No.1106684

アヤカシ太夫♂とイロオトコ 巻ノ壱 襖幽霊(フスマユウレイ)

太夫♂と色男、幽霊騒ぎを肴に酒を飲もうと思ったら巻き込まれて結局解決しちゃったでござるの巻。

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2022-11-12 15:15:27 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:327   閲覧ユーザー数:326

 

 

行燈ノ炎搖レ動ク 夜モ夜中ノ丑三ツ時

其レデモ此處ハ晝間ノ如ク 幽者ヲ騷ガス暇モ無ク

今夜今宵モ色男 手土産片手ニ道ヲ行ク

 

 

 

 

暗く、深い夜だ。

夜が稼ぎ時である吉原遊廓すら、丑三つ時を迎えれば其の活気は下火となる。

其の日は何時に無く人の通りは無く、通りの灯籠に灯っていた火が生暖かい風にてふっと光を消した。

 

そんな中、一人の男が帰路を急いでいた。

初めて吉原を覗いた男だ。島原の馴染みに飽き、わざわざ此方まで出向いてみたものの、どうやら今宵は好みを見付けるに至らなかった様子。詰まらなさそうな顔にて、しかし足取りは速い。

 

何も無いなればさっさと帰ってしまおう…そう思いながらもふと辺りを見回した時だ。

 

びょお、と吹き荒ぶ風に、生臭い何かを感じ。

男の身を竦ませた其れは背後へと抜けていく。

 

遠く正面。

道に並ぶたそや行灯の向こうに、チカリと光る金の相貌。

獣の如き其れは男をギラリ見遣り、明らかに、細まる。

何だ、獣か…?そう訝しんだ途端。

"ビュゥ!”

男目掛け駈け来る其れ。其の顔へ風の如く走り来た黒き塊は、男の顔面へと走り来る。

男は叫んだ。喉の奥から絞り出された声が、ヒィィと情け無い声となった。

瞬間に見た其の顔、まるで獣か、否。鬼の如く。

 

咄嗟に顔を庇った男であったが、しかしあの塊は男の傍をすり抜け、遠くへ走り去って行った。

…嗚呼、助かった。ほぅと胸を撫で下ろした男…が、高鳴る心の臓が収まりつつある暫し、傍を流れる堀に何かがゆぅるり流れている事に気付く。

何だ?

じっ…と目を凝らして其れを見遣り、男は再び悲鳴を上げた。

其れは、つい先程まで茶屋の格子の向こうにてすまし顔で居た、花魁。

其れが、まるで丸太か何かの様に、水の上にてゆぅらり、ゆらり。

虚ろに目を開けたまま、浮いているのである。

 

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

其れまで毎日が退屈そうであった二階窓際の月下美人に、ほんのり瑞々しさが宿った…と、そう気付いた者は少なくない。其の、誰かを待ちわびるかの如き潤った瞳が美しく、今宵も黒町屋は客が途絶える事は無く。其れはこの見世の遊女達をも美しく見せ、太夫に手が届かぬ身分の者達までも引き込んだ。

ぬらりぬらり、今宵も空気は艶めかしく、空は朧月浮かぶ濃紫。

輝く提灯や灯籠の光揺れる錦の景色が、しかし実は何かの障気である事に気付いた者は…二階の招きキツネ以外、居ない。

 

そんなし乃雪、少しそわそわしつつも幾度目かの遠目。道向こうに漸く待ち人を見付け、沈み始めていた憂いの顔にぱっと華が咲いた。

 

「源三郎!待っておったぞ、」

 

言えば、半ば癖の様に顔を上げた彼もにこりと笑みを向け、声を上げる。

 

「よぉ、三日も待たせたか」

「嗚呼、長かったぞ。

早よう上がって来ておくれ、詰まらのうて今にも干からびてしまいそうじゃ」

 

少し掠れる呼び声に、顔(かんばせ)と違(たが)う男の色気。其れを見た源三郎より漏れる笑みは苦笑に似て、しかし嬉しそうでもある。

 

白狼に促され中へと入り、案内されたのは二階。あの大玄関の真上、し乃雪が常に居る私室だ。一階の金と朱に彩られた竜宮の如き空間とは打って変わり、階段を上り終えた其の床より先は質素ながら落ち着いている。少し良い宿屋の様な廊下をたった数歩、階段の目の前にある古びた襖が、其の部屋であった。

 

「邪魔するぜ、」

 

一言付け、襖を開ける。

行灯二つ、やけに明るい。柔らかい蜜色の光に照らされた部屋は三日前の茶室よりも更に質素だが、五角の形をした不思議な空間だ。其の四角の一辺を切り落とした様な部分が大きな窓で、し乃雪は其の縁に尻を下ろしていた。

 

「来たかえ、」

 

細長い煙管より紫の煙をくゆらせながらにこり笑い、そうとだけ声掛けるし乃雪。まるで素っ気無い態度に拍子抜けした源三郎、用意してあった座布団に腰掛けながら漏らす。

 

「お前さんは何時もそうかい?」

「ん、」

「こう、三つ指付いて「お待ち申しておりんした、」とかよ…」

「男であるこの俺にそうして欲しいのかえ?」

 

そりゃあよ…、と言い掛けた源三郎、しかし先は口ごもり言葉にならぬまま。

遊び人の風貌で口下手じゃの。そうクスリ笑み零したし乃雪、やはり其の笑顔は女にしか見得ず、源三郎は手にしていた土産の包みを忘れる程。が、目聡く其れを見遣ったし乃雪が「で、其れは何じゃ?」と声掛けた辺りで嗚呼と間の抜けた声を上げる。

 

「忘れる所であった。

外に出られぬお前さんに土産をとな」

「外に出られぬと?何時言うた、」

「ん?違うのか、」

「否、源三郎が土産を持って来てくれるのなればそう言う事にして置こう」

「お前さんな…」

「で、中身は何ぞ?」

 

輝かせる眼を包みに向けたまま、弾む声。少し呆れを見せながら、しかしこうして言葉を交わす事、し乃雪が自分を構ってくれる事に喜びを感じながら、包みを開ける。小さな重箱。其れの蓋を開ければ、現れたのはぎっしり詰められた天麩羅だ。

 

「お、天麩羅かえ?」

「先に近くの屋台で揚げて貰った、良い野菜が手に入った故にな」

 

ふきのとう、ぜんまい、菜の花。鮮やかな緑の天麩羅に、し乃雪はにこり嬉しそうに笑顔を向け。

 

「有り難う、食べたかったのじゃ。

直ぐ支度をしよう、塩か?だしかえ?」

「塩も持って来たぞ、」

「なれば台所へ下りずとも良いな」

 

そそくさと箪笥の一角より小皿と箸を取り出し、手慣れた手付きにて並べ始め。途中襖の向こうより徳利と猪口を乗せた盆を持って入り来たのはし乃雪の禿(かむろ/遊女の身の回りの世話をする少女)であろうか、源三郎の前にすと置いた。艶やかなお河童頭を良し良しと撫でる其の仕草にまで嬉しさが滲み出ており、源三郎の胸も又暖かくなって行く。

 

「…良いなぁ、」

「ん、」

「この美人を独り占めだ」

「抱けぬがな、」

「そうだよ、甚だ残念だ」

 

出て行く禿を見遣りながら笑顔でそう言った辺り、ふと何か思い出したらしい。ぱん、と膝を叩いた源三郎は、差し出された猪口を受け取りながら口を開いた。

 

「そうだ、し乃雪太夫。

お前さんは蘭方医の元にて修行しておったと聞いたが、どれ程の腕なんだい?」

「何じゃ、何を聞かれるかと思えば」

 

クスリ笑み零し、小皿に取り分けたふきのとうの天麩羅をほいと口に放り込み。未だ仄かに熱を帯びた其れ、広がる旨味と苦味ににんまりしながら、次の言葉を紡ぐ。

 

「どれ程、…と言われてもな。

此処へ連れ来られた後も旦那から蘭学の本を貰ったりした故、まぁ傷を縫い合わせる、薬を選ぶ位なれば」

「へぇ…この様な美しい者に傷の手当てや看病をして貰えるのか、良いねぇ」

 

…中身は兎も角。小さくそう付け足した源三郎の隣に並び、し乃雪はおもむろに寄り掛かる。じわ、と滲む温もりと自分を見上げる赤く潤んだ瞳、同じ色の唇が、やがてこそりと彼の耳に囁いた。

 

「其れとな。

蘭学は体の"作り"をも詳しく教えてくれる…

何処を如何弄れば"好い"のか、俺は他の遊女よりも詳しいのさ」

 

ぞくん、源三郎の身が震える。其れが如何言う意味かは解らなかったが、し乃雪を見遣った鳶色の瞳は少々の怯えと好奇心を湛え。

 

「……試さぬからな?」

「俺は未だ何も言うておらぬわえ、」

 

源三郎の反応が余りに予想通りであったのだろう。げらげらと笑い出したし乃雪は、其れは其れは愉しげで。

そんな姿に少々気を悪くしたのだろうか、源三郎は眉をしかめながらちびり酒を口に含み、やがて低き声色にてし乃雪に唸る。

 

「そんなに面白いか、」

「嗚呼、面白いよ。お前さんはからかい甲斐があるのぉ」

「そんなに人をからかうと何時か恨みを買うて襖幽霊(ふすまゆうれい)に取って食われるぞ?ん?」

「…ん?何じゃ其の、詰まらぬ名の面白そうなものは?」

「ほぉ?襖幽霊を知らぬのか?」

 

さも常識であるかの如く、源三郎が声を上げる。其れは少し嬉しそうでもあり、し乃雪の眉間が寄る。

 

「知らぬ。何じゃ、噂かえ?」

「嗚呼、この所吉原界隈じゃあ専らの噂だが。そうか、し乃雪太夫の耳には入っておらぬのか」

「引っ掛かる物言いじゃの?」

「お前さんがもの知らぬ時の顔は面白いなぁ、お返しだ」

「もぉ、いけず」

 

軽く源三郎の肩を叩けば、返って来る意地悪な笑み。其れに何を思ったのであろう、すす…と身を寄せたし乃雪が肩に頭を乗せ、上目遣いにて顔を覗きつつ。

 

「其れより、教えておくれよ…其の襖幽霊、何ぞや?」

 

じっと見詰めてくる瞳はほんのり潤み、同じ色から紡がれる艶やかな唇から紡がれる言葉すら美しい。

男と知りつつも其れに戸惑いと胸の高鳴りを覚えた源三郎、すと顔を逸らしながら其の身を押し離す。

 

「そんな眼で見遣るな、分かったから」

「そうそう、早う話せ」

 

この野郎…。そう小さく呟きながらも、満更でも無い様子。

猪口に残った酒を一気に喉へと流し込み、溜息と共にゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

 

「何時からであったかな…十日か十五日か、其れ位前辺りからだ。

吉原を囲む様にて流れる堀があるだろう、"お歯黒溝"だったか。あの堀に、遊女が溺れ死んでいるのが見付かったのさ」

「ふぅん、」

「伏見町にある曙屋(あかつきや)と言う茶屋の、たえ葉と言う花魁だ。其れは美しい女で、客は絶えなかったと言う。

そんな稼ぎ頭が死んだとなれば一大事だ、しかし騒ぎは其れ故だけでは無かった。

死人(しびと)の家財道具を片付けようと遣手が部屋を訪れた時、其れはあった」

「何があった、」

「シミ、だ」

「シミ?」

 

頓狂な声を上げたし乃雪に、嗚呼、と頷く源三郎。

 

「押入れの襖に、まるで薄墨で描いた様なシミがあったのだと」

「其れが如何した、」

「其のシミな…髪を振り乱した幽霊の如きものであったのさ」

「ほぉ?」

 

幽霊。其の一言にてし乃雪の顔が俄かに明るみを湛え、暫し詰まらなさそうに逸れていた瞳が再び源三郎へ。

 

「何だし乃雪?眼の色を変えて」

「幽霊とな、面白そうじゃ」

「俺は先程"襖幽霊"と言うたぞ?」

「しかし詰まらなかった故になぁ、」

「……」

 

呆れたのだろうか、口を噤む源三郎。

 

「で、まさかたえ葉が描いた墨絵と言う訳ではあるまいて?」

「ん、…たえ葉の襖は分からぬがな、話はこれのみでは終わらぬ。

たえ葉の死より三日後の事だ、今度は京町二丁目にある乱菊楼と言う見世の淡雪と言う花魁がお歯黒溝に投げ込まれておった。…で、其の淡雪が使っておった部屋の襖には」

「襖には、」

「シミがあった。……但し、死んだたえ葉の顔をした幽霊のシミがな」

 

其処まで口にした後、そっと横目にてし乃雪を見遣る。美しい人の、興奮にておぞましい程に歪んだ笑顔が其処にあった…が、直ぐに元の澄まし顔へと戻り視線が逸れる。

 

「成る程ねェ、しかしシミかえ?」

「お気に召さなかったかい、」

「否、面白い。其の様な事もあるのかえ、」

 

少々安っぽい話じゃがな?と付け足しつつも、煙管の紫煙と共に漏らした溜息は充足感を湛え、ふくよか。其れに少しばかり安堵を覚え、しかし苦笑気味に源三郎が返す。

 

「安っぽいと言われてもな。俺は噂通りの話をしたまでぞ」

「そうじゃのぉ、なれば巷が安っぽいと言う事じゃの?」

「安っぽいとは言うておられぬぞ?

実の所、このシミと花魁の死は伏見町、京町二丁目と来て、其の後江戸町一丁目、京町一丁目、角町と続いておる。この意味が分かるか?」

「吉原の手前と奥よりじわじわと中央…此方へ近付いておる訳か、」

「しかも狙われ死んだはどの女も其の町で一・二を争う花魁よ」

「ほぉ…、」

 

言えば言う程、し乃雪の表情が嬉しさを含んでいく。塩をまぶしたふきのとうの天麩羅を一口かじり茶を含み、瞳は中空にて綻んだ。

 

「よもや、其のシミ幽霊が女に嫉妬しておるとでも言うのかえ?」

「さてねぇ、」

「しかし、のぉ源の字。其の話、狙われておるは"花魁"ぞ。俺は花魁かえ?」

「あ、……」

 

しまった、とばつの悪い顔を浮かべる源三郎。其れが又面白いらしい、くつくつくつ、と笑いながらも再びし乃雪の身は彼の肩へと寄り掛かり、徳利を差し出し。

源三郎の差し出した猪口はほんのり恥ずかしそうにて、注がれた酒は直ぐに消えた。

 

「其れにしたって、お前さんが狙われる事は充分有り得る話だぞ?この源三郎さえ騙される美人だ」

「褒め言葉かえ、」

「他に何がある?」

「否、さてねぇ。

……この色町に幽霊話とは、何とも興のある話じゃのぉ」

 

源三郎より猪口を差し出され、注がれた酒はやはり一口にて消えた。

寄り添われたころりと丸い頭を、しかし源三郎は撫でる事も無く、只見詰めて笑う。

 

「なぁし乃雪太夫。お前さんは物の怪幽霊沙汰が好きか?」

「嗚呼、好きじゃ。

妖(あやかし)話は人の業…知れば心の闇ぞ見る、と…な。

お前さんもそう思わぬかえ?」

「詰まる所何だ、此度も人の業が生んだまやかしと」

「続け様に起こる死は殺しか否かは与り知らぬ。

しかし其処に襖幽霊たる尾鰭が付いた噂と言う魚が、今お前さんをも惑わせておる…きっと大きな大きな、美しい金魚の姿をしておろうて」

 

細い指にて源三郎の眼前にくるくると渦を描き、ころころと笑う。彼をからかう気力等どうに消え失せ、源三郎は苦笑いを零す。

 

「…吉原きっての妖太夫には、噂の金魚も尻尾を巻いて逃げ出すな」

「其れは金魚と死に神に聞いてみねば分からぬわえ。

死んだ女の恨み辛みか、患った恋の成れの果てか…何れにせよ、俺が其処に居るのか否か。

のぉ源?このし乃雪が死ぬか否か賭けてみるかえ、」

 

莫迦を言え!と咄嗟に声を荒らげた源三郎、しかし直ぐに其の総てが杞憂であろう心持ちが彼を支配し、次に出たのは「…無ぇよな、」と言う一言と大きな溜息のみ。

其れを見遣ったし乃雪、今度は大きな声で笑った。女をからかう男の如き、軽快で意地悪な青年の笑い声で、だ。

 

そんな男の笑い声響く吉原、此処は揚屋町の黒町屋。

……遊郭の中央にある大見世を、其の時"其れ"は遠く遠く、宵闇の向こう側よりじっ…と見詰め続けていた。

 

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

 

鷄叫ビ明クル朝

呼バレタオ天道顏ヲ出ス

冰ノ色シタ遊女ヲ見ツケ

目覺メサセタハ禿ノ悲鳴

 

闇ニ住マウ者共サヘモ

埜次馬押シ競押シ退ケテ

 

 

 

 

翌日、星消え霧晴れぬ早朝の事。

あれから結局一晩中話に花を咲かせ呑み明かした源三郎であったが、しかし明けに見合わぬ騒ぎの声にて微睡の中よりうっすらと目を覚ました。

人の騒ぐ声、走る音。未だ明け六つじゃ無えか…寝惚けながらもそう思った時だ。ぬくぬくと温かい布団と肌の狭間をひんやりとしたものがするり這い、其の冷たさに身がビクンと跳ねた。

 

「っ冷てッ!」

 

寝耳に水ならぬ、寝首に冷え手。ぼんやり視界定まらぬ目を横切ったものは白くほっそりとした手、其の先に自分を覗き込む白き天女の柔らかな笑顔があった。し乃雪だ。

 

「源三郎様、お早う御座いんす」

「し乃雪、手前ェ…」

 

何て起こし方をしやがるんだ、と喉元まで出掛るも、自分にのみ向けられた余りに美しい微笑みに怒りは一瞬で何処かへ吹き飛ばされ、グゥと唸りに変わる。

 

「何だよ、未だ陽も出て無ぇのに」

「外も内も騒がしゅうて起きてしもうた。黒町屋の花魁が一人、奥の溝にて浮いておるのだと」

「…何だと?」

 

ほんのり残っていた眠気が、其の一言にて総て吹き飛ぶ。良く耳を澄ませば、どうやら野次馬が真っ先に現場へと向かっている様子。噂を聞きつつ時折この見世の前にて立ち止まるらしく、遠くより続く声と足音がこの周辺にて弱まったり止まったりする気配も少なくない。

ふと横を見遣るとさっさと男物の着流しに身を包み外へ出んとするし乃雪の姿があった。どうやら野次馬の中へ混ざろうとしているらしいが、反射的に「おい、」と声を投げる。

 

「何じゃ、」

「見に行くのか?」

「嗚呼。源の字、行かぬのかえ?」

「起きたばかりだ、身支度するからちょっと待てよ」

「なればさっさと動きなされ、片付けられてしまうわえ」

 

表情は殆ど変えぬが、其の眼はらんらんと輝いている。痩せ我慢の様に見得た其れがほんのり可愛くすら感じたが、しかし向けられている相手は"死"だ。不謹慎な、と言う言葉が喉元まで来たものの、彼は其れを口にする事はせず、代わりに自分の着物を手に取った。源三郎自身、この騒ぎが気になっていた故だ。

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

黒町屋がある揚屋町より暫し歩き、吉原を囲う壁伝いに流れる"お歯黒溝"。騒ぎに気づいて目を覚ました人々は皆一様に其処へ集まっており、少し遅れて到着した源三郎とし乃雪、目の当たりにした人の壁に暫し口を噤んだ。

 

「…… この遠さでは見えぬな」

 

ざわめきの中、漸くぽつり言い放つし乃雪。しかし其れ以上前へ進もうとはしない。

 

「さほど遠くは無いぞ、し乃雪?よもや目は悪い方か?」

「この目は今のお前さん位までしか見えぬ。其れに、今の刻は酷く眩しい」

「何だ……詰まる所、お前さんに茶室へ呼ばれるまで俺の顔は見えなかったのかよ……」

「お前さんだ、と言う事は分かっておったぞ?故に呼んだのさ」

「嗚呼そうかよ……」

 

思わぬ事を知り、がっくりと肩を落とす源三郎。が、今は其れどころでは無いとすぐさま気を取り直す。

 

「なら、近くに行かねば分からねぇな?行くぞ、」

「人だかりは苦手じゃ」

「此処まで来て其れを言うのかよ?分かり切った事であったろう、」

「けど、なぁ…」

 

渋るし乃雪の手を源三郎はぐいと握り、強く引く。「痛い、おい源痛いって」となよりしなるし乃雪の身は引っ張られ、無理矢理に其の中へ。「ちょいと御免よ、」と声掛けしつつやがて源三郎が、人一人分遅れてし乃雪が、漸く奥の開けた所まで辿り着いた。

岡っ引は未だ到着していないらしい、人だかりが途切れた向こう側、溝の岸辺に転がるは事切れた遊女の身。一人の禿が縋り付くように其れを揺らし泣きじゃくっているが、只ゆらゆらと為すがままに揺さぶられ、虚ろに天へ向けられた眼が禿へ向けられる事は無い。

 

「…夕凪(ゆうなぎ)じゃな」

 

ぽつり呟くし乃雪。

 

「土左衛門かえ…否、膨れて醜い姿となる前であった故、未だ良き方か」

「昨晩死んだのか、」

「であろうな。昨日は何時も通り張見世(はりみせ/遊女を並ばせ見せる格子部屋)に向かう姿を見た故にな」

 

そうか、と小さく呟いた源三郎、泣きじゃくる禿へと近付き、何言か声を投げ掛ける。涙でくしゃくしゃになった顔を上げた其の子供、そう言えば見覚えがある。昨晩し乃雪の部屋へ酒を持ち来た禿であった。

 

「お前、」

「其の禿は名を”ねね”と言う。夕凪の禿だが、俺に酷く懐いてくれての、時々ああして手伝ってくれるのじゃ」

「ねね、…… おねね、難儀だったな。さあ、お出で」

 

源三郎の優しい声に、ねねは再びぼろぼろと涙を零しながら源三郎へと這い寄り、大声で泣きじゃくった。源三郎は其の小さな身をそっと抱き締め、其の姿はまるで父子の様に優しい。

其の様子を眺めつつ、し乃雪は屍へと歩み寄る。ヘドロの悪臭に顔を歪める事無く直ぐ傍に跪き、違和感。

 

「……ん?」

「如何したし乃雪、」

「ふむ……やけに綺麗だと思わぬか?」

「屍が綺麗だと?」

「違う、着物が、じゃ。乱れが無い」

「ッてぇと、」

「……」

 

言葉途切れ、再び屍へと目を遣るし乃雪。彼の向かいへ同じく跪いた源三郎、確かになぁ…と呟きつつも、何かを思い付いたらしい。ぐいと屍の腹を押した。ごぼ、と其の鼻と口より少しばかり水が溢れ、しかし其の様子を見た源三郎はゆるりと目を細める。

 

「成る程、確かにおかしい」

「今のは?」

「お前さんが気付いたもの、の裏付けだ」

「意味が良う分からぬが」

「良いかし乃雪太夫。もし…」

 

言い掛けた辺り、二人は顔を上げた。遠くより岡っ引の声と走り来る気配がした故だ。

このまま此処に留まるは少々拙い。悪事とまでは行かぬが、奉行に疑われれば面倒な事になる…察し、源三郎はし乃雪とねねを立たせる。

 

「し乃雪、夕凪の部屋は分かるか?」

「嗚呼。…よもや、あれかえ?襖を見に行くのかえ?」

「そうだ。其れ以外の事が何か分かるやも知れぬしな……」

 

言いつつ、其の場を後にしようと二人の身を押す源三郎。

今一度屍の方へと振り返った彼であった…が、一瞬だけ眼が屍の一部に止まり、細められ、又離れた。もう一つの違和感を見付けた故であったが、其れをまじまじと確かめる暇は無く、彼等は再び野次馬を掻き分けて元来た道を戻って行った。

 

二人の手を引く源三郎の横顔が凛々しく男前で、男姿のし乃雪が女の笑みで其れを見詰めていた事を、当の本人は知る由も無い。

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

 

し乃雪がいつも暇を持て余しているあの茶屋の、後ろに位置する建物。この黒町屋と言う見世は他の見世とは少々勝手が違い、見世より茶屋へ花魁が迎えに行く時は待たせずに済むが、代わりに黒町屋が抱える花魁の花魁道中が余り無い。其れは建物が内部で繋がっている故であり、此度も茶屋の玄関を潜ったし乃雪は絢爛豪華な廊下をすすすと歩み、奥へ奥へ。其の後ろを着いて歩く源三郎、装飾の美しさに暫し事件を忘れていたが、やがて立ち止まったし乃雪の身に軽くぶつかり我に返った。

 

「おっと!」

「何じゃ、呆けたか?眠たいか、」

「じゃ無ぇよ。お前にはこの派手な廊下が似合うなぁと」

「褒め言葉じゃの?」

 

ふふ、と笑み零した男姿のし乃雪も又、美麗。見惚れ掛けたが、否々と首を軽く振り。

そう、この男は男だし、今は其れどころでは無い。

そう言えば、し乃雪が立ち止まった其処は鳥居の如き赤漆の柱と金の装飾で囲まれた木戸があり、夕霧の間、と彫られた木板が上部に掛けられている。いかにも花魁の逢瀬部屋…好奇心と見えぬ壁が、源三郎を僅かに戸惑わせる。

 

「で、…この部屋か?」

「そうじゃ」

「そう言えば、夕凪は散茶であったよな。黒町屋で上の方か、」

「”花魁”だけ、なれば二番じゃな。一番には眞鶴(まつる)が居る」

「花魁だけじゃ無ければ、」

「太夫と呼ばれるこのわっちに言わせる気かえ?」

 

向けられた笑みが僅かに恐ろしい。コホン、と咳払いにて場を濁しつつ、彼はし乃雪を押し遣って木戸へ手を掛け、開いた。

金銀錦にて彩られた、眩しい部屋。木彫りの龍が天井を飾り、屏風より鳳凰が溢れ、贅を極めた部屋だ。源三郎には少しばかり馴染みある其の光景、しかし部屋に敷かれた布団が乱れており、逢瀬の生々しさが垣間見える。

二人はそうしてぐるり見渡した後、異変に気付き同じ方を見た。襖だ。

 

「…おお…、」

 

し乃雪が、嬉しそうに声を上げる。

 

「見事じゃのぉ…これなれば噂にもなるわえ」

 

其処にあったのは、し乃雪の背程もある大きなシミだ。

成る程、噂通り。まるで戸板に張付け川に流されたお岩の如く、ざんばらに撒いた黒髪から悶え苦しむような表情、顔貌、そして着物の柄まではっきりと見て取れる。間違い無く、見るものが見れば先日に死んだたえ葉に見得、恐れおののくであろう。

し乃雪は其の濃く浮き立ったシミへと近付き、細くしなやかな指でするり撫でる。不気味にて妖艶な其の仕草に怯えたのだろうか、そう言えば源三郎の背後にねねは隠れ、彼の帯を引っ掴んでぷるぷると震えている。

 

「ん?…ふふ、おねね。怖いかえ?」

 

気付いたし乃雪が声を掛ければ、ねねはちらとだけ源三郎の影より顔を出した。が、直ぐに引っ込む。

 

「そりゃあそうだろう。し乃雪、今のお前さんは其のシミ位恐ろしい顔をしておるぞ?」

「何じゃ、俺は妖かえ?」

「ねねには少なくともそう見得るんだろうよ」

 

ぷぅと頬を膨らませるし乃雪、くつくつと笑う源三郎。やがて彼はねねの前に背を向けてしゃがみ、小さな体を背負った。ねねは大人しく背負われ、少しばかり嬉しそうにすり寄る。

 

「似合うじゃないか、源の字?父子そのものじゃ」

 

からかい返せば、「煩ぇ、」と悪態。

 

「可愛そうだろうが、あんなに慕っておった姉さんを亡くしたのだからよ」

「確かに、そうじゃのぉ…お前さんは優しいな、なれば俺にも同情してくれるのかえ?」

「お前さんが売られた事には同情するが、今の妖しい顔には同情出来ねぇよ」

 

言いつつも、ふと源三郎は足元に広がる布団に目を落とし、場にしゃがんだ。何かを見付けたらしい、じっと其の場を見詰め続ける源三郎に、し乃雪の眉根がほんのり寄る。

 

「ん、如何した源」

「俺には如何も、其の襖幽霊が下手人(げしゅにん/殺人犯)だとは思えぬ」

「ほぉ?岡っ引気取りかえ、」

「悪いか、」

「色男じゃのぉ?」

「言ってろよ。……しかし、なれば其のシミ幽霊は如何にして夕凪を殺めたと思う?」

 

言葉を連ねるも、其の眼はずっと足元を見詰めたまま。し乃雪も漸く気になり始めたらしく、ゆるりと襖より離れて其の傍に跪いた。

源三郎が見詰めていたのは、枕元の敷布団と畳の境目付近。良く見れば、其の畳にはうっすらと頭一つ分程のシミ…しかし、敷布団をめくれば其の下にシミは無く、半円の形となっている。そう言えば、敷布団の方には其のシミは見当たらない。

 

「ほぉ」

「何じゃ、」

「見ろよ。シミが半月だ」

「だから如何した?」

「気付かねぇなら良い。…其れに、これは」

 

畳に着いたシミ、其の上と周辺には何か白いものがこびり付いている。そう言えば其の白いものもシミそのものもうっすら薄汚れており、濡れた埃の如き繊維状の其れをつまみ上げた源三郎はふむ…と顎を擦る。何も教えてくれぬまま思いに耽る源三郎、とうとうし乃雪は痺れを切らし、パシンと肩を叩く。

 

「何だよ、」

「勿体ぶらずに口に出せ、詰まらぬわえ」

「お前さんも少し考えてみたら如何だい?俺は何と無く下手人が分かって来たぜ」

「分かって来た、とな?其の口振り、つまる所あの襖シミの仕業では無いと」

 

言えば、今度は源三郎が妖しい笑み。

 

「雪、」

少々わざとらしく、源三郎はし乃雪に向けた。不意に目が合ったし乃雪、間の抜けた返事を返す。

「ん、あ?」

「其の押入れの中に布団が入っておる筈だ。彼女にゃ悪いが、ちょいと其の襖を開けて見てくれぬか」

「あ?嗚呼、」

言われ、し乃雪は何の疑いもせずに押入れを開け……

「……何、だ。随分重……」

だが、妙に襖が重く、ギギと嫌な音を立てて上手く開かない。

「こなくそッ……」

ギギギギギ、と縁に新たな溝を作る勢いで無理矢理こじ開けた所で、中から布団が雪崩のように崩れ、し乃雪を襲う。

「うあぁ!?」

ドドド、と潰されたし乃雪は、しかし直ぐに這い出、乱れた妖艶な姿で、しかし酷く必死な形相で叫んだ。

「冷ッて……何じゃこの布団、濡れておる!」

「成る程な、」

「源、お前……よもや知っていて俺に開けさせたか、」

「いやいや悪い悪い、まさか雪崩てくるとは思わなんだ」

「畜生、気に入っている着物なのに……シミになってしまうわえ」

不機嫌に頬を膨らませるし乃雪、源三郎の様子を一瞥し、唸る。

「で?多大なる犠牲を払って源の字めは何か分かり得たのかいな?」

わざとらしく話を振れば、返って来たは不敵な笑顔だ。

「嗚呼、居るぜ……怖ぇ怖ぇ『バケモン』が別にな」

「ばったもんの妖は要らぬよ?」

「お前さんが言うたんだぞ?妖話は人の業、とよ」

「ふむ、確かにそうじゃが」

「なんてな。案ずるな、俺は其処まで意地悪じゃない。

後で酒を飲みつつ肴に謎解きでも如何だい?」

 

少し不機嫌そうなし乃雪の頭を、大きな手がぽんぽんと撫でる。其れが酷く温かく感じたし乃雪であったが、同時に小莫迦にされた様な心持を覚えたらしい。ぱしん、と其の手を払い、膨れ面で着流しを翻し。

 

「仕方無し、付き合うてやろう。但し」

「但し、」

「詰まらぬ謎解きであったなれば、其の頬を抓ってやるからな?」

 

振り向きにこりと笑った顔に、悔し紛れの痩せ我慢。

其のまま部屋を後にするし乃雪、そして大きな背よりストンと降りて慌てて付いて行く少女の姿を、源三郎は暫し見詰めていた。時折見せる人間らしい表情が中々…一瞬たりそう思ったが、直ぐに首を横に振る。

あの白い人を見ていると、如何も未だ女に思えてしょうがないらしい。

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

少し不機嫌めに歩み行く細身の着流し姿に少しばかり着いて歩き、す、と自室の襖を開けた其の様を、源三郎は当たり前の如く眺めていた。何事も無い故に其れは当然の流れ…であったが、其のままひたり動かなくなってしまったし乃雪に、暫し間を置いて漸く気付く。

 

「し乃雪?」

 

まるで木と化したかの如き其の様、訝しみつつ小さく声を投げた時だ。其の呼び掛けにて何か糸が切れた様に、やがて其の背の肩が小刻みに揺れ、其れは笑いへと変わっていく。

 

「何だ、如何した?」

 

源三郎とし乃雪の間に居たねねが、部屋を覗いて俄かに怯えた様子を見せ、たっと廊下へ走り去った。振り向かぬし乃雪の様子も見るに、どうやら部屋の中に何かがあるらしい。

そっと、不気味に笑うし乃雪の横より部屋を覗き見、途端うっと声を漏らした。

其処には何も無い。何時もの殺風景な部屋、…しかし、押入れの襖に、縦に長い大きなシミが出来ていたのである。

 

“ざわり”

シミが、動く。蟻の大群が動いているかの如く、しかしまっこと其れはシミであり、やがてゆっくりと人の形となり。

乱れた髪の、恨めしそうな死に顔が、ゆっくり、ざわざわ、し乃雪達を、……見遣った。

 

「…何、だ…これは、」

「嗚呼、面白いな源三郎!」

 

そう言えばけたけたと笑い止まらぬ様子であったし乃雪が、漸く涙を拭きながら源三郎へと眼を向けた。濡れた紅玉の瞳は酷く美しいが、其れが何故に濡れているのかを知る源三郎には趣も何も感じない。

 

「…あのなぁ、この一大事に良くも笑っておられるな?」

「これ程面白き事は無かろうて、このシミ幽霊は俺を女と見たのじゃぞ?」

「……幽霊が間違えるのかよ……」

「何じゃ源の字?俺を女と思うて十九両も注ぎ込んだ癖に」

「其れとこれとは」

「別…とは言わせぬぞ?」

 

恥ずかしそうに顔を上げた源三郎の胸元を、つるりと指が滑る。色めいた其れが何とも妖しく、ぐぅと声が漏れた。

 

「しかしだ、お前さんの身が危ないと言う事だろう。

怖く無いのか?」

「何を申す?怖いさ」

「、」

「しかしな、源の字。

お前さんは何故に危なや怖やと訊く?」

「何故にと?」

 

白磁の様に白き顔に、浮かんだ笑顔が妖しく変わる。

薄暗き部屋へ臆する事無くするり入ったし乃雪、ふわり舞う様に畳を歩み、やがて何時もの窓辺に腰を下ろし。

 

「このシミが真に幽霊なれば、何かを思うて出て来たと言う事。

思いを知れば無念が晴れる、無念が晴れれば其処でお終い、となろうて?」

「そりゃあそうだが、」

「なれば、訊こう。…とはならぬかえ?」

 

其れを聞いた源三郎、しかし眉根が寄るばかり。どうやら言葉の意味は理解すれど、俄かに信じられるものでは無いらしい。其処で漸く彼も部屋へ踏み入り、恐る恐るし乃雪の傍に胡坐をかいた。

 

「訊けるなればとうにそうしておるだろう…しかし、相手はシミだし死人だぞ?

そもそも、無理じゃあ無いのか。

其れとも、坊さんか呪(まじな)い師でも呼ぶのか、」

「お前さんなぁ、」

 

意味深長にくつくつと笑う、し乃雪。口元隠す其の仕草はゆるりと柔らかく、まるでしなやかな猫の如く。

 

「まぁ、良いわえ。

のお源三郎。そう言えば何と無く下手人が見えて来たと言うておったが。

先ずは其処から聞こうかえ?」

「話を変えるなよ、」

「物事には順番があろうて?お前さんが先じゃ、余計な事を吹き込めばややこしくなる」

 

其の”余計な事”を持ち出し掛けたのはお前の方じゃあ無ぇのかよ…。

そう、し乃雪には聞こえぬ様に声に出さず呟いた時、先刻逃げて行ったねねが丁度良く入口の襖を開けた。恐る恐る、しかし足早に近付いて二人の傍へ置いた物は、酒の徳利と猪口が乗った盆である。

 

「おいおい、晩には早いんじゃあ無ぇのか、」

「何と、お前さんは昼は呑まぬのか?」

 

し乃雪が言えば、返って来るは苦笑。

 

「昼間から毎日呑んでいやがると楽しみが減るからな」

「酒の飲み方すら拘るか、面倒な男じゃ」

「其処は粋だと言う所だろうが、」

「粋と面倒は紙一重じゃの?

で、」

 

窓の縁を降り、すす、と身を寄せ来るし乃雪。嗚呼そうか、これは催促の時に必ず来るものなのか…と源三郎は気付き、彼が切り出す前に口を開く。

 

「幽霊の前での謎解き話は少々気が引ける」

「詰まらぬ事を申すなよ。どの道何かが起きるのじゃ、構わぬであろう?

ほら、話し遣れ。お前さんの声は心地が良い」

「しょうが無ェな…、」

 

酒の代わりにねねより差し出された湯呑を受け取りながら、ふぅと息を整える。ほんのり漂った沈黙の合間を、どうもこの真下に来たらしい、瓦版屋の威勢良い声が割って入り、し乃雪の眼がふと窓の下へと向いた。どうやら花魁の連続死を面白可笑しく仕立て上げているらしく、野次馬の勢いも上々、騒がしい。

 

「この様な所に瓦版屋たァ、珍しいわえ」

「……」

「源三郎、如何した?」

「ふむ………」

 

ふと見れば、源三郎の表情が少し曇っている。瓦版屋の不謹慎加減に呆れているのだろうか…し乃雪は勘ぐる様子で其の顔を覗き込んだが、源三郎は直ぐに表情を戻し、湯呑を啜る。

 

「成る程な」

「何が成る程じゃ?気になるだろうが、」

「今に分かるさ。なれば、話そうか…

先ず、だ。夕凪の死に場所、お前さんは何処だと思う?」

「嗚呼?そりゃあお歯黒溝であろうて?」

「如何してそう思うんだ?」

「あすこに亡骸があった、其れに……… 、」

 

嗚呼…!と一言漏らしたし乃雪、何かに気付いたらしい。ぺしんと自らの額を叩いた後、漏らす様に訂正する。

 

「そうかえ、……服が乱れておらなんだ」

「そう」

「しかし、幽霊に唆されて自ら飛び込んだとも考えられぬかえ?」

「じゃあ、逆の方より考えてみようかね。

なあし乃雪太夫。あの部屋…逢瀬部屋、色々と可笑しき所があったであろう?」

「嗚呼」

「まず、水を零した様な跡。半円状に残った畳のシミ。濡れた布団。

其れに、畳の上に随分と白っぽいカスが残されておった」

「白い、カス?」

「何だと思う?」

 

少したり考え、小さく零す。

 

「摩羅のかえ?」

「戯け!紙だ紙!」

 

紙ィ?と、し乃雪の頓狂な声。其れに頷きつつ、源三郎は一口茶を啜る。

 

「詰まり、…これは俺の推測だが。

眠っておる夕凪にそろそろと水を掛けて殺める、」

「殺めるだけの水が流されたと思えぬが。普通なれば、あれだけの水では只飛び起きるんじゃあ無いのかえ?」

「知らぬよな?水はな、入る所を間違えばほんの少しばかりでも人を彼岸送りにしちまうのさ。故に何処ででも溺れ死ぬ事は出来る」

「へぇ、入る所ねぇ?」

「で、亡骸を退かして水を紙にて拭き取り布団を変える、亡骸を運びお歯黒溝へ投げ捨てる…と」

「紙にて、拭き取る?そんなたかが紙、誰でも持ち歩く事が……、」

「只の紙なら誰しも持ち歩く。問題は、"量"と"何の紙か"、だ」

 

言うと、源三郎はおもむろに懐を弄り、一枚の紙を取り出した。四つ折りにされ、少々黄ばんだ紙。其れは大分薄く作られ、中に書かれているであろう文字が随分と裏へ滲んでいる。

 

「恐らく、コレだ」

「コレ、とな…… 嗚呼!」

 

自慢気に広げてみせた其の紙に、し乃雪は指差して頷く。総てが合点行った所でぽんと膝を叩いた其の眼、ちかりと紅玉の如く輝き、やがて笑いへと変わる。

 

「これ、をだ。例えば水を拭き取れる程に大量に持ち歩いていて、尚且つ怪しまれぬ奴…さぁ、誰だ?」

「成る程なぁ……見事じゃのぉ、源!お前さんは何か、其の頭の”早さ”は御用聞きかえ?」

「褒めるなよ。…まぁ、御用聞きじゃあ無ぇが似た様なモンだ」

「そうかえそうかえ、なれば次は俺の番じゃの」

「何だ?お前はお前の考えがあるのかい、」

 

言えば、鮮やかに塗られた小振りな唇がニッと釣り上がり、楽しそうな声を零す。

 

「考えじゃあ無いよ。"答え合わせ"、じゃ」

「答え??」

「推するよりも易き事。当の者に、訊けば良い」

すぅ、と立ち上がった其の姿、何処か幽霊の如く儚げに見え、源三郎が持つ湯呑みすら冷たく感じる。

「まさか、奴(やっこ)さんに、か?」

「いんや。"これ"、に、じゃ」

 

すすと歩み寄り、立ち止まった場所。其れは、あの幽霊が浮き出た衾。まるでじっとし乃雪を見詰めている様な黒いシミの眼が、トントンとし乃雪が叩いた衝撃にほんの僅か細められた様に見えた。

 

「……はッ、」

 

源三郎が吹き出す。

 

「だから、よぉし乃雪太夫?先も言ったが、其の衾に如何して訊くつもりだい?」

「のぉ源の字?お前さんは先程「坊さんか呪(まじな)い師でも呼ぶのか」、と訊いたな?」

「嗚呼、其れが如何した?」

「坊さんも呪い師も要らぬが、あながち外れてもおらぬ」

 

言いながら、懐より取り出したものは真っ白な紙。其れを慣れた手つきにて紙縒(こよ)りにし、し乃雪は近くの行灯よりそっと火を着けた。ちりちり…と囁きながら燃え始める其れに、何言か囁きながら…言葉は聞こえぬが、やがて蝋燭の如き火をパン、と両手で潰す。

 

「お?おい、」

 

火傷するぞ、と言わんとした口が、しかし次の時にはあんぐりと開いたまま、鳶色の瞳が其れへと釘付けになった。

し乃雪を、真っ赤な炎がぐるりと囲み、やがて猫か虎、若しくは人にも似た形の異形へと、形を成した故だ。

言葉を紡ぐ事すら出来ぬ間に、其れはなぁぁお!と一声嘶(いなな)いた。そして再び形を変え、し乃雪の腕へと絡みついて大きな爪の様な姿となる。

 

「……何だ、其りゃァ……!」

「まぁまぁ、」

 

先ずは見ておれよ。そう呟くし乃雪の、大爪の如き両手が、そっと衾の中へと入っていく。水の中へ沈め行く様に波紋が広がり、爪は衾絵の中にて墨の様に黒い。

爪は、ゆぅるりと、幽霊のシミを掴んだ、両の手にて包み込む様に、やがてそぉっと、衾より引き上げ。

姿が衾の向こうより此方へちらり現れた瞬間、幽霊はし乃雪へと抱きついた。

 

「おい、し乃雪!」

 

襲われたか、と身を乗り出し掛けた源三郎であったが、どうやら違うらしい。シッ、と人差し指を唇へあてがったし乃雪、やがて聞こえぬ程に小さな声にて何かを語りかけ始めた。

……少し離れた所より、気が気では無い様子で見ている源三郎。…そう言えば、よく見るとあの幽霊はたえ葉では無く、先刻見た屍…夕凪だ。憂いを帯びた悲しげな瞳は、やがて朧気にて美しき姿にて、源三郎に深く一礼し、すぅと消えていった。

 

 

「…… 始終、知り得たり」

 

そう声を上げたし乃雪の手に、もうあの炎の爪は無い。くるり振り向き、何事も無かった様に窓の縁に腰を下ろす。

対し、状況が分からぬままの源三郎は少々立腹したらしい、眉を吊り上げダンと畳を殴った。

 

「…何が始終知り得たりだ!」

「んッ?」

「腕が燃えたり幽霊に抱き付かれたり、驚かせやがって!取り憑かれておらぬだろうな!?火傷は無いのか!?」

「驚いたかえ?」

「嗚呼驚いたさ、お前が如何にかなるんじゃあねぇかとな!」

 

其の言葉にて、し乃雪は眼をまぁるくした。驚いたらしい、暫し其のまま源三郎を見詰め、やがて少し狼狽した様に頬を染め僅か目を逸らした。其の仕草が若いおなごの様で、源三郎も拍子抜けした様子で茶を口に含む。

 

「…… 何だ、急に赤くなりやがって」

「言われ慣れぬ言葉であった」

「そうか?」

「俺が、如何にか、か……フフ」

「嬉しいか、」

「大抵は妖扱いじゃ。其の驚いた様が面白うて意地悪しておったが、…お前さんは稀有じゃのぉ」

 

喉元を擽られる猫の様に目を細め、擦り寄って来た身を、しかし源三郎はするり交わす。「いけず、」と笑ったし乃雪の鼻を、浅黒く太い指がぶにと押し上げた。

 

「ふがッ」

「そんな事より、し乃雪!」

「何じゃぁぁ」

「知り得た事、教えろよ!あすこまでして何か得たのだろう?気になるだろうが、」

 

尚押し上げ続ける指を掴んだし乃雪、先刻とは違う不敵な笑みを浮かべる。女の妖しさと男の大胆さが混じり、不思議な魅力が源三郎の胸を叩き。

 

「ご名答であったよ、源三郎。

ついでに下手人の目的も、夕凪達の意図も知れた」

「おおお?」

「まぁまぁ、しかし終わってからでも遅くはなかろうて」

「と、言うと」

「お伽話の裏側は幕が閉じた後の方が面白い、……違う、かえ?」

 

そうほくそ笑みながら、ふとし乃雪は表を見た。

窓の外に居る、先刻より其処に居た、者。以前よりじっと此方を見詰めてくる其れと、目が合った。

し乃雪は、笑った。はんなりと笑む華の如き笑みは、しかし其の奥底に毒を含んでいる様で、酷く美しい。

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

 

 

鳥肌押シ退ケ常闇デ

ホクソ笑ムハ誰ガ鬼ゾ

怯エ月ガ姿ヲ隱シ

其ノ夜ニ潛ンダ惡意ガ動ク

 

 

 

 

 

丑三つ時よりももう少しだけ深くて浅い、夜。

霧が濛々と立ち込め、世界を黒い白で覆いつくした其の辺りに。

 

人影。

其れも、自分の背ほどの瓢箪と何かの束を背に担いだ姿で。

大人にしては少々小さめの其れは、人の背よりも高い塀をいとも軽くひょいと飛び越え、屋根へと乗り上げ。やがて静かな足取りで、瓦をなぞるように歩く。

 

 

―   はぁ   はぁ   はぁ   はぁ

 

 

とある見世の二階へと辿り着き、立ち止まる。

何か緊張した仕草で、重く閉ざされた木戸に手を掛ける。

戸はきぃとも音を立てる事無く素直に開き、しっとりと濡れた空気に直に触れた障子がしわりと小さく呟いた。

 

 

―   はぁ   はぁ   はぁ   はぁ

 

 

息が、荒くなっていく。

初めて目に映した、憧れの部屋。

想像よりも質素に見えた其の部屋…眼前にあるのは、藤柄の布団に寒そうに包まった、何者かの姿。

 

侵入者は、其の正体を知っている。

あの時見た、美しきおなご。

此処……黒町屋の、一番。

この吉原きっての美人……し乃雪太夫。

 

幸い、今宵は客を取っておらぬ様子で、其の場所は異様に沈黙を漂わせ、重い。

 

 

―   はぁ   はぁ   はぁ   はぁ

 

わし一人のものじゃ……わしだけのものじゃ……

 

 

そっと、冷たい手が布団の中へ潜り込む。

担いでいた瓢箪の栓を開け、温かく心地良い布団をそっと捲れば、

ほれ、美しい寝顔が……

 

 

「げぇッ!!?」

 

布団は突然跳ね上がり、侵入者の鳩尾へ綺麗に踵がめり込んだ。

其のまま背負っていた瓢箪ごと吹っ飛び、襖に叩きつけられ、瓢箪の水と持っていた紙の束を派手にばら撒く。

「源!」

飛び起きたし乃雪が叫べば、丁度侵入者の頭上に位置する天井がバクンと開き、待機していた源三郎が飛び掛かる。其れは抵抗する術も無く、源三郎に押し潰され、見事に羽交い絞めにされた。

 

「ひッ…… おっ男!?」

 

侵入者が、目前にある肌蹴た胸元を見、声を上げる。其の眼に映った者は憧れの"女"に違い無い…が、男物の着流しに男の笑みを浮かべる野郎そのものであった。

 

「今更気付いたのかえ?残念であったのぉ、」

 

源三郎に腕を取り押さえられている男の顎を、し乃雪はくいと上げてしげしげ見遣る。

見れば、其れは最近見かけるようになったあの瓦版屋であった。

 

「ふひ……ひぃぃ……」

「ひぃひぃと気持ち悪い野郎じゃ……」

 

眉をしかめ、其の手を離す。かくんと頭を落とした男はだらだらと唾液を垂れ流し、酷く歪んだ顔、虚ろな眼をゆっくりと二人へ向けた。

 

「よぉ、変態。お前さんは一体俺で何人目じゃ、」

「ひ……ひひひ…… 何人だったかなぁぁ…… まさか、男だとはなあぁ…… 一番のタマモノだと思ったのになァァ……、」

 

息も切れ切れに喋り始める声は。近頃頻繁に外で響く声に間違いは無い。しかし、其れにしても日中とは違い張りが無く、酷く気味が悪く揺れ、悪寒を誘う。

 

「どれだけ前より俺を狙っておった、」

「ひひッ……噂はな、山を越えるってぇモンだ………… 越中の山ン中にまでおめぇさんの噂はきとるよ……」

「山ン中ぁ?」

「妖(アヤカシ)だって手練手管で操る、雪女みてぇに、天女みてぇぇにきれぇなきれぇな花魁だ、となぁ……」

「褒め言葉じゃの…… 陰間茶屋の、だけれどもな」

「ずぅっと、ずぅっと、探しておったんだぜぇ…天女を汚したら罰(ばち)が当たるとよぉ……見付けてもずぅっと他の女で我慢しておったのにぃなぁぁ……」

 

そう言う事か。口に出さずとも、し乃雪も源三郎も妙に納得し、顔を見合わせる。

 

と。

先刻蹴られて其の背から離れた瓢箪が、ゴト、と音を立てた。

 

「!?」

 

異様な気配に気付き振り向いた源三郎の顔面めがけ、まるで操られているかの様にブンと吹っ飛んだ瓢箪が勢い良くぶつかる。

 

「んがッ!?」

 

弾みで男の上から転げ落ちる源三郎の身体。自分の背に落ちた瓢箪を素早く背に括り付けた男は隙を見て其の場から逃げ、窓の縁へと立った。

 

「チッ……手前!」

「ひひひッ……嗚呼何だ。其処の男……、」

「待て、この…」

 

男は何事か言いかけたが、立ち上がった源三郎が捕まえようとした瞬間、ぽぉんと軽く縁を蹴り。

まるで飛蝗(ばった)が跳ねるかのように高く飛んだ其れは、あっという間に夜霧の中へと消えていってしまった。

 

 

「追う、」

「止めておけ源、」

 

同じく縁に足を掛けた源三郎を、し乃雪は静かに制す。

 

「この夜霧じゃ見えもしない。其れに、もう此処には来ぬであろうて……

そもそもお前さん、此処から飛び降りたら骨を折るわえ」

「けれどもよ」

「俺を案じてくれるなれば暫くは此処に寝泊まりし遣れ、」

「………………だな、」

 

渋々、縁から下り、其の場に胡坐をかく源三郎。

 

「……其れより雪、お前身体の方は何とも無えんだな、」

「其れは俺の科白じゃ。鼻血が出おるぞ、色男が勿体無い」

「ありゃ……」

 

言われ、初めて気付いた源三郎。其れをし乃雪が近くに置いていた手拭いでそっと拭き取る。

源三郎は少し照れた様にじっと動かず、しかし時折「痛てて、」と顔を歪ませた。どうやら唇も切っている様だ。

 

「舐めて良い、」

「戯け、」

 

近付いてきたし乃雪の顔を押しやり、笑いながら受け流す。先刻まで怖い程に男勝りだったし乃雪はとうに何処かへ去り、今は何時もの招き猫へと戻っている。其れを悟り、源三郎の苦笑は微笑みへと変わった。

 

そして改めて部屋の中を見回し

 

「…… まあ、俺の考えはあながち外れではなかった、ってぇ事か」

 

零れた水と散らかった紙。源三郎はひしゃげた一枚を手に取り、漏らした。

其処に書いてあったのは、今宵起こる筈だった事件の詳しい内容だ。

 

「宵の天女・吉原一番の妖狐太夫 宵の内に彼岸へ旅立つ……

上手い事書きやがって」

「悪くは無いわえ、」

「褒められているんじゃあ無ぇぞ、」

「"綺麗"なまま死ねるなれば本望じゃ」

「其の様な死に方されて残される方にもなってみろ!

…全く、」

 

どうやら鼻血は直ぐに止まった様子。トントンと項(うなじ)の辺りを叩いていた手を止め、ふと顎をひくつかせ。

 

「……そうだ。

夕凪の事、そろそろ教えてくれても良いであろう?」

 

思い出し見遣れば、そう言えば襖にくっきりと描かれていた女のシミがすっかり跡形も無く消えている。其れに安堵を覚えるは源三郎、さも当たり前の様に煙管に火を着けたし乃雪はふ…と紫煙を漂わせ、其の姿が幻の如く僅か霞む。

 

「今聞きたいかえ?酒を持って来ようか、」

「酒は次の宵に笑いながら呑もうぜ。

其れより、気になって眠れねえからよ」

「ふふ…子供め」

「んだと?」

 

クスクスクス。笑いながら、するりと脚を組み替えるし乃雪。女の様に流した脚は白く細く、源三郎は瞬時のみ視線を引っ張られた。

 

「なれば、…しかし、俺は少し疲れたよ」

 

ふわ、とあくびを零す。真に疲れてしまったのであろうか、煙管も早々に消し、ころりと布団に転がってしまった。

 

「やはり明日にしようぞ」

「お前こそ子供じゃあ無えかよ、」

「如何とでも言え。

…きっと明朝……面白い事が起こるわえ……

今宵は……寝よう………」

 

やがて、とろりと溶けた瞳を瞼に隠し、柔らかな寝息を立て始めたし乃雪。

最後の一言を良く気にもせぬまま、そう言えば源三郎自身も身が酷く重い事に気付く。

 

なればもう俺も寝ようか。布団を敷く為に立ち上がった時、またつぅと鼻血が出る感覚がし、慌てて頭を上へと向けた。……もう暫し、眠れなさそうである。

 

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

其の頃、遊廓の入り口近く。

門の傍にある大きな柳の木下で胡坐をかき、ひぃひぃと肩で息をしているのは先刻の瓦版屋。

立ち込める白い闇色の霧に何処と無い不安……しかし、誰かが追って来る様な気配がせぬ事を感じ取った後、大きく息を吐き出した。

 

「ひひひ…… お、惜しかったな…… あの花魁、もう少しで……

男だったなんて、な……ひひ」

 

そう独りごちて瓢箪を下ろし、一息つき。

 

「そうでなくとも……売るにしても……

あの男、邪魔だね……ひひ……

あいつをひきはがさねぇとね……ひ…… ?」

 

ふと、其処で独り言が止まる。

 

何かの気配を察した。

気味の悪い、生温い気配だ。

ぬるりぬるり、まるで霧が其の身に魂を持ったかの如く、蠢く。

 

男の背を、冷たい風がひょうと吹き抜けた。

柳がさわさわさわさわと不自然に揺れ始める。

 

「……ひっ……!?」

 

ぞ く っ 。

 

身が縮む程の激しい寒気だ。

何事だ、と男が辺りを見回し……

 

否。見回す必要も無かった。

顔を上げれば、囲まれていたのだ。十五人の……殺した数だけの、女の霊に。

 

鈴、たえ葉、淡雪、夕凪……

鈴よりも前に、戯れにて殺めた女達も。

 

皆、脚が無かった。故に、背が小さく座り込んでいた男が顔を上げるまで気付かなかったのである。

 

「ぎゃッ……!!?」

 

男は悲鳴をあげた。しかし其れは冷たい風の唸る音にかき消された。

 

女達は笑っていた。今この瞬間を待ち望んでいたかの様に、嬉しそうに笑んでいた。

 

"嗚呼……恨めしい……恨めしいよぉ……"

 

其の声がわぁんと不思議に響き、男へとゆっくり覆い被さって、

 

「ぎ…… ぎゃああぁぁぁ…………!!」

 

ごぼごぼ…ごぼ…と、泡を吹き出す様な音と共に、断末魔の様な声が寝静まった周囲に響き渡った。

 

 

さわさわ、さわ。

我関せずと揺れる柳が、霧の粒と共に涼しげだ。

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

 

日常變ワラヌ遊郭街

何モ變ワラヌ今宵モフタリ

下(ゲ)ノ界見下ロシ笑ヒアフ

 

 

 

 

翌朝。

 

「……の幽霊はな……ずぅっとあの男を……」

 

遠く微睡みの向こう側より、心地の良い男の声。

嗚呼、何と良い子守歌……思い掛けるも、しかし幽霊が如何のと言う言葉にてぞっと鳥肌が全身を襲い、暗い目前をヒュルと白いものが横切り。

思わず瞼を開いた時、其の目と鼻の先に……真っ白な、幽霊。

 

「うわあァ!!」

 

悲鳴と共に飛び起きた源三郎の頭が、目前の其れとゴツンとぶつかり、星が散った。堪らず額を押さえ布団へ転がる源三郎、同じく痛そうに頭をさするは、漸く見慣れてきたし乃雪であった。

 

「……何じゃ源の字、跳び起きるなよ!」

「おッお前が悪いんだろう!耳元で幽霊が如何のと、」

「聞きたいと申しておった故、話しておったまでじゃ。如何じゃ、幽霊の夢を見られたかえ?」

「お前は!全く……、」

 

溜息と共に、そう言えば外が酷く騒がしい。昨日に似た既視感を覚えし乃雪を見れば、もう何時もの振り袖姿となった彼はふわり笑む。……差し込んでくる朝日を浴び、妙に眩しく見えたのは気の所為に有らず。

 

「気になるかえ、」

「又誰かが?」

「"誰"、か…… まあ、其の前に先の襖幽霊の話をゆうるり聞いてからにしようぞ。お前さんが寝ておる最中に総て話し終えてしもうたが、聞いてはおらなかったであろうて?」

「……この頃思うが、お前さんは意地が悪いな」

「真の意地悪は起き掛けの茶等出さぬよ」

 

随分用意が良い。既に準備されていた茶を急須より湯呑みに注ぎ、すと源三郎へと差し出すし乃雪。一口其れを含めば、其の姿を嬉しそうに見詰めていたし乃雪は歌を紡ぐ様にゆっくりと語り出す。

 

 

「……最初にあの男に殺されたは、夜鷹(外にて身を売る女)であったのだと」

「たえ葉が最初では無かったのか、」

「たえ葉の部屋の襖に居ったのが、其の夜鷹じゃ。…名を鈴と言うたか。

旦那に逃げられ、病の娘を養う為にそうするしか無かったと。

何時もの様に夜道に立っておった時、偶々通り掛かったあの瓦版屋に声を掛けた所、首を絞められたのだとさ」

「追い剥ぎか、」

「否、」

「まさか」

「左様。あの男は"其れが好き"なのさ。

鈴は首を絞められた…しかし、辛うじて死ななかった。薄らと意識が残った中、人形の如く扱われ、近くの川に投げ込まれ、其処で死んだ。

浮かばれぬまま娘の所へ向かえば、娘は薬も飯も口に出来ぬまま独り枯れ死んでおった」

「……」

「鈴は、あの男の顔を知り得ておった。そう、鈴だけは、な。

あの男の後を辿り、あの男の行く先へ先回りし、あの男の視界に写る所に其の姿を描いた。次に犠牲となる女への忠告も兼ねて、な」

 

ふんわり、茶の湯気が朝日に揺れる。春の花の香りに茶の芳香が混じり、しかし其の華やかさが何処か物悲しい。

握ったままの湯呑みが熱を伝え、源三郎は耐えきれず其れを畳へ置いた。

 

「詰まる所……あの襖幽霊は」

「左様。彼女達が向いておった先は"俺"では無く、あの男であった、と言う事さ」

 

其処まで呟き、ふぅ…と吐息を漏らす。ふと閉じられた眼、長い銀の睫が微かに揺れる。

源三郎は胸元に何か重いものを抱えた様な心持ちにてもう一口茶を啜り、やがて。

 

「…あの野郎、」

「捕まえるつもりかえ?」

「嗚呼。同じ人として許せねえ」

「同じ人として、…ねぇ?」

 

立ち上がった彼に、しかしし乃雪は微笑みながら零す。

 

「のぉ、源三郎?今、下で騒いでおるのが気になるであろうて、」

「嗚呼、」

「教えてやろう。

吉原の入り口に生えておる柳の木の下にて、人程もある大狢(むじな)が大瓢箪を背負って死んでおるのだとさ」

 

瞬時、目を瞬かせた源三郎。嗚呼何だそうか……そう受け流そうとしたものの、何かに気付き「…ん!?」と再び顔を上げる。

 

「大瓢箪?」

「ふふ、」

「…… 否否否、まさか!あの瓦版屋が狢の変化(へんげ)だとでも?」

「さぁてね。俺は其の様な事は一言も言うておらぬよ?」

「だよ、なぁ?……だよなぁ……」

 

其の様な事等有り得ぬ…否、有ってたまるものか。くるくると思考を巡らせ考え込むものの、しかし答えが出て来る訳も無し。

其の様がやけに滑稽に見えるし乃雪、嬉しそうに笑い始めた姿がやはり美しく、しかし故に腹が立つ。やがてぱんと膝を叩き、源三郎は痺れ切らした様に立ち上がった。

 

「…嗚呼、面倒だ!

し乃雪よ、見に行こうぜ!!」

「遅いよ、源の字」

「何だと、」

「俺は其の為にこうして着替えを終わらせたのさ。さあ早う、着替えろよ」

 

にこにこ笑いながらふらふらと振り袖を揺らす姿が、憎たらしい。

 

分かったよ、嗚呼分かった。頷きながらも寝間着を脱ぎ捨て、しかし思う。

この天人とも見紛う美しき太夫…確かに、自分をも惹きつける不思議な香り。

しかし、其の中身が余りに予測出来ず、気付けば先回りされ、からかわれている。ほら、今も。

今後暫く、この男に振り回されなければならぬのか…そう思った刹那、どっと胸に疲れが伸し掛かった気がしたが。

 

「……しかし、お前は面白い野郎だな」

 

皮肉か本音か、自身でも分からぬ其の言葉に、し乃雪は只ふわりと微笑んだ。紛う事無く、其の笑みは恋う男へと向ける女の笑みで、しかし源三郎は思わず顔を背けてしまった。

し乃雪が恋うは俺ならず、彼の身の回りにて起こる怪異の方。目を向けられた自分はよもや其の一部か……其処にぞくりと恐怖を感じた故である。

 

「まっこと恐ろしきは妖にあらず、な……」

「何か言うたか源、」

「さてね、」

 

この太夫との付き合いは、一体何時まで続くのやら……。小さく溜息を漏らし、しかし飽きの来ないこの男に興味を抱いている己が居る事も又事実。

 

― 一度(男と知らず)惚れた奴だ……

 

「仕方無ぇ。とことん付き合うてやるか、」

「付き合う気があるなればほれ、早う」

「……」

 

― ……この野郎。

 

其の一言を着流しの中にそっと隠し、源三郎が漸く立ち上がった時、し乃雪の顔が玩具を貰った子供の様にぱっと華咲いたのは言うまでも無い。

 

 

 

衾幽霊 完


 
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