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シンデレラの網膜記憶~魔法都市香港にようこそ 2

記憶と幻想の境目に位置する香港。まさに深海に漂う魔法の都市で、息子が消息不明になった。母親のモエは漆黒の九龍城砦に飛び込んで、得体のしれない深海生物と息子の足取りを追う。やがて息子の足跡から見え隠れするシンデレラを発見。はたして彼女は、モエを息子の居場所に導いてくれるのだろうか。
2019年6月11日に誕生した我が家の未来『泰正』の誕生記念作品です。

2020-05-06 22:00:08 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:435   閲覧ユーザー数:435

〈香港街景〉

 

「ところで…ミス・エライザ」

 

 PMQのレストランをあとにしたふたりは、士丹頓街(スタントン ストリート)の緩やかな坂を下っている。いまのふたりは、PMQに入る前とはちがって、肩をならべて歩いていた。

 

「どうぞ…エラって呼んでください」

「ああ、それでは…エラ」

 

 タイセイはエラが大事に抱えているスケッチブックを見ながら言った。

 

「君は絵を描くことが本当に好きなんだね」

 

 エラが恥ずかしそうに、スケッチブックを背中に隠す。

 

「ちょっと見せてもらってもいいかな?」

 

 最初は渋ったものの、再三のタイセイのお願いに根負けして、エラはスケッチブックを彼に差し出した。

 

 

 タイセイは学生時代から、理系一筋で育ってきた男だ。一般教養としての美術史とそれぞれの時代にちらばる代表的な作品と作者は知識として知ってはいたが、実際に作品を前にしてその芸術性を見分ける目や耳があるはずはなかった。しかし、エラのスケッチブックに描かれた絵に、彼は少なからぬ興味を覚えた。

 それは、一ページに一つの風景や作品が描かれているのではなく、エラの目に映ったものやことが、まるで切り取られた写真のコラージュのように、ページ一杯に散らばっているのだ。

 スケッチブックに見入るタイセイを黙って許していたエラだったが、ついに恥ずかしさに耐え切れず言い訳っぽく口を開く。

 

「目に映ったものを、ただ描きちらしているだけですから…」

 

 タイセイは、エラの作品から顔をあげると、目を輝かせて彼女に話し始めた。

 

「パッチワークってあるでしょ」

「パッチワーク?」

「ええ、使い古しの布を集めて、縫い合わせるやつです」

「それが…?」

「縫い合わせた布の柄は、それぞれまったく関連性はないのだけれど、出来上がってみると、それでひとつのアート作品になっている…そんな、絵ですよね」

 

 タイセイはあらためてスケッチブックの絵に見入りながら言った。

 

「ぼくは絵のことはよくわからないのですが…なんか凄くいいような…そんな、評しか言えない自分が情けないのですが…」

「そんなに見ないでください…恥ずかしいです…」

「今更ながら…さっきエラをアーティストだって紹介したことに、間違いはなかったと安心しました」

 

 エラはついに恥ずかしさに耐え切れずスケッチブックをタイセイから奪い返した。

 

「いえそんな…私は出稼ぎのメイド、アーティストってわけじゃないですよ」

 

 照れくさいのか、早足になったエラを、笑いながら追うタイセイ。やがて、ふたりは閑静な高級住宅街、ミッドレベル・セントラルに佇む白亜のカトリック教会にたどり着いた。

 

 エラは無言で胸の前でクロスを切り、膝を曲げてこうべを垂れた。敬虔なクリスチャンであるフィリピーナであるからこその、自然なしぐさであった。

 

「ちょっと入ってみましょうか」

 

 タイセイが気軽にエラを誘った。

 

 そこは、天主教聖母無原罪主教座堂(Cathedral of the Immaculate Conception)。長さ83メートル、幅40メートル。白く輝くゴシック・リヴァイヴァル建築のその教会は、最大千名を収容できる大聖堂である。

 ゴシックの特徴的な柱に支えられた高い天井。その天井窓から差し込む光は、間接光となってやわらかく室内や祭壇を浮き上がらせる。派手なステンドグラスなどなく、室内に溢れる光があくまでも白いことが、この空間の荘厳さを際立たせている。

 アジアと言えども、長年キリスト教文化の国に統治された香港の教会である。さすがにその空間には、歴史的な重みがあるとタイセイは感じていた。

 

 エラが祭壇の前のイスにひざまずくと祈り始めた。

 クリスチャンでもないタイセイは、隣のイスに座って、手持無沙汰にそんなエラの姿を眺めていた。

 ようやく長い祈りを終えたエラに、タイセイは話しかけた。

 

「ひとつ聞いてもいいいかな…」

「なんです」

「そのスケッチブックに描かれている絵の中で…」

「また絵の話しですか」

「いや…気になったことがあって…」

 

タイセイがエラのスケッチブックに視線を送った。

 

「同じような人物が何回も出てくるんだけど…誰?シルエットから察するに、多分女性だと思うんだけど…」

「ああ、この絵ですね…これは私のマリア様ですよ」

 

 エラはタイセイの問いに答えるのに重ねて、祭壇上のイエス・キリストを見上げた。

 

「でも…なんで顔がぼやけているの?」

 

 繰り返されるタイセイの問いに、答えていいかどうか戸惑っていたエラだったが、覚悟を決めたのかゆっくりと語り始めた。

 

 

「実はわたし、小さい頃に目を怪我して…その怪我が原因で両目とも見えなくなったのです。でも突然私のマリア様が…」

 

 エラは胸の前で手を握ると、感謝の祈りをはじめる。タイセイは、突然口をつぐみ祈りはじめた彼女に戸惑ったが、仕方なくその姿を見つめながら話の続きを待った。

 祈りが終わったエラは、ようやくその顔を上げて口を開いた。

 

「マリア様が現れて、わたしの眼に奇跡を起こしてくれました。目が見えるようになったのです。ただ…どうしてもそのお顔が思い出せなくて…」

「エラがいくつの時の話しなの?」

「確か…6歳か7歳の頃です」

「そんな昔のこと…覚えてなくて当然ですよ」

「いえ、見えなかった目が、見えるようになって…、その時はじめて目に映ったのがマリア様なのですから、忘れるはずありません」

「治ったばかりの時だから、人物の認識は出来ても、顔の細部は焦点が合わずボケていたのかもしれませんね」

「そうでしょうか…」

「うーん、顔だけ記憶がないのか…」

 

タイセイはにやにやしながら言葉を続ける。

 

「本当に不思議ですね。エラの網膜記憶は、脳の命令がなくても体を動かせるくらい強力なのにね」

「意地悪言わないでください…」

 

 顔を赤らめながら、エラはスケッチブックに手を伸ばすと、ページをパラパラめくった。

 

「何日かたって、入院していた病院のベッドで目が覚めると、マリア様がいなくなった代わりに枕元に小さなスケッチブックと色鉛筆がありました」

 

 マリーはスケッチブックに描いたマリア様の像を指でなぜながら、話を続ける。

 

「あとで看護師さんから、それはマリア様が残したプレゼントなのだと聞きました。それ以来、目に映るものをスケッチブックに描くことが楽しくて…」

「なるほど…」

 

 術後、ともすれば自らの目を雑に扱う子どもの患者さんへ、適度な角膜運動を促すために、スケッチブックを与えるなんて…。このドクターには並々ならぬ臨床のセンスを感じる。タイセイはもし自分が臨床の道を選んでいたら、こんな芸当を思いつくことができるだろうかと感心した。

 

 すると、エラがキリストを見つめていた澄んだ目を、いきなりタイセイに向けた。その黒真珠のように輝く瞳に見つめられて、タイセイの鼓動がなぜか高まる。

 

 

「ところが…ドクター・コウケツ」

「ちょっと待ったエラ。もう友達なのだから、君も僕をタイセイって呼んでくださいよ」

 

 社会的地位の高いドクター相手に、そんな呼び方していいのか、躊躇するエラであったが、話したい欲求が勝ったのであろう、彼女は言葉をつづけた。

 

「実はタイセイ…今朝…そのマリア様に出会えた気がしたんです」

「どこで」

「中環(セントラル)で…」

「それで?」

「はい…マリア様だと思って思わず抱きついたら…タイセイでした…」

「ちょっと待ってよ。マリア様って女性だろ。僕は男だよ」

「ええ…よく考えればその通りなのですが…」

「同じ眼科医だから、錯覚したんだよ」

「いえ、いくら錯覚したといっても、男と女の区別くらいつきます。とにかくタイセイの姿が目に映った瞬間、頭で考える暇もなく体が動いちゃって」

「ああ…それで、あの網膜記憶の話しに飛びついたんだ」

「ええ…」

「なるほどね…そういうことですか…」

 

 自分がエラのマリア様に思えた理由が知りたいから、後を付けてきたのか…。自分の男性的な魅力をわずかながら意識していた彼のプライドが、少しばかり擦りむけてヒリついた感じがした。

 

 そんな気持ちから出たのか、彼の小さなため息をエラは聞き逃さなかった。自分は何かまずいことを言ってしまったのであろうか。彼の横顔を心配そうに伺うエラ。

 やがて、タイセイも自分が不可解な振る舞いをしていることに気が付いた。そうだ、エラが自分についてきた理由を聞いて、なんで気落ちする必要があるのだろうか。別な理由を期待していたのであろうか。

 

「それで?」

 

 タイセイも気を取り直して、笑顔でエラに問いかける。

 

「それで、なぞは解けましたか?」

「いえ…なぞは深まるばかりです…」

 

 エラは力なく視線を落とす。

 タイセイはエラのスケッチブックを取とると、やおら立ち上がった。

 

「エラ、そんなことはもうどうでもいいじゃないですか」

 

 タイセイの鼻息の荒さに驚くエラに構うことなく、彼は言葉を続ける。

 

「…さあ、もっとたくさん美しいもの、楽しいものを見に行こうよ。そしてスケッチブックをいっぱいにしましょう」

 

 タイセイは彼女の手を引いて、教会を飛び出していった。

 

 

〈九龍城砦〉

 

 調査が始まってから、2時間。

 手持無沙汰になっていたモエは、小松鼠にあやとりを教えていると、あの男が現れた。男は、ドラゴンヘッドの耳元でなにやらつぶやくと、ドラゴンヘッドは小さくうなずく。

 調査の進展があったのか。モエは固唾をのんでドラゴンヘッドの言葉を待った。

 

「10日前…確かにあんたの息子は香港の市内観光をしていたようだな」

「なっ、なにかわかったの」

 

 せき込むモエを押しとどめて、ドラゴンヘッドが言葉をつづける。

 

「中環(セントラル)駅の広場で、あんたの息子を見たものがいる」

「それで…」

「德輔道中を西へ移動して、荷李活道(ハリウッドロード) の店で時計を買ったらしい」

「それから…」

「PMQのレストランで食事をして…どうも、街歩きを楽しんでいたようだな」

「ああ…あの子、小さい時から、ひとりで街をぶらぶらするのが好きだったから…」

「だが…ひとりじゃなかったらしい」

「えっ、どういうこと」

「連れがいた」

「一緒に学会に参加した仲間かしら」

「あんたの息子は結婚しているのか?」

「一度結婚はしたことはあるけど、虫の好かない嫁でね…すぐ離婚したわ。あの子が私にした唯一の親孝行ね。で…なんで?」

「連れは女性らしい」

「あら、誰か日本から連れてきたのかしら…付き合っている女(ひと)はいなかったと思うけど…」

「日本人じゃない」

「まあなんてことでしょう… 海外で女遊びするような子じゃないんだけど…それからどうなったの、行った場所わかったの?」

「そう慌てるな」

 

 

 入れ込むモエを楽しむかのように、ドラゴンヘッドはゆっくりとキセルにたばこを詰めると、煙の中に我が身を漂わせるかの如くゆっくりとキセルを吹かした。

 

「今、その後の足取りを追わせているが…」

 

 ドラゴンヘッドはモエの顔を正面で見つめながら、言葉を止めた。

 

「どうしたの」

「いや…この仕事を続けるには…あんたもわしらもそれなりの覚悟が必要になりそうだ」

「どういうこと」

「厄介なな奴らの顔が見え始めた」

「この香港であなたたち以上に厄介な人たちがいるのかしら」

 

 ドラゴンヘッドはモエの皮肉にも反載せず、話し続ける。

 

「あんたの息子さんの街歩きを尾行しているやつがいてね…それが中国人民解放軍総参謀部第二部の連中だとわかった」

「誰それ」

「いわゆる中国のCIA(Central Intelligence Agency/中央情報局)みたいなものさ」

「えええっ!」

「いくら日本総領事館が依頼しても、香港警察の捜索が遅々として進まない理由がなんとなくわかってきたよ…」

 

 ドラゴンヘッドの言葉に、モエは腕組みをして考え込んでしまった。

 

「いずれにしろだな…」

 

 ドラゴンヘッドがずる賢そうな目でモエの思考を中断させる。

 

「本土の役人が絡んでいるとなると、かなり危険だ」

「なによ…おじけづいて仕事を放り投げる気」

「いや、わしらが一番嫌うのは、わしらのシマで、本土の奴らに好き勝手されることなんだよ。しかしな…」

「しかし…なに」

「必要経費がもっと必要になる」

「なによ、ここにきて値段を吊り上げるのは、フェアじゃないわよ」

「いや…死人が出てもおかしくない仕事だってわかったのだから、危険手当を要求するのは当然だろう」

 

 ドラゴンヘッドが平然と放つ言葉に、モエは背筋が寒くなる思いがした。彼女は息子もこの仕事に関わる人も、誰も死んでは欲しくない。

 

「それとも、もしあんたがもうここでやめて欲しいというなら、話は別だが…」

 

 ドラゴンヘッドは意地悪な顔で彼女に問いかけた。

 

「ドラゴンヘッドさんに会うとなった時から、とっくに覚悟はできているわよ」

 

モエは背筋を伸ばして毅然と言い返す。

 

「ますます頼れるのはドラゴンヘッドさんだけって状況なのだから…ドラゴンヘッドさんの仲間も、誰も死ぬことなく、生きた息子に再会できると信じているわ」

 

なにが相手であろうと、ここでやめるわけにはいかないのだ。

 

 

 

〈香港街景〉

 

 天主教聖母無原罪主教座堂(Cathedral of the Immaculate Conception)を出たエラとタイセイは、中環(セントラル)駅に戻ると、地下鉄MTR荃湾(Tsuen Wan)線で旺角(Mong Kok)駅へ。香港島から九龍へと渡った。

 

 ふたりは、花園街で、中華文化色満載のカラフルなTシャツ、シャツ、セーター、パンツ、コート、イブニングドレス、ネグリジェ、子供服、アクセサリー、雑貨、靴、タオル、シーツ、カーテン、古着、下着・・・などなどに首まで埋もれてはしゃぎまわった。

 花園街からすぐ西隣の道へと歩みを進めると、そこは通菜街。通称金魚街といわれている人気スポットだ。

華やかな色彩をまとう大勢の金魚たち。それが、ビニール袋に入れられて、店の軒先一杯に吊るされている。エラが驚きの声を発した。

 

「なんて金魚ショップが多いんでしょう…綺麗ですけどびっくり」

「ああ、いかに多くの香港人が金魚を飼っているのかがよくわかるね」

「そういえば、私の働いている家でも金魚が泳いでいるわ」

「香港では自宅だけでなくオフィスでも、玄関を入るといきなり巨大な水槽がおいてあったりするらしいね」

「単なる家の飾りとは思えない…なにか意味があるのかしら…縁起がいいとか…」

「金魚がお金を呼ぶと思われているんだよ…だから」

 

 しかし、タイセイの解説も最後まで耳に届く間もなく、さっそくスケッチを始めるエラ。夢中になるあまり、いつまでたっても動く気配がない。しばらくそんなエラを眺めていたタイセイだったが、いよいよ我慢の限界。

 

「エラ、金魚たちのスケッチはここまで。次へ行くぞ」

「あっ、まって…もうすこし…」

 

 タイセイは路上に座り込むエラを無理やり担ぎ上げて、地下鉄に乗せ、尖沙咀站(Tsim Sha Tsui Station)へ。

 

 今度は、ザ・ペニンシュラ香港(香港半島酒店)の入口へ到着。だが、エラは風呂を嫌がる猫同然に、街灯にしがみついて離れない。

 

「どうして?…たくさん美しいもの、楽しいものを見たいのだろ?ここのザ・ロビー(The Lobby)で、クラシック音楽の生演奏をバックでいただくアフタヌーン・ティーは、最高らしいよ」

「だからと言って…私だって一応女です…女はTPOを大切にする生き物なのです」

 

 動くもんかと、さらに歯を食いしばって街灯にしがみつくエラ。

 

「どういうこと?」

「今の私の恰好では…このホテルに入ることなんて、到底できません」

 

 憮然とするエラ。

 

「なぁんだ、そういうこと…」

 

 タイセイはホテルを諦めて、エラを道向かいのそごうデパート・ロンシャンショップへ(Longchamp - SOGO Ladies TST)へ導く。

 

 ロンシャンのパリプレタポルテを前にして、タイセイは、気に入ったものを選んでとエラに言う。しかし、こんな店に来たこともない彼女は驚きのあまりフリーズするしかない。 仕方がないので、タイセイ自ら指示を出し、片っ端から試着させた。ザ・ペニンシュラ香港でアフタヌーン・ティーする女性にふさわしい服とは…。

 

 それから30分後、ザ・ペニンシュラ香港のザ・ロビーに、クラシカルなイスに腰を掛けているエラの姿を見ることができた。

 エラは初めて足を踏み入れた環境に茫然としているものの、その身にはタイセイのセンスで選んだドレス(ノースリーブのワンピース)とおしゃれなサンダルをまとっていた。

もともとフィリピーナは足が細い。多少肌の色がブラウンでも、痩身で上背のあるエラには、パリのプレタポルテが良く似合った。

 

 ティーセットやスイーツがテーブルに運ばれてくると、ようやく我に返ったエラはティーポットを優雅に扱って、タイセイにお茶をサーブした。

 

 

 メイドとして働くエラには、テーブルワークはお手の物だ。しかし、今の彼女の指先からは、普段の仕事を超えた、言うに言われぬ女性の美と気品が感じられた。それは、いくらパリのプレタポルテに身を包んだからと言って得られるものではないだろうに。

 タイセイはそんなものを感じるのは、老舗ホテルの歴史が作り出した魔界さながらの環境で、たっぷり妖気に浸かってしまった影響だろうと勝手に解釈していた。

 ここは、1928年12月11日の開業以来、90年の永い間、数々の人生の喜怒哀楽の舞台となった、ザ・ペニンシュラ香港のロビーなのだから…。

 

「ティーカップに紅茶を入れることが、そんなに珍しいのですか?」

 

 自分を見つめるタイセイの視線に、照れたエラが言った。

 

「あっ、いや…エラがさ…妙にこのホテルに馴染んでいるなって思って…」

「そんなことありませんよ」

「いや、そうして背筋を伸ばしてサーブしている姿なんて、まんまこのホテルを長年贔屓にしている宿泊客だよ」

「冗談でしょ」

 

 エラは照れくさそうに、額に落ちてきた髪を、その細い指で耳の裏にすき上げる。

 

「タイセイが私に魔法をかけてくれなければ、こんなホテルには入れませんよ。実は…今日初めてこのホテルの門をくぐったのです。さっきから、心は落ち着かなくてドキドキです」

「そうか…なら、記念なんだから、ヘアやメイクにも手を加えたらよかったかもしれないね」

 

 エラはサーブの手を止めて、真顔でタイセイに訴える。

 

「私にこれ以上の魔法はかけないでください。魔法に頼って美しくなった王女は、魔法が解けた時には決まってお婆さんになってしまうって…だいたいおとぎ話しはそういう結末でしょ…私、ホテルを出る時が怖いです」

 

 胸に手をあてて祈り始めたエラの純真さに、タイセイも自然と顔がほころぶ。

 

「はは、…大丈夫だよ。魔法を使わなくても、エラは十分美しいよ」

 

 エラの胸が小さくキュンと鳴った。『今、私を美しいって言ったの?』彼女は顔が赤く上気するのを誤魔化すために、いそいそとお茶のサーブを再開した。

 

 一方、タイセイは自分の口から出た言葉に驚いていた。こんな歯が浮くようなセリフを女性に吐いたのは初めてだ。彼は驚きと後悔に目を伏せて、ティーカップを口に運ぶ。

二人の間に気まずい沈黙が流れた。我慢できずに、今度はエラが口を開いた。

 

「タイセイは、女性に魔法をかけるのが得意なのですか?」

「いや…女性からそんなこと言われたのは初めてだよ。女性の気持ちが全くわからない唐変木だとはよく言われるけどね…」

 

 エラは、すねた小さな子どもを見る優しい目で、彼を見つめて言った。

 

「そうね…確かにタイセイは女性の気持ちが本当にわからない唐変木ね…」

「えっ?なんかエラの気分を害するようなこと言ったかな?」

 

 しかし、エラの口からは答えの言葉は出てこなかった。

いつの時代も、女性にとって魔法とは、ときめきの世界へ導く入口なのだ。魔法にかけられた女性は、そこで出会う人やモノに心を躍らせ、どうして平静でいられようか。案の定、エラは目の前の男にも、ときめきを感じ始めている自分が怖かった。本来明日いなくなるような男が、女性に魔法をかけるべきではなかったのだ。

 心に重い施錠をかけながら、エラはせっせとタイセイのカップに紅茶を注いだ。沈黙する彼女に戸惑い、彼は周りを見渡しながら話題を変えることにした。

 

「まいったな。エラに比べて、このホテルに自分こそふさわしくないような気がしてきたよ」

「なぜ」

「自分の服装やしぐさに、エラのような優雅さがみじんも感じられないから…」

「そんなことないですよ」

「いや、このジャケットだって地味でくたびれているし…」

 

 確かにタイセイは、今まで自分の外見など気にするタイプの男ではなかった。なのになぜエラを前にして、いまさら自分の身なりが気になるのだろうか。それは今まで味わったことのない羞恥なのだ。

 

「では、今度は私が魔法をかけてあげます」

 

 エラはスケッチブックから、まだ描いていない真っ白な紙を引きちぎると、器用に折りたたみ、タイセイの胸ポケットに差し込んだ。

 

「これで、タイセイはエリザベス王女の前に出てもおかしくない、紳士になったわ」

 

チーフに見立てて、エラが差し込んだ紙の白が、確かにタイセイのジャケットのモスグリーンを鮮やかに際立てる。

 

「ティーをご一緒できるなんて、光栄でございます。女王様」

 

顔に満面の笑みを広げながら、大業なしぐさで礼をするタイセイ。なんてかわいい笑顔なの…。心にかけた施錠が砕けそうになったエラは、あわてて視線をそらす。礼を返すのも忘れてせわしくティーカップを口に運ぶ作業を続けた。

 

 

 アフタヌーン・ティーを飲み終わると、二人はザ・ペニンシュラ香港を出て、アベニュー・オブ・スターズ(星光大道)へ。

 

 ここは、「香港映画の父」と呼ばれ、1913年に香港初の長編映画「荘子試妻」の監督を務めたライ・マンワイに始まり、ジャッキー・チェンやチョウ・ユンファといった最近の国際的スーパースターに至るまでの、100年を超える香港映画の歴史をたどることができる楽しい通りだ。

 ブルース・リー、アニタ・ムイ、マグダル、などの各像が配置されている場所では、対岸の高層ビル群を背景に、観光客が像のポーズをまねて記念写真を撮る姿が多く見られる。

 

 御多分に漏れず、タイセイもなじみ深いスターの前でポーズするが、その姿を早速エラがスケッチし始める。ロンシャンのワンピースを着て、眼帯をしながらも熱心にスケッチするエラの姿は、周りの観光客の目を引いた。それなりに人も集まってきてしまったので、恥ずかしくなったタイセイは、ポーズを解く。

 

「あん、もう少しで終わるから、動かないでください」

「…といわれても…」

 

 頭を掻きながらエラに近づき、スケッチを覗き込んで彼女に話しかけた。

 

「ところでさ、エラ…映画はよく観に行くのかい」

「今は忙しくてなかなか行けないけど…昔は、何度か母につれられて映画館に行ったわ」

「そう…ぼくも映画館の雰囲気が好きでね…よく映画を見にいったよ。ある時期なんて毎週観に行っていたな…」

「私の家はお母さんが働いていて忙しかったし、お金もなかったから…三カ月に一回ぐらいだけど、とても楽しかった」

「ふーん…うらやましいな」

 

 そう言ったきり、タイセイが黙り込んでしまったので、エラもスケッチの手を止めて、彼を見た。

 

「何がうらやましいの?3か月に1回しか行けない私より、毎週のように行けるタイセイの方がよっぽどうらやましいわ」

「僕の場合…観に行く時はほとんどひとりだった」

「友達とか彼女といかなかったの?」

「そんなに友達が多い方じゃなかったし…ましてや彼女なんて…」

「ご両親とは観に行かなかったの」

 

 夕日も沈みかかる香港の街の空を見上げながら、タイセイはぽつぽつと話し始めた。

 

「うちは、父も母も医者で…とても忙しい人たちだったから…一緒に行った記憶はないな」

 

 香港のビル群に沈む夕日を見つめる目が、寂しそうにその最後の光を反射させた。

 

「…父は遠いところで難しい手術ばかりしていたし、母は患者さんの目ばかり診ていた。それも毎日ね…」

 

 そう語るタイセイの眼の中に、今度は憤りの閃光が走るのを、エラは見逃さなかった。

 

「家族を放っておいて、他人の目ばかり診ている母親なんて…。きっと家族を愛することよりも、患者さんから尊敬されることの方が大切だったんだね。結局それで、父を亡くす結果になったのだから、母にとっては自業自得だよ」

「たった一人のお母さんなのに…ひどいこというわね。タイセイらしくない」

「らしくないって…今日会ったエラに、自分のどこがわかるのさ」

 

 タイセイの言い草に、エラが悲しい瞳で見つめ返してくる。

 タイセイは即座に後悔した。しまった、言い過ぎた…。彼は自分の失言を挽回するかのように、笑顔でエラの手を取った。

 

「さあ、ここはこれくらいにして、次の場所へ移動しよう。次は、Star Ferry Pier(天星碼頭)だよ」

 

 

 今度タイセイがエラを誘ったのは、シンフォニーオブライツ・ハーバー・クルーズ。ふたりは尖沙咀から19:55発のスターフェリーに乗船した。

 

 シンフォニーオブライツとは、ギネスブックにも世界最大と認定された、港湾の街を背景とした光と音のショーである。このクルーズでは、そのショーを、香港の象徴であるスターフェリーからじっくりパノラマで堪能できる。漆黒の夜空と、ビル群を照らすライトやレーザーの美しい演出は圧巻であり、まるでひとつひとつのビルが生きて歌っているかのようだ。

 エラは、スケッチをすることも忘れ、すっかりこのシンフォニーオブライツの虜になっていた。

 一方タイセイはきらめくビル群への関心は薄いようだった。どうも彼が虜になっていたのは、都市に施された美しい演出よりも、ライトを反射するエラの潤んだ瞳のようだった。

 

 ザ・ペニンシュラ香港での時もそうだが、エラと会ってからというもの、美しいという意味が、今まで自分が使っていた意味と全く別の意味で感じられるのはなぜだろうか。

 かつて、妻であった女性も、それなりに美しい女性ではあった。しかし、目の前にいるエラは、それと同じ意味での美しさではまったくなかった。「美しい」という言葉は実に多様なものを表現する形容詞であることを、いまさらながら理解できたタイセイであった。

 ロンシャンのワンピースを華麗に着こなして、スターフェリーの木製のベンチに優雅に腰かけているエラ。その外見から、中環(セントラル)の公園で、デニム姿で抱きついてきたエラとは別人のようだと、人はいうかもしれない。

しかし、彼は12時間彼女ともに過ごして気付いた。彼女はロンシャンであろうと、デニムであろうと、変わることもなく、人をやさしくするオーラをいつも発光している。それはきっと、一度光を失ったエラが、再び光を取り戻した奇跡を心から感謝するとともに、その感謝を周りの人たちにおすそ分けする無欲で純粋な生き様が、きっと彼に伝わってくるからなのだろう。このやさしいオーラこそ、エラの美しさなのだ。

そして世の中には数多くの美しいものがあるが、今目の前にしている美しさほど、自分に好ましいものはないのだと、心に思うタイセイであった。

 

彼女が夜空から視線を戻し、微笑みながら彼の瞳を見つめ返してきた。

タイセイは、はっとした。自分はどんな顔をしてエラを見つめているのだろうか。出会ったばかりの女性に対して、はなはだ不謹慎な表情をしていたのではないだろうか。

 

「クルーズのサービスについている軽食をもらってくるよ」

 

一生に出会えるか出会えないかの運命の女性を目の前にしていたのにもかかわらず、その女性から逃げるように、席を立ってカウンターへ向かうタイセイ。

カウンターでチケットに印鑑を押され、パイナップルケーキとクッキー、そしてミネラルウォーターのペットボトルを手にして戻った頃には、タイセイも多少冷静な自分を取り戻していた。

 

やがて、1時間のクルーズも終わり、Star Ferry Pier(天星碼頭)へ戻ると、二人は肩を並べて彌敦道(ネイザンロード)を北上し、iSQUARE(アイスクエア)へ。タイセイは、このショッピングモールの30階にあるルーフトップバー『Eye Bar』へと、エラをエスコートしていった。

 

 ここは、香港の100万ドルの夜景を堪能出来るおしゃれなルーフトップバーで、それなりにお値段は張るものの、カップルには随喜のナイトスポットである。

 絶景の夜景を眺めながらも、エラはもうスケッチブックを開くことはなかった。夜景もそっちのけでタイセイを相手に、おシャベリに余念がない。家族のこと、自分のこと。思いつくままにタイセイに話す。タイセイの前では、口から先に生まれた女性らしく振舞えるのはなぜだろう。エラは、しゃべりながらもそんなことを感じていた。一方タイセイは、もっぱら聞き役で、夜景とエラを交互に見ながら、それぞれの美しさを堪能していたのである。

 

 

 エラがこれまで、どんな環境でどんな人生を歩んだのか知っても、タイセイがエラに感じる美のオーラはなにも変わらなかった。エラの話で、彼女が今は独り身であることを知った。そのことで、なぜか嬉しくなっている自分を感じたが、そんな気分になるのも不謹慎だと自分に言い聞かせ、彼はせわしなくグラスを取って口に運ぶ。

 

「ところで…タイセイは公園で、私の目を治してくれたでしょ」

「いや、治すって程じゃないけど…」

「いつも、あんな病院で使うようなお薬とかガーゼとか持って歩くの」

「まあね…僕と同じ目のドクターである母から、うるさく言われてね…」

「へぇ…立派なお母さん。ならば、お母さんのお陰でわたしは助かったのね」

「患者さんにとっては立派かも知れないけど…」

「おやおや…また、お母さんをけなすのですか」

 

 もう同じ失敗はしたくない。今度は失言しまいと彼は口をつぐんだ。

 

「タイセイは困ったときは、いつもそんな顔をするんですね」

「顔って?」

「口をとがらせて…頬を膨らませて…」

 

 そんなことは誰にも言われたことがない。自分にそんな癖があったのかと驚いたが、たった12時間ではあるが、癖を指摘するほど自分に関心を持っていてくれていたのかと嬉しくもあった。

 

「人を愛そうとしない人は、愛されていることにも気づかないものですよ」

 

 いきなりのエラの言葉は、タイセイの胸にグサッと刺さった。

 タイセイだって女性を好きになったことはある。ただ、あらためてその女性を『愛していたのか』と問われると、胸を張ってそうだと言える自信もない。

 

「まってよ。僕だって恋愛経験ぐらいあるよ」

「そうですか…言い過ぎたわ。ごめんなさいね」

 

 しかし、エラはなんとなくわかるきがした。この人は本当に人を愛することに臆病で、それができなかったのだろう。だから…自分が母から愛されていることもわからないのだと…。

 

 いきなりエラのスマートフォンのアラームが鳴った。

 

「いけない」

 

 あわててスケッチブックを抱えて立ち上がるエラ。

 

「いきなり、どうしたの」

「終電の時間だわ」

 

 タイセイが腕時計を見ると、カシオの表示は深夜の0時30分を表示していた。

 

「遅くまで付き合わせてしまってごめん。タクシーで送っていくよ」

 

 いや、いつまでもタイセイと一緒に居たくて、帰ると言い出さなかったのは自分だ。できるなら、このまま夜明けを見るのも厭わなかったが、実際これ以上彼と一緒に居たら、自分にかけられた魔法が呪いとなって、自分を一生苦しめるにきまっている。

 

「そんなことまでしなくていいの」

 

 エラは、彼の引力から逃れるようにルーフトップバーを出て、地下鉄へ向けて急いだ。タイセイも慌てて後を追う。

 香港MTR(Mass Transit Railway)尖沙咀駅。エラは、地下へ降りる階段の前で立ち止まると、タイセイを振り返った。

 

「ドクター…ドクターに抱きついてしまった謎は、いまだに不明ですけど…目を治してもらってから今日一日、私に魔法をかけてくれてありがとうございます。本当に楽しかったです。今日のことは一生忘れません」

 

 打って変わったエラのよそよそしい口調に、タイセイは寂しさを感じた。しかし、彼も自分の日常を取り戻そうとするかのように、エラの眼帯を取り目を診察して言った。

 

「もう眼帯を取っていいですよ。最初は焦点が合わせづらいかもしれないですけど、そのうちはっきり見えるようになりますから…」

 

 エラは笑顔でうなずいたが、眼帯を取った瞳は、少し潤んでいるようだった。

 

「おとぎ話では、魔法は魔法をかけた人しか解けないって…知っていました?」

「…どういうことかな」

「私に別れの呪文を言ってください。そうすれば、いやがおうでも魔法が解けて、もとの世界に戻れますから」

 

 そう言うエラの真剣な瞳に、タイセイの胸は締め付けられた。

 しばらくして、彼の口から絞り出すように声が漏れた。

 

「さようなら…エラ…元気で」

 

 彼女は、微笑みとも苦痛とも思えるような表情を浮かべると、片手を挙げて小さく振る。

 

「さようなら…ドクター…」

 

 エラはタイセイに背を向けると、湖に身を投げるように階段を駆け下りていった。

 

 こうして香港のシンデレラは、地下鉄の闇の中に消えたのだった。おとぎ話では、この後彼女が階段に残したガラスの靴を手掛かりに、王子が探しに行くのだが、香港のシンデレラは地下鉄の階段に、何か証拠を残すようなことはしなかった。

 だが本当に定められた男と女というものは、そんなものがなくてもまた巡りあう運命なのである。


 
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