No.162065

天使論

天使とサンタは同じものだったという衝撃の結論から僕の物語、というか姉日記は始まる。最後まで姉日記である。嘘なんかつかないさ、きっとこれはハッピーエンドだ。そうなるまで続く。

2010-07-31 03:10:21 投稿 / 全8ページ    総閲覧数:987   閲覧ユーザー数:977

第1部    (あるいは勘違い)

 空を見上げる僕がいる

 僕を見下ろす空がある

 そこを飛んだ数々の鳥たちを振り返ってみれば

 ああ、人生のなんと不確かなことだろう!

 昨日までの常識など、きっと

 何の意味も持たないのだ

第2部 天使議論

 学食でマズいメシを食いながら、サンタについての議論をした。すなわち、サンタの存在可能性について。いるかいないか。二人とも理学部学生で、そして知識だけは無駄にあったから、それはそれは科学的な(つまり非現実的な)単語が飛び交い、数十分後、多重人格などフィクションの極み(往々にしてフィクションは現実を浸食する)と断定した上で、サンタはヒグス場と一緒に生まれた、という結論に至った。その過程を思い出すのは酷なので結論にだけ言及する。ヒグス場というのは超ひも理論で使われる単語で、素粒子の基本的形質である対称性を崩す場のことである。本当にあるかは誰も知らないけれど、超ひも理論を説明するために必要な単語であることは誰もが知っている。

 つまり、超ひも理論を必要とするだれかが必要に迫られて作ったものだ。

 これを前提として、僕は思うのだ。

 天使ってヤツはつまり、サンタなんじゃないのかって。広義で語れば天使とサンタは大して違わないし――神の希望を叶えるか、人間の願いを叶えるかの違いだけ――存在の怪しさについても同程度だ。ははあ、つまりサンタは天使に対する、人間に試練ではなく恵みを与える存在なわけだ。簡単にいえばヒグス場だ。騒ぎたい連中が「なんでクリスマスに騒ぐの?」って問いに答えるために、景気のいいものを作って騒いでもいいようにしたんだ。でなけりゃ、そういうノリの悪い質問をするヤツを納得させるためにどこからから引っ張ってきたのだ。なきゃ困るから作ったのだ。天使とサンタとヒグス場がつながった今日は歴史的な日だと言える。

 ちなみに、僕は議論の途中で天使という単語を出すことはなかった。だってアレっぽいじゃない。天使、なんとアレな響き。仏、神と比べてなんとアレな。ここで僕が「アレな」と極めて婉曲的な表現を用いているのは、日常会話において本当に自然に天使という単語を使っている人たちに対しての最大限の配慮だとおもっていただきたい。とにかく、一つの議論の結論を、後に生まれた表現で表すと、

「実は天使はヒグス場と一緒に生まれた」

 なるほど。実に科学的である。むしろ哲学的だろうか? そんなことは基本的にどうでもよくて、大事なのはインパクトである。

 ただ、なきゃ困るから作った、っていうのはちょっと心外だったかもれない。そんなことを授業で隣に座ったヤツにぼやいてみたら、そそくさと立ち去られてしまった。悪い噂が広まらなきゃいいけれど。

第3部 天使についての考察(あるいは姉日記)

 日常とは退屈なものである。

「世の中の関節が見事に繋がっている」と格好つけてみる。なにが言いたいのかというと、やっぱり退屈だ、ということだ。気分が高揚するなにかが、二十四時間を構成する様々な要素から抜け落ちているようだ。大学にいき、宇宙の終末とネズミの糞に関する科学的な(つまり非現実的な)理論を展開する禿げた教授の話をきいて、ゼミ仲間とマズいメシを食いながら宇宙の週末について議論を展開させて(1999年8月18日は、太陽系にとって金曜の夜だよな)午後はやっぱり変な教授の変な講義をきいて、図書館で何冊かの本(「論・脳内複数現実」「信用というより信頼」「存在しない姉」)を借りて、ちょこっとサークル室に寄って話して帰る。今日の主な出来事はこれくらいだけれど、基本的に他の日も同じだ。土日は決まって土建のバイトが入っている。

 その退屈っぷりと天使にどんな関係があるのかといえば、実は無い。無いからこそ、そして退屈だからこそ浮かんでくる類のものには違いない。特に最近は天使についての情報は氾濫しているものだから(コンスタンティンやらドグマやらで。マイナーかい?)姉貴にそういったら、

「それって、あんた自身が『日常会話において本当に自然に天使という単語を使っている人たち』の実例だってことよね」

 ちなみに、姉貴は五年くらい前からOLで、セクハラとお局に堪え忍びつつ、同僚の男を狙っている。

「使ってないよ。考えてるだけだから」

「いいわけもなんだか辛い気がするけど」

 あんまり口答えをして彼女の機嫌を損ねるわけにもいかないのだ。暇人の姉貴は(そして僕は)ぐだりだべりの聞き手としては申し分ないから、相手にされなくなると困るのである。この辺、僕らは非常に似ている。大学の友人たちと違って、いつの間にか妙な噂が広まっている、といった心配もない。

「それで、それ、発表するの」

「なにを、どこで?」

「天使がどうのって、ゼミとかで」

 そんなバカな。ヒかれるのは目に見えている。だって天使だぜ? 理学部で天使。サンタですらアウト気味なのに、超ひも理論と組み合わせて天使だなんて、僕は頭がおかしいですよって主張するようなものじゃないか。代わりといっちゃなんだけど、僕は姉貴に対して発表してるんだ。ヒかないのは姉貴ぐらいのものなのだから。

「で、退屈と天使がどうのってなんの関係があるの」

「無いって言ったじゃん。無いからこそ意味があるんだよ」

 姉貴は難しい顔をして黙り込む。東京、品川区の2LDKアパート。家賃12万。窓からの眺めは大したもので、大きな用水路とそれにそってデンと構える草野球グラウンド。それをこえると小汚い雑木林が慎ましく広がっており、住宅街の遙か向こうには新世代夢の島があるという目の飛び出るほどステキな立地だ。景色に値段を付けるなら525円(税込み)ってところか。儲かる気はしないけれど。

 話が一段落した(姉貴は一度考え込むと2時間はそのままだ)ので、僕は時計に目をやった。1秒ごとに動く細長い秒針。その60分の1の速さで動く長身、さらに60分の1 の速さで動く短針。見ただけじゃ、短針が動いてるかなんて気づかない。僕が見てない間に、天使が動かしているのだとしても、そんなことは知るすべはない。

 そろそろ一日も終わる頃だった。姉貴にしてみればそろそろ寝なければいけない時間だろうか。朝、早いしな。でも姉貴は考え事を邪魔されるのを酷く嫌うので、僕はただ黙って、自分の部屋に帰って借りてきた本を開いた。

 次の朝、姉貴は寝坊した。

 第4部 論・脳内複数現実

 ――である。ある特殊な状況に置かれた胎児がいる。それはもちろん、不仲などに端を発する母親のストレスといった一般的な状況ではない。現在判明している五つの例を見てみると、うち一つは母親が男性だったというものだ。世界初の男性受胎を行ったニューハンプシャーの男性に、人工的に作られた子宮。その中で育った胎児は、生まれながらにいくつもの精巧な現実を作り上げていた。五感などに全く問題はなかったが、肉体的な貧弱さが際だち、生後半年で死亡した。この赤子は「現実とは異なる世界で暮らしていた」と主張されるが、その理由は――(中略)二つめの例は先ほどとは逆で、女性が父親だったというものである。日本、東京に住んでいた女性は、母親に対して異常なほどの愛情を注ぎ、いつしか二人の子供を作りたいと願った。世間的に到底受け入れられるものではないが(特に日本では)二人は渡米し、先進的な医学者であるマードック医師とアメリカ医学会、政府の同意のもと、やはり世界初となる『同性、親子での人工授精』を行った。女の遺伝子を、人工的に作り上げた無精の精子に植え込み、当人たっての希望によって、宗教的な儀式を行った上で母親に受精。見事に女児を出産する。全くの健康体でこの世に誕生した子供の経過は追って学会に報告(中略)

 さて、無事育っている二件の例についてであるが、一例目でも述べたとおり、彼らの中には生まれながらにいくつもの現実がある。それらは、現実にあるものやないもの、とにかく『現実』に必要な全てで構成される。興味深いのは、彼らが『知り得ないはずの』物事さえも、なぜか『現実』に組み込まれているということだ。例えば、四例目の少女は現在14歳だが、これまでの人生を病院内で、しかも寝たきりで過ごしているにもかかわらず、毛沢東を学校の、歴史の授業で習ったという『現実』を体験しているのだ。そしてまた彼女の『現実』の中では、毛沢東は日本人でもある。彼女がなぜ学校という制度、毛沢東という歴史上の人物、日本という極東の国を知っているかについては定かではない。また彼女の『現実』の歴史は現在といくつかの点で異なっている。世界地図はおおむね似たようなものだが、オーストラリアが存在せず、大陸があるその場所にはカルデアールという群島国家がある。アメリカは存在するが、建国者の名前はマシュー・マードックという。前述のマードック医師のことであるが、彼女が縁もゆかりもないマードック医師を『現実』に内包している理由はわからない。また新たな情報として、他の『脳内複数現実』患者とそれらの『現実』が互いにリンクしている可能性があることがわかってきている――

第5部 マーフィーと湯飲みの無関係性

 僕をひっぱたきつつ慌てて飛び出していった姉貴を見送って、なんとなく食パンを焼かないまま食べてみた。マーフィー曰く、失敗するとき、それを事前に察知している人間が必ずいる。つまり僕だ。僕は昨日の夜、おそらく姉貴が寝坊するだろうと思っていた。僕が姉貴を寝かせていれば、姉貴が哀れな野良犬を誤って蹴り飛ばすことも、硬貨を切符売り場にぶちまけることも、上司に無用のストレスを与えることもなかったろう。たぶん、こうなるという僕の予感であるけれども。

 僕は姉貴の失敗を察知していた。それでは姉貴を失敗させないようにできなかった僕の失敗は誰が察知しているのだろう? 法則とは単なるあるあるではなく、世界を律する絶対のルールである。僕の失敗は誰かに察知されていなければならない。ということは、ここで天使の登場である。二人しか人間がいなかったのだから、あとは天使しかいないじゃないか。サンタでだってもちろん構わないのだろうけど、つまりそれは、今年のクリスマスに僕へのプレゼントが無くなることを意味する。なぜって、サンタはよい子にのみプレゼントを与えるわけだからして。さらに考えると、僕の失敗を止められなかったサンタ、あるいは天使の失敗は誰が察知していたのだろう。別の天使? それともクリスチャンだったりするのだろうか(天使様、ボーッとしていると人間の過ちを見逃してしまいますよ!)。もしかしたらアレな人々だろうか。そうだとすると、人類はもとより、天使やらサンタやらが全て、関係を持っていることになる。互いに失敗を止められなかったという、なんとも嫌な関係で。

 気がつくと、手の中のパンはいつの間にか消え失せていて、舌をどう転がしても味は残っていなかった。もしかして落としたのかもとテーブルの下をのぞき込んでも何もなかったし、なにより中途半端な不満足感が、確かに胃の中に一切れ分のパンがあることを告げていた。湯のみなかで冷めている緑茶は全然まったくこれっぽっちもパンには合わないが、今日は別だ。僕は緑茶を飲み干した。なにしろパンの味を覚えていない。マズい気分を味わわずに得した気分でもあり、損した気分でもある。

 この湯飲みは以前、姉貴が社内慰安旅行に行ったときに、おみやげとして買ってきた1600円のシロモノだった。姉貴からものをもらうのは数えるほどだったので、その必要性はともかく(なにしろ食器は、積み重ねた重みで一番下のが割れるくらいある)嬉しかった記憶がある。見れば見るほど渋い色で、灰色と緑色を混ぜて泥水に突っ込んだような苦そうな色だ。材質はよくわからないけれど、少なくとも用水路ぞいの草野球グラウンドの土よりかはマシなものが使われているようだった。

第6部 ゲーム理論

 日常は退屈なものである。今日は――繰り返しになるので大部分を割愛する。どうせ妙なことを羅列するだけだ。ただ今日はストが起きていて、そのせいで食堂が閉まっていた。学生の不満は至る所で吐き出され、購買の食品が軒並み売り切れた。午後の授業で、終末ネズミ教授と対立している助教授が「彼ならネズミの糞でも食ってしのぐのだろうね」と笑っていいのかよくわからない微妙なギャグを飛ばした。

 姉貴に話したのはそれくらいだ。まず姉貴の愚痴を三十分ほどきいて(姉貴の愚痴は話題がよく飛ぶので僕でも流しぎきだ。今日は人の生命とセックスレスの重要性、レイプについてラップのようにまくしたて、飛んでゲーテをたこ上司と同列に並べてこきおろし、クドリャフカの最後を、さも自分が体験したかのように雄弁に語った)いたので、手短に、完結に。彼女は風呂上がりで、ついでに僕も風呂上がりで、そこにさしたる意味はない。僕が描写する、現実に起きたことで本当に意味のあることなんてほとんど無い。

「パンとお茶が合わないだなんて」

 よりによってそこに突っ込むのかよ、と言いたかった。それから長いこと姉貴に、緑茶とジャムパンの適合具合について講釈をうけ、絶対に試すことはないと誓った上で、僕は頷いた。

「よくわかったよ」

 ちなみに、姉貴はこの講釈のおかげでまた寝坊した。

 

 ゲーム理論を僕なりに解釈するならば『この世がゲームであれば最後はかならずハッピーエンドだ』ということになる。最近ではバッドエンドとかいう反則手も増えてきているらしいけれど、これは昔から物語の常である。ゲームでなくたっていい。マリオはピーチ姫を救い出し、探偵は殺人犯を指摘して、スティーブン・セガールは世界の裏を牛耳る悪の組織を壊滅せしめるのである。なんとすばらしい。ただそれが悪党共にとってのハッピーエンドかどうかは議論の分かれるところだ。僕がこの世の終末に果たして善玉か悪玉か、それはちょっと想像がつかない。

「だからさ、ゲーム理論って自然に自己矛盾を抱えてると思うんだよね」

「つうかそれゲーム理論じゃねぇし」

 僕の仮説はもっともな一言で一蹴され、話題はゲーム理論を墓に埋め、世界の終末、最後に糞をするであろう生物に移っていった(それがネズミじゃないことだけは確かだ)。飯を食ってるのは僕だけで、そして糞の話はカレーをどこまでもマズくしたけれど(つまり、狙ってやってんだ、ヤツら)僕はこういう空気は嫌いじゃないんだ。仲間内で、自分でも理解しているのか怪しいような理論と単語を駆使して科学的に(つまり非現実的に)天使、あるいはサンタの存在について語れるのはこういう連中とだけだ。まあ、あまり突っ込みすぎると(天使天使天使、あと天使)妙な噂が流れることになるので、加減は気をつけなければいけない。人付き合いなんてそんなもんだ。僕はそのシステムの全てを肯定する。

第7部 僕の終演、彼女の終焉

「ここ以外のどこへでも」

 夜の講釈で、姉貴は言ってみせた。僕は1600円の湯飲みをおいて、一応答えてみる。

「引っ越したいの?」

 姉貴は僕に『地上よりどこかで』という映画と『痴漢電車の魔手』『実録・構内レイプ!』という二本のAVを進めて部屋に戻った。声色には別段問題はないように振る舞っていたつもりだったのだろうけど、僕はちょっとした動揺を見て取った。でも、なぜこの日このときに「ここ以外のどこへでも」なんて言う必要があったのかは、事件が起こった今でもわからない。思い返せば、そもそも姉貴の頭の中なんて、そして腹の内なんて、僕にはひとつもわかっていなかったのだ。姉貴の言葉の一つ一つにしたって、理解の範疇を超えていた。なにもかもが理解不能で、支離滅裂で、むちゃくちゃで、とどのつまりちんぷんかんぷんだ。

 そうでも思わないと、彼女の死んだ原因が『僕が彼女の失敗を止められなかった』ということになる。

 僕は確信に至ることができなかった。

 

 姉貴は会社の屋上から飛び降りて死んだ。2メートル程度ある柵をわざわざ乗り越えて、十三階の高さから9.8m/sの加速度で落下し、途中で一人の同僚と一人の他社社員に見られて、表の大通りに激突した。そのことを電話で聞いたとき、学校に行く準備をしていた僕は、思わず湯飲みを落としてしまった。中の緑茶がぶちまけられてものすごく熱かったけれど、この際どうでもよかった。結局、今では唯一といってもいい姉貴からのプレゼントは、はかなくも砕け散ってその短い生涯を終えた。マーフィー曰く、失敗すると、それを事前に察知している人間がかならずいる。この場合、それは僕だったか。誰か、姉貴の失敗を察知している人間はいたのだろうか。人間でなけりゃ姉貴の後を追うように死んだ湯飲みだろうか。それとも、もしかすると姉貴にとって、自殺は失敗ではなかったのだろうか。天使の役目は?

 姉貴のお腹の中に、子供がいたらしい。部屋にあった遺書らしきもの(『追書』。彼女渾身のギャグだ)を読んで、僕は自殺の原因を知った。どこの誰かもわからぬ中年男の、その、アレだ、強引にナニすること。その一回が見事なクリーンヒットをかまして、本人にはなんの罪もない、しかし誰にも望まれない生命が誕生したこと、それが原因。

 姉貴にはその生命を消すことができなかった。いや、その生命だけを消すことができなかったといった方がいい。責任を取って、自分の命も消すことにしたのだ。

 姉貴にとって、自殺は失敗ではなかったのだろうか。この世は所詮ゲームなんだから、最後は必ずハッピーエンドなんじゃないのだろうか。姉貴にとってこの終わり方は、はたしてハッピーエンドだったのだろうか。

 目の前に血溜まりを作られて評判が落ちた、断固慰謝料を請求する、と意気込んでいた役員達は、姉貴の遺書を読んだ女性社員からの猛烈な反発にあって黙り込んだ。鑑定を、とごねていた少数の抵抗勢力も、その結果をみて引き下がらざるをえなかった。弱者はいつだって強いのだ。

 姉貴の葬式は実家でやった。実家といっても蒲田だから、同僚なんかが訪れたりして、内輪だけの、というようなものではなかった。死に方が死に方だけに、それぞれ心持ちは複雑だったのだろうけれど。坊さんがお経をよんでいる最中、僕はずっと天使について考えていた。天使はヒグス場と一緒に生まれたんだ。なきゃ困るから作られたのだ。なんで困るんだ。それは、こんな時、何か人知を超えたような存在が必要だったからだ。人が死んでゼロになることを、どうしてもみとめたくなかった遺族とかが、天使を作って、神を作って、死んだ人はきっと天国で幸せに暮らしているよ、だから心配ないよ、そう解釈することにしたに違いないんだ。

 さらにこじつければ天使は湯飲みみたいなもんだ。誰かが死んだという悲しみ、つまり熱々の緑茶を一時受け入れる湯飲みが天使であり、神であり、天国だ。人は湯飲みでいったん間をおいて、自分にとってちょうどいい熱さ、悲しみの程度、になったときに受け入れるのである。

 姉貴には天使が必要だったのだろうか。それとも僕が察知してやらねばならなかったのだろうか。今僕のすべきことは何だ? どこの馬の骨かもわからぬ中年男を捜し出して、アレを切り落としてやるべきだろうか。そんなことだけで姉貴は満足するのだろうか。いっそのこと姉貴と同じように、ビルの屋上から突き落としてやろうか。その男の終末、いったい最後に糞をするのは何なのだろうか。後悔か、罪悪感か、はたまた憤怒か。糞だけに。

 この世はどこまでもハッピーエンドに違いない。物語では、主人公はまずどん底のずんどこに落とされる。ちょうど今の僕だ。だから、僕は姉貴のかたきを取って、悪の組織を壊滅させて、『この世の関節が脱臼してしまった』それを元通りにしなければならないのだ。

 とりあえず、サンタはいつの間にか天使に吸収されてしまった。

第8部 目覚めた私

 私がまぶたを開けると、家族が安堵のため息を漏らしたのがわかる。いつだってそうだ。前回も、前々回も、私が物心ついたことから繰り返される、現実。

「目覚めましたか」

 結局の所、私は悪の組織を壊滅させはしなかった。ハッピーエンドは訪れず、そもそもエンディングすらなかった。私は、今度は『東京』の世界を『現実』としていたのだ。姉と暮らしていた『僕』は現実では寝返りすらうたないので、家族が定期的に姿勢を変えねばならなかった。今度は何日経っているのか尋ねると、一週間程度、と答えが返る。私が見ていた『現実』は、見ている間は確かに現実だが、他人の認識するそれとは全く異なる、私一人のものだ。姉の死はなかったことになり、そもそも私に姉はいない。弟もいない。定期的にリセットされる私の現実は、湯飲みと同じようにはかなく消えてゆく。

 

 しかし私、いや『僕』は目覚めるたびに思うのだ。

 

 この世がゲームならば、電源を切るボタンだってあるはずだ。今回、『僕の姉貴』の死はまさにそれだった。姉貴がいなくなったことで、僕の脳の中にある複数の現実のうち一つは、まったく用なしになってしまったのだ。だから僕はその世界を『夢にしてしまった』。むしろもしかするとこちらこそ、『僕』の見ている夢ではないか、とも考えられる。僕はなきゃ困る天使を作り上げることにかんして、誰よりもうまいんだ。なにせ、病気と言われるほどだから。新しい湯飲みを作ることだって、そりゃうまいさ。できあがった湯飲みが1600円を超えることはないけれど、それでだって525円の景色よりはずっとマシだ。姉貴が死んだって現実を突きつけられるより遙かにマシだ。だから僕は新しい現実を作って(または今までに作り上げた現実を流用して)姉貴の死をなかったことにしてるんじゃないか、と。

 なにを言ってるのかわからないって?

 僕もだ。

 つまり、ちんぷんかんぷんだってことだ。

 天使も、湯飲みも、全部僕が作れるんだ。他になにかいるのか?

 ああ、ハッピーエンドさえあれば僕は満足なんだ。今回は、たまたま姉貴が物語の中心人物になっただけだ。ハッピーエンドにはならなかったみたいだから、それもこれも現実じゃないに違いない。

 

                                  <了>


 
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