻勢に特化した戦法に慣れ親しむ戦士達が、戦いの中で施される筈の『癒し』がなければどうなるのか?

 ──結末は言うまでもない。

 戦いにおいて、生殺与奪の全権を握っているマーガレッタであるが故、容易に可能としていた謀殺である。

 戦士の替えなど幾らでもいた。

 マーガレッタの名声を聞きつけ、その恩恵に与らんと各地より腕自慢の戦士達がこぞって彼女の元を訪れていたからである。

 そして、この補充要員の選定はマーガレッタのみが有する特権であった。

 強者を──いや、自分に更なる名声を最も『効率良く』もたらしてくれるであろう戦士を選別し、これらに格別の待遇をもって出迎え、逆に力の至らぬ者達を徹底的に見下し、罵倒し、時には凄惨な仕打ちをもって卑下したという。

 こうして、狂いし司祭マーガレッタは奔走した。

 戦に巻き込まれ、傷を負った民衆らにすら『癒し』を施すことなどなく。

 そして、あろうことか彼女は国王を誑かし、民に重税を課しては、これによって得た金を全て自分や招き入れた仲間達の贅沢の為に浪費していった。

 まさに湯水の如く。

 全ては自らを頂点とした最強の軍団を結成する為に。そして、神の如き名声を持った英雄とならんとする為に。

 この時、彼女は人生の極致に至っていた。

 ──だが、その栄華は長くは続かなかった。

 ある日、この暴挙に怒った神が豪雨と土砂崩れを起こし、無限に魔物が住まうとされた巣穴を崩落させたのである。これにより魔物の脅威が去った都は過剰な防衛を必要としなくなったのだ。

 そして、それは戦士達にとって、マーガレッタのもとへと集う利点を失うと同義。

 彼らは一人、また一人と彼女の元を去っていった。

 また、数々の暴挙に耐えながらも彼女を信じ、崇拝し続けていた民衆らも、その対象の正体が、傷ついた弱者たる自分達に『癒し』をもたらす『天使』ではなく、欲にまみれた『悪魔』であると知るや、遂には怒りが頂点に達し、これらをマーガレッタ追放へと駆り立てたのである。

 こうして、この物語は──怒れる民衆によって捕えられ、断頭台の露と消えたマーガレッタの凄惨なる姿を克明に描写し、締めくくられている。

 

『司祭マーガレッタのお伽噺』とは、前半に綴られる人間の善の面、そして、後半に綴られる悪の面──この二面性を題材とし、人間の心の脆さを。身の丈に合わぬ力によって翻弄された運命の悲哀を綴った作品であった。

 この点にクライドの言葉の真意がある──そう、セティは思い至っていた。

『癒し』という価値の高く、誰もが羨望する希少な力を、手に余るほどの力を持つが故、人はその醜き本性を露わにするのだと。

 それは、昼間の僧兵らに通じるものがあった。

 魔法や神の奇跡の類ではない。錬金術という科学的な方法で造り出されたものとはいえ、傷を瞬時に癒すほどの力を持たぬ、治癒にかかる期間を半分に抑える程度の効能であるとはいえ、魔物を倒し、自らも傷を負う事を生業とする戦士にとって、傷薬というものは垂涎の品であると言っても過言ではない。

 たった一本──たった一本の傷薬を所有しているが故に、あれだけ人間とは尊大になってしまうのだ。

 いや、あの僧兵だけに限った話ではない。

 リナリーも、セティも──人間であるのならば誰にでも該当すると言えよう。

 人とは、欲望を完全には封殺する事の出来ぬ生物なのだから。

 セティは心が引き締まる思いがした。

 ふざけたクライドによって、頭を軽く叩かれ、痛そうにしながらも半ば嬉しそうな顔を浮かべるリナリーの姿を見る。

 この少女を、自分は──神殿の者達は、どのようにして導いていけば良いのか?

 また、リナリーが今の自分のように、若い巡礼者を導くような歳になった時、その人をどのように導いていくのだろうか?

 彼女は言い知れぬ不安に襲われていた。

 

 

 <3>

 

 翌日。

 セティの姿は大聖堂の中にある一室にあった。

 大聖堂に顔の利くクライドを頼ったお陰で、早朝より混雑する聖堂の中で途方に暮れる事もなく、彼が懇意にしている『有力者』に取り次ぐ事が出来たセティは、この部屋──応接室に通されていた。

 大聖堂を悩ませる異常事態が収束次第、最優先に洗礼をしてもらう約を交わす事ができたリナリーは今頃、寝泊まりの為に宛がわれた部屋で、荷の整理をしている事だろう。

 クライドの友人であるが故の厚遇であるとの事であった。

 無論、無条件でという訳ではない。リナリーの洗礼が終わるまでの間、戦士としての心得があるセティが、その約を交わした『大聖堂の実力者』の下で暫くの間働くという交換条件で、である。

 これ以上にない程の便宜を図ってもらっているのである。セティは、その恩義に応えるつもりであった。

 そんな彼女がクライドとともに、この部屋へと通されたのは、その仕事の内容について確認をする為。

 セティは部屋の上座に座する翁の姿を、やや緊張めいた表情で眺めていた。

 今、相見えているのは、普段、彼女のような下級の僧ごときが決して顔を合わせる事など許されぬ人物。

 聖都議会の最大派閥と言われているユージン派の領袖・ユージン十八世であった。

 この聖都において、司教ウェズバルドの従弟にあたる太守に次ぐ地位にある人物といっても過言ではない。

「既に後継者の選定と継承を終え、あとは静かに引退の時を来るのを待つ身であるというのですが……いやはや、神というものは老体相手にすら容赦がない。敬虔な信者を出涸らしになるまで働かせようという魂胆なのかもしれませぬな」

 老僧は穏やかな笑みと冗談で二人を出迎えた。

「まさか、この聖都で魔物の出没が確認されるとは……我々も対策を打っているのですが」

「僧兵の出動だな? 随分と派手に暴れてくれているようだが?」

「いかにも」ユージンはクライドの問いに頷いて答えた。「彼らが非道を働いたとか……いやはや外からの客人に聖都の恥を晒してしまい、恥ずかしい限り。あの二人は厳重に注意しておくよう、僧兵長に言いつけておいたので、若き神官殿も、これ以上は彼らを責めないで頂きたい」

「……わかりました」

 セティが不精不精、承諾すると、ユージンはいまだ表情の硬いセティに「感謝致します」と、礼の言葉を述べた。

「聖都及びその周辺は、今まで魔物の出没が今まで確認されなかったのです。その反動からか聖都は、この事態にかなり神経を尖らせております。何卒、ご容赦を」

「──ええ」

 相槌を打ちながらセティは思った。

 本当に、そうだろうか?──と。

 この聖都議会を長きに亘り支配をしてきた派閥、その領袖たる人物が引退を間近に控えている。そんな時期に起こった騒動。それも常日頃より起こっているような騒動──例えば、異なる派閥間で飛び交う他愛もない罵詈雑言や誹謗中傷など──民衆や下級の僧にとって関心に値せぬような内容ならばいざ知らず、『魔物の出没』という非常事態なのである。最悪の場合人命に関りかねぬが故、人々の関心は、前者のそれと比べるまでもない。

 そうなれば誰もが競って、この事件の解決に乗り出すのは自然。

 間近に控えたユージンの引退の日を境に大きく変動・混乱するであろう議会の中核に自らを捻じ込む為、事件解決によって高まった名声を存分に利用する事が出来るからだ。

 そう考えれば、昨日の僧兵が協力者たる少年に対してとった態度にも説明がつく。

 出世という飴がなければ、魔物討伐に協力をする戦士の為に、高額な薬を準備するような事などしない。そして、任務に失敗した協力者に対し、あのような暴挙に出る事もしない。

 無論、魔物の脅威が去るに越したことはない──だが、動機があまりにも不純。

 事件の解決に乗り出すべき大聖堂と議会の者達の視線が、本来、救いの手を差し伸べるべき者達の方へ向いていないという事実。

 セティの抱く違和感の真因は、この点にあった。

 神官は胸中に渦巻く不審を悟られぬよう表情を繕うと、卓上に資料と思しき書物を並べるクライドの姿を視界に捕えるや──

「この方は、どのような分野でご活躍されている学者なのでしょうか?」と、話題を変えた。

「魔物出没事件の原因究明の為に、大聖堂に呼ばれたとの事ですから、相応の学を修めていると見受けられますが……」

「何やら、魔物の生態を研究されているとか……」

「魔物の生態……ですか?」

 その言葉に非人道的な印象を感じたのだろうか。怪訝そうな表情を見せるセティに、ユージンは慌てて補足する。

「彼が研究をしているのは、生物学的、軍事的、政治的と様々な面における魔物対策の分野です。その為には敵となる種族の生態を研究し、実態が明らかとする必要がありますからな。実際、クライド殿のお陰で正確な位置を解明し、壊滅させることの出来た魔物の巣穴は数知れず。その実績ゆえに、聖都も彼と懇意にさせて頂いている次第」

「なるほど。そういう事ですか……」

 安堵の息を洩らしたセティは、それならば納得と、小さく頷いた。

 セティとユージン、両者の間に流れる空気が少し弛緩したその時、準備を終えたクライドから、説明の為の資料が差しだされた。

 

「俺が聖都に滞在し、調査した五日間で判明した事。それは──」

 そう前置きし、クライドは説明を開始した。

「結論から言うと、今回の魔物の出没は、千年前の大戦の頃に見られた──所謂、自然発生的なものではない」

「では、人為的に引き起こされたもの──という事ですかな?」

 老僧がそう言い、一つ咳払いをする。

 その確認の問いかけに、クライドは力強く頷いた。

「三年前、聖都周辺に住む動物の生態について調査を行った時と比べ、主だった動物が著しく激減しているのがわかった。それも空から襲う猛禽類以外に天敵を持たぬ獣──獰猛な肉食の大型豺だ。気候の変動や、餌となる小動物の増減の影響もなく、あれだけ大量に減少しているのは別の要因があると考えるのが自然。即ち──」

「豺にとって、別の脅威が発生したという事ですな?」ユージンが得心して頷いた。「それも突発的な何かが」

「その通りだ。そうなると考えられる原因は疫病の発生か、魔物の発生くらいのもの。しかし、聖都住民に疫病と思しき症状を持つ人間が一人も出ていないという事を考えると、前者の線はない」

「そうなると後者──魔物の発生ですか?」セティが問う。

 彼女は目の前に差しだされた資料に並ぶ見た事のない専門用語の羅列に悪戦苦闘しながらも、クライドとユージンの会話から、概要を漠然とではあるが掴みはじめていた。

 そして、資料に記された一つの図を指差す。聖都周辺に発見された、動物の死骸の分布図である。

「大型豺の死骸が多く発見されたこの地点──南の山中に、その驚異の源泉。即ち、魔物の巣穴と思しきものがあるということになりますね」

「そうだ。そして、この分布の不自然さが、今回の魔物発生が人為的に引き起こされたと結論付けた根拠」

「不自然さ?」セティは思わず、首を傾げた。「確かに多くの魔物は移動と定住を繰り返す性質を持ちますが、一度は巣穴を決めてしまえば、暫くは移動をしません。巣穴と思しき地点を中心に、餌となる動物の死骸が同心円状に分布しているという事は、何も不自然ではないと思うのですが……」

「確かに、セティの言う事は正しい」クライドは静かに身を乗り出し、セティが眺めていた資料に描かれた図を指で指し示した。

「しかし、変だと思わないか? 動物のものとはいえ、骨が土中で風化するには相当な時間がかかるはず。にも関わらず、大型豺の骨が南の一帯に『のみ』発見されている──即ち、この魔物が他から『移動をしてきた』という痕跡が、全くないという事になる」

「──!」神官と老僧は、はっと息を飲んだ。

 それが理解ゆえの反応であると察し、学者は静かに頷く。

 そして、続けた。

「この聖都の存在する山岳地帯は、西に霊術士と呼ばれている者達が管理し守護している『霊峰』と呼ばれる聖地をはじめとした高山地帯だ。気候が厳しく、人はおろか魔物すら住める環境ではない。そして、南には、歩いて一日ほどの岩盤地帯を進めば。足も竦むほどの崖と、眼下に望む外海だ。この地理から考えると魔物は未開拓地帯である北か、或いは人里が点在する東から流入したと考えるのが自然。だが、聖都の北及び、東には、これらの流入経路を証明するもの──餌の残骸が何一つ残されていなかった」

 これではまるで──突如この地帯に魔物が降って湧いたみたいだと、最後に言葉をつけ足した。

「ふむ……」セティと同じく図を眺めていたユージンが唸った。「確かに奇妙ですな」

「この巣穴がお伽噺みたいに、魔法の力とやらで異界より突如召喚されたものであった……というのならば話なら別。しかし、現実にはそんな都合のいい手段なんか存在しない。ならば誰かが人為的に、この地帯に連れ込んだと考えるのが道理だ」

「なるほど……」セティも得心して頷いた。「しかし、何のために?」

「さぁ?」クライドはセティの問いかけに、素気なく答えた。「それをこれからお前が現地に赴いて調べる事になっているんだからな」

「犯人探し……ですか」

「まぁ、そう言う事だな。まずはその最初の調査として、南の岩盤地帯に点在しているゴブリンの巣穴と思しき場所の幾つかを掃討してもらおうと考えている。もしかしたら周辺に、人為的に運び込まれた痕跡があるかも知れないと踏んでいるのでね」

「痕跡?」セティは怪訝そうな表情を浮かべた。「……具体的には?」

「ゴブリンを繁殖させ、巣穴を形成するために必要なのは雄と雌の二匹。この二匹を人為的に運び込む為に必要なものと言えば、檻や籠の類だ」

「人間の手によって運び込まれたのならば、辺りにその残骸が残されている可能性が高いでしょう」老僧が語を継ぎ、補足する。「人間の手によって捕えられたのならば、魔物とて相当に苛立っている事でしょう。解放されれば暴れ出し、運び手の者に襲いかかるのは必定。ならば、悠長に空いた檻や籠を持ちかえるような事など、出来るはずもありませんからな」

「……なるほど。お話はわかりました。ですが、ゴブリンの巣穴に向かい、これを掃討するのならば、私だけでは荷が重いですね」

「それは、ご心配なく」老僧はそう言い、憂慮するセティに笑顔で答えた。「これよりセティ殿には、私の配下である僧兵団とともに、この任にあたって頂きます。別室に待機させておりますので、彼らの力を借りるといいでしょう」

 そしてユージンは冗談めいた様子で、最後にこう言い添えた。

「勿論、その者達は、昨日貴女にご迷惑をおかけしたような未熟な者ではなく、私の推薦によって選別した者達です。能力と人格は私が保障致しましょう。隣の部屋にある僧兵の控室、そこの東の壁際にある卓を囲んでいる一団があると思います。彼らが今回、セティ殿と行動を共にするよう手配した者達です。実際の任務にあたる前に、一度顔を合わせた方が良いでしょう」

「……恐れ入ります」

 深々と頭を下げるセティの胸中に暗雲が広がる。

 成り行きはどうあれ、一時とは言えど、ユージンに協力するという形で、魔物討伐の任に──いや、聖都の今後を占うであろう政争の場に放り投げられたからだ。

 クライドの助力によりリナリーの洗礼を早急に執り行ってもらうよう約束を取り付けたものの、あくまでこの優先権はセティとクライドの働きが前提となっているが故。聖都周辺に出没した魔物の討伐が段落するまでは、その約束が実行に移る事はない。

 セティに拒否の権利などなかった。

「では、すぐに挨拶をして参ります」

 去り際にそう言い、隣の部屋に向かう彼女の足取りは鈍く、そして重い。

 

 そこは僧兵らの詰所であった。室内には幾つもの卓が備えられており、各々のそれを囲んで幾つもの集団が待機をしていた。

 室内は緊張の極。部屋に踏み入れ、この冷たく張り詰めた空気を肌で感じたセティは、ある事実を察した。

 此処こそが、派閥闘争の縮図であることを。

 そう、この部屋に滞在する各集団──彼らの殆どは、何処かの派閥の所属している者達。即ち、この魔物討伐の成果如何によっては、出世の道が開かれるであろう者達である。

 そんな中、セティの登場に、室内の騒めきは更に増した。聖都の外からの客──この出世競争に一切無関係の余所者。戦士として相応の実力を有している事を噂にのみ聞いていたのか、この敵に利する彼女に鋭き視線の穂先を向けるのは幾人か。ましてや歓迎する者など、東の壁際に待機し、満面の笑顔で出迎える一団を除いては皆無であった。

「こんな刺々しい場所に呼び出して済まぬな」

 セティを出迎えた一団の長と思しき男が言った。

「──宜しくお願い致します」と、セティは不自然な笑顔を浮かべた。「事情が事情ですから仕方がありません。私としては一日も早く聖都の脅威を取り除き、大聖堂が正常化する事を願ってやまぬが故、外様の神官の身でありながら、この任に志願した次第にありますから」

「巡礼の修道女の引率をしていると聞いた」男は微笑した。「四日の断食は相当に堪えるはず。そして聖都は山地ゆえに寒冷だ。こんな慣れぬ苛酷な地に長く滞在するのは確かに得策とは言えぬ。そう思えば成程──若輩の者に対する殊勝な配慮。感服に値するな」

「……いえ」

 セティは少しだけ態度を軟化させる。

 それは賛嘆の言葉よるものではない。こんな野望渦巻く欲望の坩堝の中であっても、自分の純然とした思いが正確に伝わっていた事に安堵をしたからである。

 その時だった。室内の沈黙が瞬時にしてざわめきへと変じた。

 戸口に立つ女がおり、それが原因であった。この急なる騒然に不審を覚えたセティは戸口を振り返り、そして見た。

 若い尼僧だった。だが、それはなんという美麗さか。艶のある黒髪を純白の羽飾りで飾っており、その様は聖女たる風貌。

 微かに浮かべる微笑には、愛嬌があり、少女の面影すら残した清純なる美しさを漂わせている。

 衆人が女を環視する中、美貌の女は戸口近くの卓へと歩み寄り、持っていた革袋の止め紐を解くと、その中身を勢いよくまき散らした。

 無造作に積まれたのは全てが輝く金貨や宝石の類。その額たるや常人の蓄財のそれを遥かに超えていた。

「私のもとで働く人を求めています」容姿に劣らぬ美しい声で女は言った。「報酬はご覧の通りです。また、以後の人事再編の際、相応の役職につける事を約束致しましょう。我はと思う方は申し出て下さい」

 美貌の女は宝物を積んだ卓の席に腰を下ろし、そして最後にこう付け加えた。

「条件はただ一つ──この報酬に見合う腕利きの者に限る。ただ、それだけです」

 

 しかしこの時、セティは知らなかった。

 これが、彼女の人生を大きく左右する『因縁』の出会いであるという事を──


 
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