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オレの愛しい王子様【第9話〜第15話】

瑞原唯子さん

幼なじみの男装令嬢に片思いする少年の話。

ずっと翼のそばにいて、翼を支える——。
幼いころ創真はひとりの少女とそう約束を交わした。
少女はいつしか麗しい男装で王子様と呼ばれるようになるが、

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2020-03-13 21:54:09 投稿 / 全8ページ    総閲覧数:762   閲覧ユーザー数:762

第8話 暴走のゆくえ

 

 東條の家をあとにして、創真と翼はいつものように並んで帰路につく。

 そのころにはもうすっかり夜の帳が降りていた。住宅街には家のあかりと街灯くらいしかないのでかなり暗く、ひっそりとしている。自分たちの足音だけがやけに響くような気がした。

 ふっ——ひそかについた小さな溜息は、白いもやになる。

 日中はそうでもなかったが、いまは厚手のダッフルコートを着ていてもぶるりと震えるくらいだ。きっと鼻も赤くなっている。けれど、それよりも心のほうがもっとずっと寒かったのかもしれない。

 

「すこし長居しすぎたかな」

 翼は夜空を仰ぎ、ふわりと白い息を吐きながら苦笑した。

 つられるように創真もちらりと見上げる。冬は空気がきれいで澄んでいるというが、星は見えず、月がどこにあるのかさえもわからない。ただ何もない闇が広がっているだけだった。

「そうだ、一応、家に連絡しておくか」

 赤信号で足を止めると、翼は思い立ったようにスマートフォンで電話をかけた。友人の家に行っていたからこれから帰る、あと二、三十分かかる、というようなことを使用人に伝えていた。

「創真は連絡しなくていいのか?」

「……別に大丈夫だろ」

 視線を向けられて、創真は思わず逃げるように顔をそむけてしまう。声音もひどく突き放したようなものになってしまった。

「…………」

 沈黙が落ち、すこし空気が変わったような気がした。

 下を向いているので翼がどんな顔をしているかはわからない。けれど、わずかに足を動かしてこちらに体を向けたのはわかった。ドクドクと痛いくらいに心臓が暴れるのを感じながら、創真は息を詰める。

「なあ、おまえどうしたんだよ」

「どうもしてない」

 ちょうどそのとき信号が青になり、とっさに逃げるように横断歩道へと足を踏み出したが、翼に手首を引かれてよろけながら戻るはめになった。それでも顔だけは頑なにそむける。

「こっち向けよ」

 苛立ち露わに、翼はギリッと力をこめて手首を握り込んだ。

 しかし創真が痛みに顔をゆがめたことに気付くとすぐに手を離し、代わりに両手で頬をはさんで自分のほうに向けさせた。そして息がふれあいそうなところまで顔を近づけて言葉を継ぐ。

「圭吾の家にいるときからおかしかったよな。ぶすくれたまま僕と目を合わせようとしない。話しかけてもろくに返事をしない。いったい何が気に入らないっていうんだ」

「……別に」

 創真は顔を固定されながらも必死に視線をそらした。あまりの近さにどきまぎする一方、心の奥底まで暴かれてしまいそうで恐ろしくもあった。だがこれくらいで逃がしてくれるほど翼は甘くない。

「こんな態度で別になんて言われて信じられるか。納得いく答えを聞くまで帰さない。今晩は雪も降るらしいし、このまま一晩中ここにいたら僕も創真も凍え死ぬかもな」

 そんなことを言い、挑みかけるように不敵に口元を上げる。

 こうなると翼はもう絶対に引かない。口先だけでなく本当にその覚悟でいるのだ。だからいつも創真のほうが折れるしかなく——目をそらしたまま、わずかに眉が寄るのを自覚しつつ口を開く。

「なんで……なんで、あいつを勉強に呼ぶんだよ」

「ん?」

 翼はきょとんとし、創真の頬から手を離して話し始める。

「構わないだろう。僕だって考えなしに呼んだわけじゃないぞ。圭吾は英語がネイティブレベルだし、英語以外の成績も悪くないし、なかなか将来有望だ。僕の補佐にすることも視野に入れている」

 補佐にする、だって——?

 確かに成績も悪くないというかむしろ良いほうだ。翼には及ばないものの創真よりはだいぶ上である。おまけに翼との相性もずいぶんといいようなので、考えてみれば当然のなりゆきかもしれない。

「でも、補佐はオレが……」

「もちろん創真には補佐として支えてもらうつもりでいるさ。お払い箱にするわけじゃないから心配するな。ただ、優秀で忠実な補佐がもうひとりふたりほしいんだ。わかるだろう?」

 わかりたくはなかったが、何となくわかってしまった。

 創真には補佐としての能力が足りないということだ。お払い箱にしないのは幼なじみゆえの温情かもしれない。その代わりに優秀な補佐を追加するというのなら、甘んじて受け入れべきだろうが——。

「まさかおまえ拗ねてるのか?」

「嫌なんだよ、翼の隣にオレじゃない誰かが立つのは!」

 鬱屈した本音がとうとう暴発した。

「翼の隣はオレだけに許された場所だと思ってた。翼がいろんなひとに愛想を振りまいても、翼の気持ちがオレになくても、翼の一番近くにいられるならそれでよかった。公私ともに唯一のパートナーになりたかった。なのに……!」

「…………」

 翼はしばらく考え込むような素振りを見せたあと、怪訝な面持ちで尋ねる。

「それは、僕と結婚したいってことか?」

「できればしたいさ! おまえは男と結婚する気なんかさらさらなさそうだし、無理だとは思ってるけど! 幼稚園のころからずっとおまえが好きだったんだ! おまえだけが好きだったんだ!」

 創真は半ばやけっぱちに思いの丈をぶつけた。

 やはりというか翼はまったく気付いていなかったらしい。驚愕しているような、信じがたそうな、困っているような、申し訳なさそうな、そんな複雑な表情を浮かべながら当惑を露わにする。

「すまない……気持ちはうれしいが、創真をそういう対象として見たことはなくて」

「やめろよ! そこらへんの女子の告白みたいに軽くあしらうなよ!」

 創真はいたたまれず叫んだ。

 傲慢かもしれないが、翼をアイドルか何かのように思っている女子とは違うのだ。断られるとわかっていながら思い出がほしくて告白する——そんな彼女たちと同じように扱われるのは我慢ならない。

「じゃあ、どうすればいいんだ!」

 翼は苛立って叫び返すが、どうすればいいかなんて創真にもわからなかった。言うつもりのなかった思いをうっかりぶちまけてしまっただけで、返事を望んでいたわけではないのだ。そもそもは——。

「オレとフェンシングで勝負しろ」

 創真は顔を上げ、緊張しながらも強気に翼を見据えてそう訴えた。翼は視線を絡めたままぴくりと眉だけを動かす。

「どういうことだ」

「オレが勝ったら東條を勉強に呼ぶのはやめてくれ」

 そもそもの望みはそれだった。

 将来的に東條を補佐にするのは仕方ないにしても、いまはまだ勉強に同席させてほしくない。せめて心の準備ができるまで待ってほしい。けれどわがままを言える立場でないことは重々承知していた。

「そんな勝負を受ける筋合いはないな」

「オレが負けたら二度と口をはさまない。勉強についても、補佐についても、結婚についても。好きだとか言って困らせたりもしない」

 それを聞いて、翼はゆっくりと目を伏せて静かに考え込んだ。やがて心を決めたように視線を上げると、ゆったりと尊大に腕を組みながら創真を見下ろす。

「いいだろう、その勝負を受けてやる」

 その挑発的な物言いに、創真はぞわりと総毛立つのを感じた。

 

 段取りは翼が整えた。

 実際に動いたのは翼に頼まれたフェンシング部の部長である。中学のときに同じフェンシング部でそれなりに親しくしていたからか、勝負のことを聞いて二つ返事で引き受けてくれたのだ。

 武器と防具は各自で用意し、放課後、フェンシング部の試合場と電気審判機を借りて行うことになった。審判などもフェンシング部から出してくれるという。顧問の許可もとってあるらしい。

「翼くーん、がんばってーー!!!」

「キャー、西園寺くーん!!!」

 誰が吹聴したのか二階のギャラリーは超満員だ。声援を送っているのは女子ばかりのようだが、なぜか男子もそこそこいる。教員までちらほらいる。まさかこんな見世物になるとは思いもしなかった。

 勝負の理由についても、ちょっとした諍いがあって決着をつけるために、と部長に話したらしいので、もしかしたら観衆にも知れ渡っているかもしれない。そうなると創真は完全アウェーである。

「種目はフルーレ。三分間三セット、十五ポイント先取で勝利。いいな?」

 試合のまえに、主審を務める部長がピストの傍らで確認する。

 創真も翼もいっそう真剣な顔つきになり首肯した。もうマスク以外は準備万端だ。互いに横目で視線をぶつけあい闘争心を露わにする。

「悪いが全力でいく」

「オレもだ」

 何ひとつ翼に及ばない自分が、唯一、互角に渡り合えるのがフェンシングだ。

 中学を卒業してからきのうまで一度も剣を握っていなかったが、感覚は忘れていなかった。体も思った以上に動く。翼も同じく卒業以来のはずなので互角かそれ以上に戦えるはずだ。

 絶対に、勝つ——。

 東條は何も知らず、ギャラリーのどこかでのんきに観戦しているのだろう。創真が勝てば勉強に参加できなくなるというのに。すこし同情するが、それこそが創真の望みなのだから勝つことに迷いはない。

 しっかりと背筋を伸ばして強い気持ちのままピストに入場し、準備を整える。そして主審の号令で対戦相手の翼に一礼すると、マスクを着用し、スタートラインに前足のつまさきをつけて構える。

 しかし、ここにきて異常なくらい鼓動が速くなってきた。汗がにじみ、喉が渇き、手足もかすかに震え出す。試合でもここまで緊張したことはないのに。正面の翼を見据えたままグッと剣を握る手に力をこめる。

「アレ!」

 緊迫して静まった場に、試合開始の号令が大きく響きわたった。

 

 クッ——。

 創真の突きはかわされ、直後、翼の素早い突きが肩に当たった。

 緑のランプがつき、ほどなくして電光掲示板の数字が十四から十五に変わる。

 二分三十二秒を残して試合は終了した。

 翼の勝ちだ。

 それもほぼダブルスコアで。

 創真は力なくマスクを取ってうなだれた。みっともないくらい息が上がり汗だくになっている。前半は気負いすぎて緊張したせいか体が思うように動かず、後半は焦りでミスが相次いだ。自爆といっていい。

 ギャラリーからは黄色い大歓声が沸き起こっていた。

 翼はすこし呼吸が荒いだけで試合前とあまり変わらないように見えた。栗色の髪もふわりとしたままだ。ただ、いつものように黄色い声に応えて笑顔を振りまくことはなく、創真だけを射貫くように見つめている。

 いたたまれず目をそらすが、選手として試合終了の挨拶をしないわけにはいかない。主審の号令で歩み寄り、わずかにうつむいたまま対戦相手の翼と握手を交わす。瞬間、その手をグッと痛いくらいに握り込まれた。

「約束は守れよ」

 ぞくりとする冷ややかな声。

 ぎこちなく頷くと、翼はすぐにひらりと身を翻して体育館をあとにする。最後まで振り返りもしないで。大勢のギャラリーのまんなかに取り残された創真は、ただ立ちつくすしかなかった。

 

 

第9話 積み重なる後悔

 

 ——今日からひとりで登校する。

 迷ったすえ、創真は必要最低限のことを記した端的なメッセージを翼に送った。

 かじかむ指先でアプリを閉じ、電源を落としてスマートフォンをスクールバッグに放り込む。そして白い息を吐きながら、チェック柄のマフラーをもぞりと口元まで引き上げると、寄りかかっていた自宅の塀から背中を離して歩き出した。

 

 きのう、フェンシング対決で負けてから翼と顔を合わせていない。

 ——今日は先に帰ってほしい。

 ——わかった。

 創真のひどく打ちのめされた気持ちを汲んでくれたのか、頭を冷やす時間が必要だと考えたのか、あるいは翼自身も顔を合わせる気になれなかったのか、不躾なメッセージひとつで了承してくれた。

 そして、頭が冷えて気がついた。

 フェンシング対決など持ちかけるべきではなかったと。あのときはそうするしかないと思いつめていたが、勝っても負けても元には戻れない。翼に想いを告げた時点でもう詰んでいたのだ——。

 

「おい、創真!」

 学校へ向かう途中、後ろから怒気をはらんだ声で名を呼ばれ、同時に痛いくらいの強さで肩をつかまれた。足は止めざるを得なかったが振り向きはしない。乱暴に肩を引かれて無理やり振り向かされても、顔だけはそむける。

「ひとりで登校するって何だ」

「…………」

 無視していると、両手で頬をはさまれてグイッと顔の向きを変えられた。目の前に翼の端整な顔が迫っている。ひどく険しい表情だが、それよりも近さにドキリとしてあわてて目をそらす。

「察しろよ。オレはおまえに惨めにふられて、惨めに負けたんだ」

 やけっぱちにそう言い放ったら、翼は無言のまま頬をはさんでいた手をゆっくりと下ろした。それでも射貫くような真剣なまなざしは変わらない。

「勉強には来るんだろうな?」

「もうおまえの隣にはいられない」

「は?」

 地を這うような声で聞き返された。

 思わずビクリとするが、それでも曖昧に目をそらしたまま何も答えない。呼吸さえためらうくらいに空気が張りつめていく。

「ずっと僕を支えてくれるんじゃなかったのか。そう約束しただろう」

「…………」

 できるならそうしたかった。

 告白も勝負もすべてなかったことにしてしまえば、表面的にはいままでどおりでいられるのかもしれない。翼はそのつもりのようだ。けれど、創真にとってそれはとてつもなく苦しくて惨めなことで——。

「見損なったぞ」

 いつまでも口をつぐんで目をそらしていれば、拒絶でしかない。

 翼はきつく睨みながらそう唾棄するように言い捨てると、怒りまかせに大きく身を翻して立ち去っていく。その後ろ姿はあっというまに遠ざかって小さくなり、やがて見えなくなった。

 

 その日から、翼は東條とふたりで行動するようになった。

 学校中さもありなんという空気だ。創真が何か逆鱗に触れるようなことをしでかしたので、フェンシング対決でこてんぱんにされたあげく捨てられた——そんなふうに見られているらしい。

 おかげでまわりからは腫れ物に触るような扱いをされている。無遠慮な視線を向けてひそひそとうわさ話をするくせに、誰も声はかけてこない。もっとも尋ねられたところで話せることはないのだが。

 それより翼と東條が親しくするさまを見るのがつらい。翼はまるで東條が唯一無二の親友であるかのように振る舞っているし、東條もいささか戸惑いながらも満更でもない感じだ。

 ただ、東條はときどき心配そうな目を創真に向けてくる。仲直りしなくていいのかと訴えるかのように。袂を分かつことになった原因や経緯については、おそらく知らされていないのだろう。

 もう仲直りとかいう段階ではないのだ。

 きっとあの朝が最後のチャンスだった。感情を殺してでも翼に従えばよかったのかもしれない。どれだけ苦しかろうが、惨めだろうが、翼と離れるよりはよほどましだったのではないか——。

 

「圭吾、今日これからうちに来られるか?」

 フェンシング対決から三日後。

 ひとり黙々と帰り支度をしていると、ふいに後ろの席からそんな声が聞こえてきて、創真は思わずドキリとしつつ耳をそばだてる。それを悟られないよう意識して手を動かしながら。

「え、まあ……いきなりどうしたんだ?」

「僕の勉強に同席するって言ってただろう」

「ああ、それか。こんな急だとは思わなかった」

「きのう親から許可をもらったんだよ」

「まだ何も準備してないけどいいのか?」

「身ひとつでくればいいさ」

 ふたりは席を立ち、なごやかに笑い合いながら教室をあとにした。

 いよいよ西園寺の後継者教育に東條が同席するようだ。当然のなりゆきだが、本当に現実になると思うとあらためてショックを受ける。自分にはもうそんな資格すらないというのに——。

 

 創真はひとりで帰路についた。

 空はどんよりとした鈍色で、吹きすさぶ風も今朝より一段と冷たくなっている気がする。ダッフルコートのポケットにかじかんだ手を突っ込み、ぐるぐる巻きのマフラーに顔半分うずめながら、赤信号を待つ。

「創真くん」

 ふいに凜とした声で呼びかけられた。

 振り向くと、腕が触れるか触れないかくらいのところに桔梗がいた。翼の姉だ。まわりに誰もいないところを見ると彼女もひとりらしい。創真はきまり悪さを感じながらおずおずと会釈をする。

「まだ翼と仲直りしていないのね」

 彼女はそう言い、うっすらと同情めいた笑みを浮かべた。

 同じ学校なのでフェンシング対決のことは知っているのだろう。だが、その原因や経緯までは知らないはずだ。創真はマフラーに顔半分うずめたまま曖昧に視線を落として、ぼそりと答える。

「もう愛想を尽かされたんです」

「それはどうかしら」

 桔梗は間髪を入れず疑問を呈した。

「あなたたちのあいだに何があったかは知らないけれど、あの子のことだからつまらない意地を張っているだけじゃないかしら。創真くんもご存知のとおり感情的なところがあるもの。きっとそのうち後悔すると思うわ」

「翼は、もう新しい補佐役を見つけてます……オレよりずっと優秀な……」

 自分は切り捨てられたのだ。

 翼の決めたことに私情で難癖をつけ、恋愛を持ち込み、あげく約束を反故にして逃げ出す——そんな面倒な人間をそばに置く理由はない。もともと目をつけていた東條に鞍替えするのは当然である。

「それなら私のところにおいでなさいな」

「えっ?」

 驚いて顔を上げると、桔梗はやわらかく創真を見つめて微笑んでいた。

「そろそろ将来に向けて信頼できるパートナーがほしいと思っていたところなの。創真くんのことは前々から買っていたからちょうどいいわ。私ならもっとあなたを大事にしてあげられるけど、どうかしら?」

 本気、じゃないよな——。

 創真のことを買っていたなど元気づけるための方便としか思えない。桔梗が将来どうするつもりで何のパートナーを求めているのかはわからないが、何の取り柄もない人間をほしがりはしないはずだ。

 しかし、これで創真が乗り気になったらどうするつもりなのだろう。もしかしたら末席くらいには置いてくれるのかもしれない。彼女は自分の言ったことには責任を持つタイプのように思う。ただ——。

「すみません……これ以上、翼に嫌われたくないので」

 それが創真のまぎれもない本心だった。

 桔梗のもとへ行けば、翼は間違いなく当てつけだと憤慨するだろうし、創真を嫌うどころか憎むようにもなりかねない。それだけは避けたかった。たとえもう二度と隣に立つことができないのだとしても。

「そう、残念ね」

 まるで本当にそう思っているかのような寂しげな表情で、桔梗は言う。

「気が変わったらいつでもいらっしゃい」

「はい……」

 社交辞令だろうと思いつつも、何となく申し訳なさと気まずさを感じてしまい、もぞりとマフラーにうずもれるようにしてうつむく。彼女も黙ったままである。寒風の吹きすさぶ乾いた音だけしか聞こえてこない。

 正面の信号は、どうしてだかなかなか青にならなかった。

 

 

第10話 クリスマス

 

 その日は、二学期の終業式の日だった。

 午前中に学校が終わり、創真は誰とも名残を惜しむことなく学校をあとにする。

 もうひとりで登下校することにはだいぶ慣れた。その道すがら翼を見かけても、意識しない素振りはできるようになったつもりだ。もともと表情が乏しいほうなのでそう難しいことではない。

 あっ——。

 校門を出て信号待ちをしていると、チラチラと雪が舞っていることに気がついた。

 折りたたみ傘は持っているが差すほどでもない。ポケットに手をつっこんだまま鈍色の空を見上げ、舞い落ちてくる雪をぼんやりと眺める。ホワイトクリスマスという言葉がふと頭に浮かんだ。

 そう、今日はクリスマスなのだ。

 いつもイヴまではケーキだのサンタだので日本中が浮かれた空気になるが、当日になるとすこし落ち着く。今日も気のせいか静かで、どことなくあたたかな余韻のようなものも感じていた。

 もっとも創真の心は寒々としたままである。翼とクリスマスケーキを食べるという恒例行事さえ叶わない。自分から離れたのだが、なりゆきでこうなっただけで心から望んだわけではないのだ。

 ふう、と白い溜息が口からこぼれ、同時に信号が青に変わった。

 いつのまにか隣にいた赤い傘を差した女性がすっと歩き出し、つられるように創真も足を踏み出す。そのときふと思い立ち、横断歩道を渡ってすぐのところにある中型書店に寄っていくことにした。

 ダッフルコートの雪をはらってマフラーを外し、暖かい店内に入る。

 学習参考書のコーナーには誰もいなかった。冬休みのあいだに苦手な英語を勉強したくてここに来たのだが、意外と種類がある。すこし立ち読みしただけではどれがいいかわかりそうにない。

 いつも翼に勧められたものを買ってたし——。

 翼が何を基準に判断しているのかはわからないが、何箇所か目にしただけで、これがわかりやすいとか創真に合っているとか勧めてくれたのだ。それが間違っていると感じたことは一度もない。

 軽く溜息をつき、手にしていた参考書を閉じて平台に戻す。

 そのとき隣の平台に並べられた見覚えのある表紙が目にとまった。東條の家に行ったあのときに翼が借りたファンタジー小説だ。苦い記憶がよみがえり、動きを止めたまま思わず眉をひそめたが——。

 

「ありがとうございましたー」

 財布をスクールバッグにしまうと、女性店員から差し出された萌葱色の手提げポリ袋を受け取ってレジをあとにする。

 買ってしまった——。

 ずっしりとした重みを手に感じながら、何をやってるんだろうとあきれたような気持ちになる。有名な作品なのでもともとタイトルは知っていたが、読もうと思ったことなんて一度もなかったのに。まして原書など自分の英語力では読むことさえ難しいのに。

 深く溜息をつき、無意識に視線を落としながら二つの自動ドアをくぐって外に出る。しかしそのとき、うつむいていたせいで向かいからひとが来ていたことに気付かず、肩がぶつかってよろけてしまった。

「す、すみません」

「……創真?」

 ハッとして顔を上げると、そこには驚いた表情でこちらを見ている翼がいた。

 鼓動がドクンと強く打つ。名前を呼ばれることも、見つめられることも、ずいぶんと久しぶりのように感じた。頭の中がまっしろになり、時間が止まったかのようにただじっと目を見合わせる。

 先に我にかえったのは翼だった。何とも言えない気まずげな面持ちになりながら、斜め下に視線を落とす。そのときほんのわずかに目を見開いたかと思うと、ふっとやわらかく笑う。

「それ、興味があったのか」

「えっ?」

 最初は何のことだかわからなくてきょとんとしたが、翼の視線をたどってギョッとする。そこにあったのは萌葱色の手提げポリ袋で、あろうことか件の表紙がうっすらと透けていたのだ。

「あ、いや、これは……違っ……」

 しどろもどろになりながら、あわてて後ろに隠す。

 そのときすぐ横をすり抜けるようにして男性客が出て行った。邪魔だと言わんばかりに横目で睨みながら。出入り口を半分ふさぐ形で立ち止まっていたのだから致し方ない。

「出よう」

 そう促され、断ることもできず一緒に歩道へ出た。

 外はあいかわらずふわふわとした雪がちらついていた。吐く息もほんのりと白い。むきだしの首筋がひどく寒いが、のんきにマフラーを取り出せるような雰囲気ではない。

「こっちだ」

 なぜか帰路とは反対のほうへ誘導される。

 黙って従うものの、翼がどういうつもりなのかさっぱりわからない。フェンシング対決以降、普通に話をすることさえなくなっていたのに、いまになって何をしようというのだろうか——。

 ほどなくして翼は足を止めた。出入り口から二十メートルほど離れた街路樹の陰になるところだ。同じ高校の生徒に見られたくないのかもしれない。もっともあまり隠れられてはいないけれど。

「すまない。申し訳なかった」

「えっ?」

「告白してくれたときも、フェンシング対決のときも、そのあともずっとひどい態度をとってしまった。意固地になっていたというのもあるが、きちんと向き合うだけの勇気がなかったんだと思う」

 創真は驚き、あわててふるふると首を振った。

「悪いのはオレのほうだ。そもそも全部オレが言い出したことだし……」

 幼なじみからいきなり告白されたら戸惑うのも当然だし、フェンシング対決も翼が望んだことではないし、そのあとも創真が先にひどい態度で拒絶してしまった。どう考えてもこちらに非がある。

 それなのに翼に先に謝らせてしまうなんてあまりに申し訳ない。もう愛想を尽かされたものとばかり思っていたので、ただただ後悔するばかりで、謝罪ということにまで思考が及ばなかったのだ。

「僕は……」

 ひそやかに切り出されたその声で、顔を上げる。

 翼はこころなしか緊張した面持ちで目を伏せていた。それきりなかなか言葉を継ぐことができずにいたが、気持ちを落ち着けるようにゆっくりと呼吸をして、あらためて仕切り直す。

「僕は、小さいころからずっと綾音ちゃんが好きだったんだ」

「ぁ……ああ……」

 まさか翼から話してくれるとは思いもしなかった。突然のことにどう反応すればいいかわからず、無表情のまま固まる。それを目にして翼は怪訝そうに眉をひそめた。

「もっと驚くかと思っていたんだが」

「なんとなくそんな気がしてたし」

「そんなにわかりやすかったか?」

「いや、オレはいつも一緒にいたから」

「そうか……」

 本当は創真だけでなく綾音本人もとっくに気付いているのだが、勝手に教えるわけにはいかない。若干の後ろめたさを感じて曖昧に目を泳がせていると——。

「僕は、戸籍も体も女だ」

 ふいに公然の秘密が紡がれた。

 ドクリと鼓動が跳ねる。翼自身の口からそれを聞いたのは幼稚園のとき以来である。表情からは少なくない緊張が見てとれるが、それを感じさせないくらい冷静な口ぶりで語っていく。

「だから綾音ちゃんとの将来を望むわけにはいかない。それなら最初から想いは告げないでおこう。幼なじみのままでいよう。そう決めている。綾音ちゃんのためにも自分のためにも」

 やはり、と創真はひそかに納得した。

 翼は一呼吸おいて続ける。

「僕自身の結婚についてはなるべく考えないようにしていた。両親にもどういうつもりなのか聞けなかった。怖かったんだ。後継者に求められる役割のひとつにうすうす気付いていたし」

「役割?」

 そう聞き返すと、翼はうっすらと困ったような笑みを浮かべた。どこか言いづらそうにしながらもごまかさずに答える。

「次の後継者だ」

「あっ」

 言われてみればあたりまえのことだった。

 でも子供がいないなら一族から選ぶとかすればいいのでは、とも思ったが、翼をわざわざ男にしてまで後継者に据えようとしているのだから、西園寺は直系にこだわっているのかもしれない。

 だとすれば確かに翼も結婚して子供をもうける必要がある。しかし、後継者となるために男として生きることを強いられたはずなのに、その役割を果たすときだけ女に戻れというのだろうか。

 それではあまりにも勝手すぎる。翼のことを西園寺のための道具としか見ていないのではないか。そもそも男として生きることを強要した時点でそうなのだが、さらに女としての役割までだなんて——。

「それなのにいきなりおまえに結婚したいとか言われてさ。冷静ではいられなかったよ」

「それは……悪かった……」

 翼はあくまで冗談めかした口調だったが、それでもどう詫びればいいかわからず消え入るように口ごもる。知らなかったとはいえ、心の繊細なところに土足で踏み込んでしまったのだから。

「でも、あれからよく考えてみたんだ」

 うつむいていると、翼がこころなしか緊張したような声でそう切り出した。

「どうせどこかの誰かと結婚しなければならないのなら、創真でいい……創真がいいんじゃないかって。気心も知れているし。両親もそのつもりで勉強に同席させていたような気がする」

「…………」

 結婚? オレと——?

 突然、信じがたいことを言われて理解が追いつかない。現実とは思えない。夢でも見ているのではないかという気持ちだ。呆然としていると、翼はわずかに目を伏せてふっと笑みを浮かべた。

「父も母も創真のことは気に入ってるからな。創真が勉強に来なくなって母はずいぶん残念がっていたし、父にはきちんと話し合ってみろと諭された。本当に創真を失ってもいいのかと何度も言われたよ」

 そう言うと、すっと表情を引きしめて真剣な瞳を創真に向ける。

「僕は、やっぱり創真に隣にいてほしいんだ」

 創真は息をのむ。

 それは創真が何よりも望んでいた言葉だ。結婚の話には今ひとつ現実味を感じられずにいたが、この言葉はすんなりと受け入れられた。じわじわと奥底から熱いものがこみ上げてくる。

「オレ、なんかで……いいのか……?」

「ほかに何人か信頼できる補佐役がほしいとはいまも思っている。だけどいちばん近くにいてほしいのは創真だ。恋愛感情は正直ないが、すべてをさらしてもいいと思える相手はおまえだけなんだ。だから……」

 ガラガラガラ——。

 いつのまにか歩道に横付けされていた黒いバンの扉が、派手な音を立てて開いた。翼は何だろうという顔をして振り向きかけたが、それより早く、バンから目出し帽の男が飛び出してきて何かを首筋に押し当てる。

「うっ……!」

 バチッと音がして翼が膝から崩れ落ちた。

 一瞬の出来事で、創真は何が起こったのかにわかに理解できなかった。けれども翼がぐったりとしたまま横抱きにされたのを見て、ハッと我にかえる。

「翼!!!」

 スクールバッグを放り出し、翼をバンに連れ込む大柄の男を引き戻そうとする。

 しかし、逆に創真のほうが引きずり込まれてしまった。薄汚れたマットに倒れ込むなり首筋に硬いものが押し当てられる。

「うぁっ!」

 バチッと音がして激痛が全身を駆けめぐり、創真の意識は途切れた。

 彼らは何者なのか、目的は何なのか、翼をどうするつもりなのか、何ひとつとしてわからないまま——。

 

 

第11話 女

 

「おい、いいかげん目を覚ませ」

 臀部を蹴られ、その痛みで創真は意識を取りもどした。

 どうやら朽ちた事務室のようなところに転がされているようだ。ライトグレーのタイルは砂や埃などで汚れており、壁はひび割れ、スチール製のロッカーは変形してところどころ錆びている。

 ガシャッ——。

 体を起こそうとして、両手が何かで拘束されているらしいことに気がついた。硬いものが手首に当たって痛い。背中側なので見えないが、おそらく手錠をかけられているのではないかと思う。

 そうだ、本屋のまえでいきなり黒いバンの男に襲われて……翼は?!

 ハッとして身をよじりあたりを見まわす。

 翼はそこから数メートルほど離れたところに立っていた。目出し帽をかぶった大柄の男に二の腕をつかまれ、そしてやはり背中側で両手を拘束されているようだ。創真と目が合うとふっと自嘲めいた笑みを浮かべる。

「すまないな、巻き込んでしまって」

「オレはいいからおまえだけでも逃げろ!」

「おっと、そうはいかないぜ」

 ふいに後ろからヒヤリとしたものが首筋に押し当てられた。状況と感触から考えて、ナイフのような小型の刃物で間違いないだろう。そのまま首根をひっぱり上げるようにして立たせられる。

「逃げたらこいつを切るぞ」

 そう言い、男はいったん刃先を翼に向けてから押し当てなおした。ちょうど頸動脈のあたりだ。切られたらきっと助からない。あらためてその冷たい刃を意識してぞくりと背筋が震えた。

「……おまえたちの目的は何だ」

 翼は眉をひそめ、自分の腕をつかんでいる男に横目を流して問いかける。

 男は目出し帽をかぶっているせいで顔の大半が隠れていたが、ふっと鼻先で笑ったのはわかった。さらに目つきをいやらしくして翼の耳元に顔を寄せていく。

「安心しろ。おとなしく従えば命までは取らないさ」

 ねっとりとそう言うと、ポケットから小さな鍵を取り出して翼の手錠を外した。そして乱暴に腕を引き、よろけた翼の鼻先に素早くサバイバルナイフを突きつける。

「脱げ」

 ドスのきいた声で命じ、空いているほうの手でスマートフォンを構えた。

 この状況を目にすれば、目的はともかく何をするつもりかはおおよそ察しがつく。本当は女だということも知っているに違いない。

「従うな!!!」

 創真は声のかぎりに叫んだ。

 翼が驚いたように振り向き、目出し帽の男もサバイバルナイフを握ったままチラリとこちらを一瞥する。直後、背後の男が苛立たしげに舌打ちして首筋のナイフにグッと力をこめた。

「おい黙れ」

「オレに構わず逃げろ!」

「このクソガキがっ!」

「ぐっ……!」

 首筋に鋭い痛みが走り、生ぬるいものがぬるりと伝い落ちていくのを感じる。さっそく切られてしまったことに少なからず驚いたが、いまのところ動脈にまでは達していないようだ。

「創真!!」

 しかし翼はこれまでにないくらい青ざめていた。

 その様子に、目出し帽の男はあからさまなくらい満足げに目を細め、あらためてサバイバルナイフを構えなおして警告する。

「下手な真似をするとオトモダチが死ぬことになる。その男はかなり短気だぞ」

「…………」

 覚悟を決めたのか、翼はすっと凜々しく背筋を伸ばしてコートを脱ぎ捨てた。ばさりと床に落ちて白い埃が舞い上がる。その様子を、目出し帽の男はスマートフォンを掲げて動画撮影していた。

 くそっ——!

 創真はくやしさに奥歯を食いしめる。

 きっと翼ひとりだったらどうにかして逃げられた。創真がついてきたばかりに足枷になってしまったのだ。いっそ見捨ててほしかったが、翼にそんな真似はできないだろうこともわかっていた。

 そのあいだにも翼はためらうことなくブレザーを脱ぎ捨て、ネクタイを外してシャツも脱ぎ捨て、靴も靴下もスラックスも脱ぎ捨てた。コートの上に次から次へと衣服が積み重なっていく。

「下着も全部だ」

 男は顎をしゃくり、ひとつ残らず脱ぐように促した。

 言われるまでもなくわかっていたのだろう。翼は表情を変えることなく長袖インナーを脱ぎ捨て、胸を目立たなくするコルセットも外し、最後の一枚となったボクサーパンツも淡々と脱いだ。

「これで満足か?」

 一糸まとわぬ姿のまま、凜然と男を見据えてボクサーパンツを落としながら言う。

 本当に、女だったんだ——。

 あまりにも場違いな感想が創真の頭に浮かんだ。

 もちろん女であることは知っていたし、疑ってもいなかったが、普段は性別など意識していないので実感がなかった。女だとか男だとかいうのは関係なく、翼だから好きになったのだ。

 だがいまは否が応でも意識させられてしまう。白くすべらかな肌、やわらかそうな胸、なめらかにくびれた腰——全体的に肉付きが薄くてすらりとしているが、それでも十分に女だった。

「まさかこれで終わりだなんて思ってるんじゃないだろうな」

 その嘲笑まじりの声を耳にして現実に引き戻された。

 視線を移すと、目出し帽の男はスマートフォンを構えて動画撮影をつづけていた。そのまま翼のほうに大きく一歩近づいて、あらためてサバイバルナイフを突きつけなおし、顎をしゃくる。

「服の上にでも寝てもらおうか」

「…………」

 翼は眉をひそめて鋭い目つきで睨んだ。

 しかし男は愉快そうにせせら笑う。

「いまだに泣きもせず震えもせず強気な顔を見せるとはさすがだな。この気高い西園寺の王子様を、俺がいまからオンナにしてやるんだと思うとゾクゾクするぜ。声が嗄れるまでよがらせてやるよ」

「やめろッ!!!」

 創真はカッとして飛び出しかけるが、背後の男にがっちりと二の腕をつかまれていたせいで叶わなかった。必死に振り払おうとしてもびくともしない。はずみでナイフが食い込んで再びぬるりとしたものが首筋を伝っていく。

「創真、落ち着け」

 冷静にたしなめるその声で創真はようやく我にかえり、もがくのをやめた。しかし落ち着けるわけがない。砕けそうなほどギリギリと奥歯を食いしめていると、翼がぎこちなくもしたたかな笑みを向けてきた。

 まだ、翼は絶望していない——。

 そう確信して創真はすこしだけ冷静になれた。

 背後の男は苦々しげにチッと舌打ちすると、血に濡れたナイフを首筋から喉元のほうに移して、いまにも掻き切らんばかりに刃を立てて押しつける。

「さっさと言うとおりにしねぇと本当に殺すぞ」

「わかった」

 翼はすぐさま積み重なった服の上で仰向けになり、手足を投げ出した。

 目出し帽の男はニヤリとして腰元の鞘にサバイバルナイフを突っ込むと、翼をまたいで片方の膝をついた。空いたほうの手をねっとりと肌に這わせながら、上から下まで舐めるように撮影していく。翼は顔色も変えずじっと口を引きむすんでいたが——。

「いつまで我慢できるか見物だな」

「っ……!」

 無骨な手がうっすらと色づいた胸の頂をなぶると、大きく息を詰めた。

 その反応に男は気をよくしたように喉奥でクッと笑い、容赦なく攻め立て始めた。それでも翼は耐えていた。顔をそむけてしまったのでもう表情は見えないが、体をこわばらせているのはわかる。

「そろそろ喘いでもらおうか」

 男はにやついた声でそう言いながら膝裏を持ち上げる。

 クソッ——創真は見ていられずギュッと目をつむって顔をそむけるが、背後の男は凝視しているらしく、思いきり前のめりになりながらごくりと生唾を飲んでいた。

「うっ……ぁ……っ……」

 生々しい音がして、やがて抑えきれない声が漏れ始める。

 背後の男はますます興奮してハアハアと呼吸を荒くした。濡れた生ぬるい息が創真の頭頂部にかかる。吐きそうなくらい気持ち悪くて、殺したいくらい腹立たしくて、頭が沸騰しそうだ。

 オレは何をすればいい、何をすれば——。

 気がおかしくなりつつも必死に思案をめぐらせていると、創真の腕をつかんでいた手がふいに離れた。喉元のナイフも浮いている。どうやらポケットか何かをごそごそと探っているようだ。

 そっと視線を前に向ける。目出し帽の男はちょうど翼の脚から手を離したところのようで、膝立ちのまま体を起こし、舌なめずりをしながらズボンのファスナーを下ろそうとしていた。

 いましかない——!

 創真は後ろを一瞥し、男の顎に狙いを定めて全力で頭突きを食らわせた。

 あまりの痛さに涙がにじんだが構ってはいられない。後ろ手にかけられた手錠のせいでよろめきながらも、すぐに数歩離れて身構える。しかし男は気絶したのか受け身もとらずにのけぞって倒れた。

「ぐあっ!!!」

 つぶれた悲鳴に振り向くと、膝立ちになった男の急所を翼が仰向けのまま蹴り上げていた。即座に反対の膝で横っ面を蹴り飛ばし、倒れた男の腰元からサバイバルナイフを奪って突きつける。まるでフェンシングのような美しい構えで。

「この下衆が」

 埃にまみれて悶え苦しむ男を見下ろしながら、吐き捨てるように言う。

 その姿は崇高なまでに美しかった。すらりと引き締まった一糸まとわぬ後ろ姿、しなやかな姿勢、気品を失わない凜々しい横顔——創真は自分が置かれた状況も忘れて陶然と見とれていた。

 

 

第12話 首謀者

 

「無事か、創真」

 翼は横たわった男にサバイバルナイフを突きつけたまま、ちらりと振り返った。大丈夫だと創真が答えると、安堵したようにほっと息をついていたが、すぐさま表情を引きしめて男のほうに向きなおる。

「動くなよ」

 そう告げて、目出し帽をはぎ取った。

 やはり見覚えはなかったようだ。急所を攻撃されて憔悴したのかぐったりとしていて生気がなく、鼻と口からは流血し、それが目出し帽でこすれてけっこう悲惨な見た目になっている。

 翼はボディチェックをして武器類とともに手錠を没収し、それを男にかけた。さらにズボンをふくらはぎまで下ろして簡易的な足枷にする。裾はブーツの中に入っているので簡単には脱げないだろう。

 一通り拘束を終えると、小さな棒状の鍵を手にして創真のほうにやってきた。いまだ一糸まとわぬ姿のままだが気にする様子もなく、ひそかにドキドキしている創真の背後にまわりこみ、手錠を外した。

「オレも何か手伝うよ」

「じゃあ、そいつを拘束してくれ」

「わかった」

 翼から手錠を受け取り、傍らで気絶している男を転がして背中側で手錠をかけると、仰向けにしてズボンをふくらはぎまで下ろす。そしてボディチェックをして武器になりそうなものを没収した。

 そのあいだに、翼は床に転がっていた男たちのスマートフォンを拾い集めていた。どちらも動画撮影中だったようだ。それを止めて、自動ロックがかからないようにスマートフォンの設定を変更する。

「持っていてくれ」

 ふいに顔を上げたかと思うと、そう言いながら二台とも創真に手渡してきた。そして自由になった手で創真の襟をめくり、ナイフでつけられた首筋の傷を確認すると、うっすらと顔をしかめる。

「すまなかった、おまえまで巻き込んでしまって」

「翼のせいじゃない。オレが考えなしにあいつらに飛びかかったせいで、車に連れ込まれたんだ。助けるどころかむしろオレがいたせいで脅されて……オレのせいで……」

 預かったスマートフォンを落とさないように気をつけながら、深くうつむく。自分の不甲斐なさがくやしくて静かに奥歯を食いしめていると——ぽん、と頭に優しく手を置かれた。

「いや、おまえの石頭のおかげで助かったよ」

 顔を上げると、翼はやわらかく目を細めて笑みをたたえていた。

 それが許されることなのかどうかはわからないけれど、その言葉で、その笑顔で、創真はほんのすこしだけ気持ちが楽になるのを感じた。

 

 そのあと翼はようやく制服を身につけた。

 埃だらけの床だったものの、制服や下着はコートのうえに重ねて落としていたため、さほど汚れていなかった。ただ、コートだけは簡単には落ちないくらい白くなっている。あとでクリーニングに出すしかないだろう。

「創真、スマホを」

「あ、ああ」

 曖昧に視線をさまよわせていたところ、ふいに声をかけられて、あわてて預かっていたスマートフォンを渡しに行く。翼は一台だけ手に取ると、地図アプリを立ち上げて現在地を確認してから電話をかけた。

「翼だ。創真とともに見知らぬ男二人に拉致監禁されたが、男たちはもう制圧した……ああ、ふたりとも無事だが創真がすこし首を切られている……いや、頸動脈までは至っていないし、出血はもう止まりかけているから心配するな。手当ての用意をして迎えにきてくれ。場所は——」

 さきほど調べた住所をよどみなく告げて、通話を切る。

「すぐに車で来てくれる。二十分くらいだ」

「よかった……」

 話し方からすると、翼が電話した相手は家族ではなく使用人のようだ。そのほうが冷静に対応してもらえると思ったのかもしれない。両親にはきっと使用人のほうから報告が行くのだろう。

 翼はスマートフォンを持ったまま流血した男のほうへ向かうと、躊躇なく革靴で股間を踏みつけた。グァ、と男はつぶれた声を上げて苦悶に顔をゆがめるが、上半身をよじるのが精一杯で逃れることはできない。

「目的は何だ」

「……金だ」

 脂汗をにじませながら苦しげな声で答える。

 それでもまだ翼のまなざしは冷たく凍てついていた。股間を踏んだままの足にもう一度グッと力をこめる。男は悲鳴を上げて涙目になった。

「洗いざらい吐け」

「……うぅ……や、闇サイトの掲示板に載っていた高額の依頼に飛びついた。成功報酬百万。西園寺の男装令嬢を陵辱して動画に撮ってこいって……相手とはメールでやりとりしただけで会ってないし、名前も知らん。報酬を取りっぱぐれても西園寺を脅せば金になると思った」

 翼はすぐに男のスマートフォンでメールを確認する。

 創真も横からそれを覗いた。確かに男の言ったとおりのやりとりが残っていた。動画と引き換えに報酬を受け取ることになっているようだ。その際には直接会うことで話がまとまっている。

「誰だ……?」

 翼は眉をひそめてつぶやいた。

 しかし、すぐに気を取り直したように返信画面を開き、悩む様子もなく本文を入力していく。例の動画が用意できた、今日中に取引したい——と。

「おい、そんな勝手なこと……」

 おろおろする創真のことなど意にも介さず、さくっと送信する。

 もちろん翼のことだから考えなしにやったわけではないと思うが、さすがに独断でここまでやってしまうのはまずいような気がして、創真は顔を曇らせた。

 

 数分後、首謀者から了解との返事が届いた。

 本日二十一時に宮前公園で——取引場所として指定されたのは、創真たちの通う桐山学園からそう遠くないところにある児童公園だった。ご丁寧に地図まで添付してあるので間違いない。

「敵は近くにいそうだな」

 ニッと挑みかけるように口元を上げる翼を見て、創真も頷く。

 こうなると翼と面識のある人物という可能性が高くなる。何となく西園寺グループを陥れるための犯行だと思っていたが、そうではないのかもしれない。嫌な予感にじわりと汗がにじむのを感じた。

 

「翼さま、翼さまっ?!」

 部屋の外から男性の必死な声が聞こえてきた。

 壁にもたれながら拘束した男たちを見張っていた翼は、すぐさまはじかれたように駆け出し、開いたままになっていた出入り口から廊下に顔を出す。

「こっちだ!」

 大きく手を上げると、まもなくあわただしい足音とともに使用人たちが入ってきた。男性二人と女性一人は黒いスーツだが、残りの男性四人はそれぞれ私服らしきカジュアルな格好をしている。

「翼さま、ご無事ですか」

「そう言っただろう」

 翼が軽く肩をすくめると、張りつめていた使用人たちに安堵の色が広がった。

 そのうちのひとり、大きめの鞄を肩から提げている黒いスーツの男性が、すこし離れたところから見ていた創真に気付くと、すすっと歩み寄ってきた。

「傷を拝見します」

「あ、はい」

 男性はそっと襟をめくって傷を見分する。

 一方、ほかの使用人たちは翼を守るように立ちながら、みっともない姿で転がされている男たちに注目していた。ひとりは気を失い、もうひとりは血で汚れた虚ろな顔でぐったりとしている。

「この男たちが犯人ですね」

「そうだ、首謀者はほかにいるようだが」

「話を聞かせていただけますか」

「ああ」

 翼は男たちのスマートフォンを証拠品だと言って手渡してから、これまでのことを説明し始める。まるで他人事のように——。

「傷を手当てしますので、こちらへ」

 聞き耳を立てていると、傷の見分を終えたスーツの男性に小声で促された。翼たちのほうが気になっていたものの、あまりわがままを言える立場でもないので、こくりと頷いて従う。

 連れてこられたのは、同じ階にある給湯室のようなところだった。

 そこで指示されるまま上半身の衣服を脱いでシンクに前屈みになると、ペットボトルの水を何本も使って念入りに傷口を洗浄されて、大きな白い絆創膏が貼られた。途中、何度か痛みにうめいてしまったが彼が気にした様子はない。

「応急処置ですので、早めに病院で診てもらってください」

「ありがとうございました」

 そう言って一礼し、寒さに震えながらそそくさと衣服に手を伸ばしたが。

 またこれを着るのか——。

 派手に血で染まったシャツを目にしてひそかに嘆息する。それでもこれしかないのだから仕方がない。せめて外から見えないようにとダッフルコートの前をすべて閉じた。

 

 部屋に戻ると、翼を含めて三人だけになっていた。

 実行犯もいないので、彼らをしかるべきところへ連行していったのかもしれない。残っているスーツの男性と女性は、どういうわけかそろって困惑したような顔をして翼を見ていた。

「お気持ちはわかりますが……」

「上手くいったんだからいいだろう」

「あまり先走られては困ります」

 おそらくなりすましメールで首謀者と会う約束を取り付けた件だ。

 やはりというか翼にはまったく反省の色が見られなかった。立場上、男性はあまり厳しいことを言えないのだろう。物言いたげな顔をしつつもあきらめたように溜息をつく。

「首謀者は我々が捕まえます」

「僕も行く。この目で確かめたい」

「……見るだけにしてください」

「わかっているさ」

 そこまで聞いて、創真は居ても立ってもいられず彼らのほうへ駆け出した。スーツの男性が振り向くとぺこりと頭を下げて直訴する。

「自分も連れて行ってもらえませんか?」

「では、翼さまが暴走なさらないよう見張っていてください」

「え……あ、はい……」

 戸惑いつつも、つい流されるように了承の返事をしてしまった。

 案の定、翼はいかにも面白くなさそうに口をとがらせている。創真がえらそうに翼を見張るなんて言うのだから無理もない。それでも使用人の手前だからか文句を言うことはなかった。

 

「翼っ!!!」

 西園寺邸に到着して玄関を開けると、邸宅内から東條が駆けてきて力いっぱい翼を抱きしめた。創真は唖然とし、翼も抵抗はしていないもののひどく混乱した顔をしている。

「圭吾……どうしてここに……?」

「翼が連れ去られたことを知らせに来たんだ」

「えっ?」

 東條はそこでようやく抱擁を解いて向かい合うと、説明を始めた。

 

 それは、東條が校門前で翼と別れたあとのこと。

 今日発売の雑誌を予約していたことをふと思い出し、引き返して例の本屋へ向かっていたところ、遠くのほうで『翼!』と叫ぶような声を耳にした。それも気のせいか創真の声に似ていて。

 無視できず、その声がしたと思われるほうへ行ってみると、二つのスクールバッグが無造作に転がっているのを見つけた。まさかと思ったが、中を確認したところ間違いなく翼と創真のもので。

 あわてて西園寺の家にふたりのスクールバッグを届けて、状況を説明した。そのまま護衛チームが捜索を始めたのを見守っていると、翼から電話がかかってきて——ということらしい。

 

「なるほど、だから到着が早かったのか」

 翼は得心したようにつぶやく。

 言われてみれば確かに早かった。翼からの電話を受けたときにはすでに動き始めていたので、あれほどの人数が、あれほどの短時間で、それなりの準備をして迎えに来られたというわけだ。

「助かったよ、ありがとう」

「たまたまだけどな」

 東條は満更でもないような顔で謙遜した。

 そのとき——おそらく会話が一段落するタイミングを見計らっていたのだろう。護衛チームのひとりであるスーツの女性がすすっと翼に近づいて、気遣わしげに声をかける。

「翼さま、まずは入浴なさってくださいませ」

「そうだな……創真にもシャワーを貸してやってくれ。着替えもな」

「承知しました」

 女性が一礼すると、翼はじゃあなと声をかけてから屋敷の中へ入っていく。ここへ来てもなお一切つらそうな顔は見せない。創真は何も言えず、ただじっとその背中を見送ることしかできなかった。

 

「翼はまだなのか?」

 バスルームで汚れを落としたあと、待ち構えていた使用人に案内されるまま応接室に入ると、東條がソファでひとりくつろいで紅茶を飲んでいた。創真の問いかけに彼はティーカップを置きながら答える。

「母親のところに顔を見せに行くって。翼が連れ去られたって聞いてショックで倒れたみたいで、もう大丈夫だけど大事をとって安静にしてるらしい」

「ああ……」

 母親の瞳子はあまり体が丈夫とはいえず、精神的にも脆いところがあるので、ショックで倒れたというのも納得のいく話だった。翼を跡取りとして溺愛しているのでなおさらだろう。

 そのまま空いている二人掛けソファにゆったりと腰を下ろして、何気なく視線を上げると、向かいの東條が面白がるような顔をしていることに気がついた。思わずムッとして口をとがらせる。

「言いたいことがあるなら言えよ」

「いや、それ着てる諫早くんがちょっとかわいいなと思って」

「は……?」

 貸してもらった翼の服が似合っていない自覚はある。

 ざっくりとした白タートルネックにデニムパンツというシンプルなものだが、何せサイズが合わない。袖口からは指先しか出ていないし、デニムパンツの裾もだいぶ折り返してあるのだ。

 だからといってそんなふうにからかわれるとは思わなかった。とっさに言い返せなかったことがくやしくて、せめてもの腹いせに思いきり眉をひそめて睨むものの、彼は悪びれもせずに笑っている。

「失礼します」

 まもなく創真にも紅茶が出された。

 そういえば朝からずっと飲まず食わずだったなと気がつくと、急に空腹を感じた。東條にからかわれたことなどもうどうでもよくなり、さっそく紅茶を飲んで、お茶請けとして出されていたフィナンシェを食べ始める。

「諫早くんも大変だったな」

「ん……」

 ふいにいたわるような言葉をかけられて、フィナンシェを口いっぱいに頬張ったまま曖昧に頷いた。まだ湯気が立ち上っている紅茶をすこし飲んでから言葉を継ぐ。

「でもまあ翼が無事だったし」

「怪我とかしなかったのか?」

「翼はな」

 彼の反応からすると、やはり翼がどんな目に遭ったかまでは聞いていないのだろう。

 当然、創真も話すつもりはない。護衛チームには翼自身がすべて話して動画も見せたようだが、本当は誰にも知られたくなかったはずだ。あのとき自分が見聞きしたことは墓まで持っていこうと決めている。

「ん、じゃあ諫早くんは……?」

「ナイフですこし首を切られた」

「えっ?!」

 驚く東條に、創真はタートルネックをグイッと引っぱり、白い絆創膏が貼ってあるあたりを見せる。シャワーを浴びたあとに新しく貼り直してもらったので、血がにじんだりはしていないはずだ。

「たいしたことはないけどな」

「いやでもかなり大きいんじゃ」

「深くはないし」

 そう受け流し、新しいフィナンシェに手を伸ばすと袋を開けてかぶりつく。東條の痛ましげなまなざしには気付かないふりをした。

 

「なかなか似合ってるじゃないか」

 扉が開き、すぐに笑いまじりの声が聞こえてきた。

 創真はムッとして飲みかけのティーカップを置きながら振り向く。思ったとおり翼は面白がるような顔をしていたが、それよりも手に持っている薄汚れたスクールバッグが気になった。

「それオレの?」

「ああ、念のため中を確認しておけ」

「わかった」

 受け取ってファスナーを開けるが、学生証も財布もスマートフォンも何ひとつなくなっていなかった。買ったばかりの書籍もきれいなまま入れられている。

「大丈夫みたいだ」

 そう答えると、翼は軽く頷いて創真の隣に腰を下ろした。

「ご両親にはこちらのほうから今日のことを説明して、謝罪もした。僕のことにおまえを巻き込んで怪我させてしまったからな。お母さんがずいぶん心配していたそうだから電話してやれよ」

「ああ……すまなかった……」

 翼には何の非もないが、創真が巻き込まれて怪我をしたのは客観的事実なので、西園寺としては謝罪しないわけにいかないのだろう。むしろ創真のほうが足枷になって申し訳ない気持ちなのに。

「傷の具合はどうだ?」

 うつむいていると、翼が隣から覗き込むようにして尋ねてきた。

 創真はタートルネックの上からそっと手を当てて答える。

「痛みはあるけど、まあ」

「今夜は行けそうか?」

「そのくらい全然平気だ」

 首謀者と会うといっても、陰からこっそりと見るだけなので傷に障ることはない。翼が暴走したら止めてほしいと言われているが、護衛チームが行くのならそんなことにはならないだろう。

「今夜って何かあるのか?」

 向かいで聞いていた東條が興味を示す。

 彼がここにいることを失念していた。部外者に教えるのはまずいのではないかという創真の心配をよそに、翼は不敵な笑みを浮かべながらソファの背もたれにゆっくりと身を預け、どこか得意げに話し始めた。

 

 ふっ、と創真の口から白い息がこぼれる。

 宵の口から一段と寒さが厳しくなり、本格的に雪も降り始め、明かりの少ない夜の公園でもわかるくらいにあたりは白くなっていた。隅の生垣に身を隠している三人にも容赦なく降り積もっていく。

 三人——そう、翼から話を聞いて東條もついてきてしまったのだ。もちろん護衛チームの許可を得たうえで。面白がっているのではなく、首謀者を目にする翼の精神面を心配してのことである。

 母親には友達と夜ごはんを食べてくると言ったらしい。実際、創真とともに西園寺でごちそうになったので嘘ではない。父親はいつも深夜まで残業で、母親も用事ができたそうなのでちょうどよかったようだ。

 腕時計を見ると、約束の時間までもうあと五分になっていた。

 ほとんど声も出さず、動きもせず、傘も差さず、雪の降りしきる中で二十分以上もしゃがんでいたため、すっかり体が冷えてしまった。指先は痛いくらいだ。吐く息もいっそう白くなった気がする。

 けれども隣の翼はすこしも寒そうにしていない。髪や肩に積もりゆく雪をはらいもせず、凜と張りつめた表情を崩そうともせず、ただ一点、公園の入口だけをじっと見つめつづけている。そして——。

「来た!」

 ひそやかながら興奮を隠せない声を上げた。

 創真も東條もハッとして入口のほうに目をこらす。そこには大きなマスクをして、サングラスをかけて、つばの広い帽子をかぶっている女性がいた。どう見ても真冬の夜の公園に来る格好ではない。

「えっ……まさか……」

「知ってるのか?」

 振り向くと、東條はその女性を凝視したまま難しい顔をしていた。気のせいか瞳が揺らいでいるように見える。

「東條?」

 呼びかけてもやはり返事はなかった。

 だからといって語気を強めて問いただすわけにもいかない。そんなことをすれば隠れていることに気付かれてしまう。微妙な気持ちのまま、彼の視線をたどるように再び公園内に目を向ける。

 そこでは護衛チームのひとりが取引相手として女性に接触していた。短いやりとりで首謀者であることを確認すると、隠れて待機していた護衛チーム数名があっというまに取り囲んだ。

「ちょっ、やめて……っ!」

 抵抗も虚しく、帽子もマスクもサングラスもはぎ取られていく。

 顔が露わになっても、創真のところからでは遠いうえに薄暗いのでよくわからない。それでもどうにか見ようと目をこらしていると、ゆらりと隣の東條が立ち上がった。

「なんで……母さん……」

「えっ?!」

 創真と翼はそろって声を上げた。

 翼はすぐさま我にかえり、華麗に生垣を飛び越えて彼女のほうへ駆けていく。あわてて創真もあとを追った。ふたりとも途中で護衛に止められてしまったが、この距離なら顔まで見える。

「あなたが……どうして、僕を……」

 首謀者は、確かにあのとき会った東條の母親だった。

 どうにか声を絞り出した翼を、彼女は憎しみのこもった目でキッと睨みつける。後ろから西園寺の護衛に羽交い締めにされたまま、髪を振り乱して——。

 

 

第13話 彼女の理由

 

 それは、朝からしとしとと小雨が降りつづく肌寒い梅雨の日のことだった。

 榎本茉美は母親に連れられて祖父の葬儀に参列していた。祖父といっても会ったこともないひとだ。母親も含めて皆が沈痛な面持ちをしている中、どんな顔をしていいかわからずひどく居心地が悪かった。

 葬儀のあと、亡くなった祖父の屋敷に移動したのだが、母親の実家でもあるそこは見たこともないような豪邸だった。母親がとんでもないお金持ちのお嬢様だったことを、茉美はこのとき初めて知った。

 中学生になりたての娘から見ても彼女は品のある美しいひとだ。それも育ちのよさゆえだったのかと納得する。喪服で儚げにうつむく姿は、不謹慎かもしれないがいっそう美しさが際立って見えた。

「史絵」

 ふいに呼ばれたのは母親の名前だ。

 振り向くと、喪主を務めていた男性がこちらに歩み寄ってきた。

 彼は史絵の兄だという。史絵が貧乏画家と駆け落ちして実家とは没交渉だったため、十数年ぶりの再会らしい。彼はとても懐かしそうにしていたが、史絵のほうは一線を引いたように他人行儀な姿勢を崩さなかった。

 その微妙な空気に、茉美は何となく居心地の悪さを感じてそっと一歩下がった。うつむいて自分の足元をぼんやりと眺めていると、気のせいか視線を感じたような気がして顔を上げる。

 案の定、史絵の兄に付き従っていた青年がじっとこちらを見つめていた。それもひどく熱のこもったまなざしで——。

 そわそわと落ち着かないのに、どうしてだか搦め捕られたように目をそらすことができない。体温まで上がった気がする。ついさきほどまで半袖セーラー服のせいで肌寒く感じていたが、いまは汗がにじみそうだ。

「父上」

 青年がふと向きを変えて史絵の兄に声をかけた。

 熱いまなざしから解放されたとたんに茉美は大きく息をついた。知らないうちに息を詰めていたらしく、苦しかったんだとそのときようやく気がついた。体が熱いのもそのせいなのだと納得した。

「こちらの方々は?」

「妹の史絵と、史絵の娘の茉美ちゃんだ」

「はじめまして。長男の西園寺征也です」

 征也と名乗った青年は、人当たりのいいさわやかな笑みを浮かべて挨拶する。

 あらためて見てみるとすごく格好のいいひとだった。芸能人でもなかなかいないくらいの整った顔、男性らしさを感じさせるしっかりとした体、すらりと長い手足——きっと誰もが目を奪われてしまうのではないだろうか。

「茉美ちゃん」

「あ、はい」

 不躾に観察していると、ふいに彼から名前を呼ばれてドキリとした。

「ここにいても大人たちばかりだし、話し相手もいなくてつまらないだろう? 二階で僕とボードゲームでもしようか」

「あ……えっと……」

 ちらりと母親を見上げると、彼女は困ったように眉を下げて淡く苦笑した。

「行ってきたら?」

「うん……」

 行きたかったわけではなく困惑していただけなのだが、母親には行きたがっているように見えたのかもしれない。仕方なく頷くと、征也に促されるまま若干緊張しながら扉のほうへ歩き出した。

 

 茉美は二階へつづく階段をまえにして、足を止める。

 さすが豪邸だけあって階段もびっくりするくらい立派だった。幅広なうえに絨毯まで敷かれていて宮殿と見まがうくらいだ。呆気にとられていると、征也がにっこりと微笑んで茉美の手を引いた。

 えっ——。

 大人な彼にとってはどうということはないのだろうが、茉美は同級生の男子ともほとんど手をつないだことがない。せいぜいフォークダンスくらいだ。それなのにいきなり手を握られてうろたえてしまった。

 しかしながら彼は手を離そうとしなかった。見た目よりもずっと大きくて厚くて骨ばっているその手に、否応なく大人の男性であることを感じさせられてしまい、ますますドキドキと鼓動が速くなる。

「さあ、入って」

 連れてこられたのは征也の部屋だった。

 応接室みたいなところに行くものだと思っていたので戸惑うが、いまさら断れなくておずおずと足を進めると、なぜかベッドのほうへ誘導されてそこに座らされた。征也も隣に腰を下ろす。

 ソファもあるのにどうして、と思うものの勇気なくて尋ねられない。膝に置いた手をぎゅっと握りしめながらうつむき、身をこわばらせていると、ふいに気配で彼が動いたのがわかってビクリとした。

「あの……ボードゲーム、は……」

 うつむいたまま、カラカラの喉から震える声を絞り出す。

 けれど征也は答えてくれなかった。ふっと小さく笑って茉美のほうに手を伸ばすと、ボブカットのまっすぐな黒髪にそっと指をすべらせ、その流れのまま顎から頬へゆっくりと撫でていく。

 茉美はもう息もできなかった。家族や医者以外のひとに顔を触れられることなんてないし、家族や医者の触れ方とは違う気がする。よくわからないが何か嬲られているように感じた。

「せ、いやさん……」

「ん?」

 征也はひどく甘ったるい声でそう応じると、茉美の顎に手を添えて自分のほうへ向かせる。そのまなざしにはあのときと同じ熱がこもっていた。またしても茉美は搦め捕られたように目をそらせなくなる。

 彼の顔がじりじりと近づいてきた。生ぬるい吐息がうっすらと鼻先にかかるのを感じた瞬間、ビクリとして身を引こうとするが、いつのまにか後頭部に添えられていた手によって阻まれてしまった。

 なすすべなく現実から逃げるようにギュッと目をつむった直後、唇にあたたかいものが触れた。びっくりして目を開けると、近すぎてほとんど見えないくらいのところに彼の顔があった。

 キス、されてる——?!

 むちゃくちゃに頭をのけぞらせながら体を突き放して逃れると、その勢いでベッドに倒れ込んだ。すぐに起き上がろうとしたが、征也に四つん這いで覆い被さるようににじり寄られて、逃げ道をふさがれる。

「やっ……」

 顔の両横に手をつかれ、あのまなざしで真上から見下ろされ、茉美はカラカラに渇いた喉からか細い声をもらした。それを聞いて征也はすっと目を細める。

「嫌?」

「…………」

 彼の表情を目の当たりにして、とてもじゃないが本当のことなんて言えなかった。とにかく怖くてたまらなかった。顔はこわばり、小さな細身の体は小刻みにカタカタと震え始める。

「茉美ちゃん、そんなに怯えなくても大丈夫だよ。優しくしてあげるから」

 その言葉はさらなる恐怖を煽るだけだった。

 けれど征也はおかまいなしにセーラー服のスカーフを解き、中央のファスナーをゆっくりと下ろして左右に開くと、現れたスポーツブラを丁寧にたくし上げていく。

「ひっ」

 裸の胸がさらされて、茉美は引きつれた声を上げた。

 それでも征也が気にする様子はない。ささやかなふくらみにそっと触れ、感触を確かめるようにやわやわと指を動かしていたかと思うと、おもむろにそれを口に含んだ。

「?!」

 思いもしなかった彼の行動に茉美はパニックになる。

 舌で転がすように先端をねぶられ、もう片方は指でいじりながら揉まれ、わけのわからないまま呼吸が乱れて小さな声が漏れ始めた。そんな自分が怖くてギュッとシーツを掴んで口を引きむすぶ。

「茉美ちゃん」

 征也は顔を上げ、思わせぶりな微笑を浮かべて茉美の唇を舐めた。

 驚いて口元がゆるんだ瞬間、その口を覆うようにキスされて舌をねじこまれ、その肉厚な舌で容赦なく中を舐めまわされる。無理やり舌を絡められて吸われる。逃げられず、息もできず、あまりの苦しさにささやかな抵抗すらできなくなってきた。

 気が遠くなりかけたころにようやく口づけを解かれた。くたりと身を投げ出したまま必死に呼吸をしていると、あっというまにショーツをはぎ取られてしまった。けれど、まだぼうっとしていて頭が働かない。

 飾り気のないコットンのショーツが放り投げられるのを虚ろに眺めていたら、征也が膝裏に手を入れて片脚を持ち上げ、意味深長な笑みを浮かべて茉美を見つめながら、内腿に頬を寄せて見せつけるようにそこに口づける。

 その挑発的なまなざしに、熱く濡れた吐息に、茉美は奥底からぞくりと震えた。

 互いに視線を絡ませたまま、征也は内腿に頬ずりしながらじりじりと下のほうへ向かっていく。そして付け根の秘められしところをじっと見つめると、指で割り開いてべろりと舌を這わせた。

「ひっ……ぁ……っ……!」

 その信じられない行動とあまりにも強烈な感覚に、思考が焼き切れる。

 しかしながら彼の行動はそれだけでは終わらなかった。茉美は悲鳴のような嬌声をこらえることもできずに翻弄されていく。やがて征也がベルトを外してスラックスの前をくつろげ、そして——。

 

 何もわからないまま、嵐のように茉美をぐちゃぐちゃにして事は過ぎ去った。

 茉美はセーラー服を整えもせず力なく手足を投げ出して、シーリングライトを眺めながら、しとしとと降りつづく外の雨音をぼんやりと聞いた。

 多分、これがセックスだったんだ——。

 言葉は知っていたが、映画やドラマで何となく見たことがある程度だったので、ただ男女が裸で抱き合うものだという認識しかなかった。けれど、きっとそれだけではなかったのだ。

 征也はベッドのそばで涼しい顔をしてネクタイを締め直し、喪服を整えていた。さきほどまで見せていた捕食する獣の面影はどこにもない。本当に同一人物なのかと疑ってしまうくらいに。

「そろそろ起きられるかい?」

 ふとこちらに振り向いた彼にそう問われて、茉美はビクリとした。

 めくれていたスカートを簡単に直し、セーラー服の前をかき合わせながら、よろよろと体を起こす。まだあちこちに違和感があるうえとてもだるいが、そんなことはとても言えなかった。

 彼はふっと笑い、前をかき合わせたままうつむく茉美の髪にそっと触れた。体をこわばらせても気にすることなくゆっくりと指を通し、その指を顎に添えておもてを上げさせると、うっすらと不敵に笑いながら覗き込む。

「茉美ちゃん、ここでのことは誰にも言ってはいけないよ」

 ショーツを握った手を見せつけるようにしながらそう言われ、茉美はぎこちなく頷くしかなかった。

 

 あの日からほどなくして梅雨が明け、夏休みに入った。

 結局、征也にされたことは親にも誰にも話していない。征也に言われたからというのもあるが、それ以前に恥ずかしくてどう話したらいいのかもわからない。もう忘れよう、そう自分に言い聞かせつつ過ごしていたのだが——。

「茉美ちゃん」

 図書館で宿題をして帰ろうとしたとき、ふと声が聞こえた。

 振り向くと、歩道に横付けされた白い車からビジネススーツ姿の征也が降りてきた。茉美がビクリとしたことに気付いているのかいないのか、助手席の扉を開いて好青年の笑みを浮かべる。

「さあ、乗って」

「あ……あの……」

「乗って」

 その有無を言わせぬ口調に、まなざしに、茉美はぞっとして断ることも逃げることもできなかった。追い込まれるように感じながらぎこちなく助手席に座ると、彼は不敵に微笑んで扉を閉めた。

 連れてこられたのは立派なホテルだった。

 地下の駐車場から直接エレベーターで部屋まで向かい、カードキーで中に入る。茉美は何となく彼の思惑を察して顔面蒼白になるが、しっかりと手をつながれていて逃げ出せそうにない。

「そんなに怖がらなくて大丈夫だよ。二回目はもう痛くないから」

「あ、の……わた……し……」

「茉美ちゃん、すごく気持ちよくしてあげるからね」

 征也はつないだ手に力をこめ、にっこりと満面の笑みを浮かべてそう告げる。

 茉美は背筋が凍りつくような恐怖を感じて何も言えなくなった。手を引かれるまま部屋の中へ進むと、薄汚れたスニーカーをひざまずいた彼に脱がされ、そのまま太腿を抱えながら内側に口づけられた。

「やっ……」

 強く吸われて赤い痕がつく。

 彼はそれを確認して満足げに微笑むと、いまにも泣きそうになっている茉美を横抱きにして、大きなベッドのある部屋へと連れて行った。もう茉美がどれだけ泣いても叫んでも誰にも届かなかった。

 

 それからも征也はときどきふらりと茉美のまえに現れては、ホテルに連れ込んだ。

 そうして何度も抱かれるうちに怖いとも嫌だとも思えなくなっていた。恥ずかしいという気持ちはいまでも消えないけれど、恋人のように大事に扱われると悪い気はしない。いつしか彼が来ることを心のどこかで期待さえするようになっていた。

 

 そんな関係が二年半ほど続き、中学の卒業式を間近に控えたある日——。

「え……結婚……?」

 にわかに理解できず、茉美は思わず運転席の征也に振り向いて聞き返した。彼はハンドルを握って正面を向いたまま眉ひとつ動かさず、当然のように答える。

「そう、僕は西園寺の跡取りだからね。先日、父が懇意にしている社長のお嬢さんとお見合いをして、婚約したんだ。だから茉美ちゃんと会うのは今日が最後になる」

「…………」

 まだ中学生ということもあり結婚までは考えもしなかったが、もう恋人のようなものではないかと勝手に思っていただけに、少なからずショックを受けた。

「ごめんね、茉美ちゃんとは結婚できないんだ。でも今日はいっぱい愛してあげるよ」

 なぜ自分とは結婚できないのだろう。いいところのお嬢さんではないからか、母親が西園寺家と縁を切ったからか、それとも他に理由があるのか——気になるけれど尋ねることはできず、ただ静かに表情を消してうつむいた。

 

 その日を最後に、本当に征也は現れなくなった。

 茉美は高校でも大学でもたくさんの男子に告白されたが、誰にも心が動かなかった。どうしても征也と比べてしまうのだ。いつまでもこんなことではいけないとわかってはいるが、どうしようもなかった。

 大学を卒業すると、大手総合商社に一般職として入社した。

 そこで、まだ新人研修も終わっていないうちに、赴任先の中東から戻ってきたばかりの男性社員に告白された。一目惚れだという。結婚を前提におつきあいしていただけませんか——まっすぐに目を見つめながらそう言われ、翌日、よろしくお願いしますと返事をした。

 そろそろいいかげんに征也のことを忘れなければと思っていたのもあるが、告白に頷いたのは彼がどことなく征也に似ていたからだった。征也のほうがすこし身長は高いものの体格はよく似ており、年齢は同じで、顔はそっくりというほどではないがどちらも男らしく端整なのだ。

 ただ、彼は征也と違ってとても誠実だった。健全なデートを重ね、打ち解けてきたころにようやく触れるだけのキスをするようになり、交際を始めてから半年後にレストランで正式なプロポーズをされた。初めて体を重ねたのは、そのプロポーズに了承の返事をしたあとだった。

 婚約から半年後、彼——東條真一郎と茉美は結婚した。

 退職して専業主婦になったのは彼の希望である。自分は仕事が忙しいので家のことを任せたい、自分を癒やしてほしい、もし海外赴任になったときには着いてきてほしい、と言われたのだ。茉美は特に働きたいわけではなかったので構わなかったが、入社からたった一年で辞めることは心苦しかった。

 

「茉美ちゃん」

 自宅に帰り着いて門扉を開けようとしたところ、背後から呼ばれてビクリとした。

 その声は何度も何度も聞いたあのひとのものによく似ていた。茉美ちゃんと呼ぶのもあのひとだけだ。幻聴だったのではないかと思いつつおそるおそる振り返ると、はたしてそこには征也がいた。

 彼はあのころよりもっと大人の男性らしく精悍になっていて、ビジネススーツが憎らしいくらいよく似合っていた。凍りついたように固まってしまった茉美を見ながら、愛おしげに目を細める。

「きれいになったね」

 その声にあからさまな熱を感じて茉美はぞくりとした。しかし、流されるわけにはいかないと全身にグッと力をこめる。

「あなたとは何も話さない」

「そう邪険にしないでくれ」

「お帰りください」

「家に上げてくれないか」

「…………」

 そう、征也はこういうひとだった。

 帰ってと声を荒げたところで素直に帰りはしないだろうし、むしろ困るのは自分だ。すでにこの状況からして十分すぎるくらいにまずい。ご近所さんに見られたらあらぬ噂を立てられてしまう——。

「わかりました」

 不本意ながら、ひとまず自宅に入ってもらうよりほかになかった。いや、もしかしたらもっといい対処法があったのかもしれないが、ひどく焦っていたこのときの茉美には考えつかなかった。

「どういったご用件でしょうか」

 応接間でお茶を出しながら事務的な口調で尋ねると、征也は色っぽく目を細めた。

「茉美ちゃんが忘れられなくてね」

 何となく予想はしていたが、いきなりそう切り出されるとは思わなかった。動揺を見せないよう静かにお盆を抱えて立ち上がり、ソファに座っている彼を睨むように見下ろす。

「あなたも私も結婚しています」

「妻とは政略結婚みたいなものだ」

「私には関係ありません」

「茉美ちゃんも僕を求めている」

「勝手なことを言わないで」

「旦那さんを見たよ」

 思いもしなかったことを言われてハッと息をのんだ。どういうつもりなのかと警戒しながら口を引きむすぶと、征也はゆっくりと茉美を見上げて挑発的な笑みを唇にのせる。

「どことなく僕と似ていたな」

「……似て、なんか……」

「しかしあれでは劣化コピーだ」

「そんなこと!」

「君はあれで満足できるのか?」

「やめて……っ!」

 痛いところをつかれて、茉美はただわめき散らすことしかできなかった。お盆をギュッと抱え込んでうつむくと、ソファに座っていた征也がおもむろに腰を上げる。

「茉美ちゃん」

「帰って!」

「ごめんね」

 何に対しての謝罪かわからない。

 それなのに茉美の頑なな気持ちと体は一瞬ゆるんでしまった。その隙をついて唇を奪われる。あわてて身をよじって抵抗するが、抱えていたお盆が落ちただけで彼の腕からは逃れられない。

「もうやめて!」

「茉美ちゃん」

 征也は小柄な体を抱き込み、その耳朶にくちびるを寄せて甘い毒のような声を注ぎ込む。

「なあ、旦那さんに僕との関係を話したらどうなると思う?」

「っ……」

 夫は茉美のおとなしく控えめなところを気に入っているのだ。お互い独身だったころのこととはいえ征也との関係を知られたら、そのうえ征也に似ていたからつきあっただなんて知られたら——抵抗する力が弱まっていく。

「そう、素直になるんだ」

 征也はいかにも満足そうにささやいた。

 脅しておきながらよくもそんなことを——じわりと目が熱くなり、こらえきれずにあふれた涙がついと頬を伝い落ちていく。それでも、茉美はもう彼のなすがままになるしかなかった。

 

 それからも、征也はときどきふらりとやってきては茉美を抱いた。

 一、二か月に一度程度だったし、いつもビジネススーツを身につけていたので、ご近所さんに怪しまれることはなかったはずだ。もちろん夫にも気付かれないよう細心の注意を払っていた。

 そんな関係が一年ほど続いた、ある日——。

 征也はいつものように遠慮のかけらもなく家に上がり込み、あたりまえのように茉美を抱こうとした。しかし茉美は流されるまえに強い気持ちで押しとどめると、まっすぐに目を見つめて告げる。

「私、妊娠しました」

「……そう」

 そんなことは気にせず情事に及ぶのではないかと危惧していたが、彼の瞳からは一瞬で熱が消え失せた。茉美の体から手を離して、どこか皮肉めいた何ともいえない微妙な笑みを浮かべる。

「旦那と仲良くやってたんだな」

「…………」

 茉美が黙っていると、彼は傍らのビジネスバッグを手にとって玄関に向かい、そのまま振り返ることもなく出て行った。扉が閉まる音を聞いて、茉美は嗚咽を堪えるように両手で口元を覆いながら崩れ落ちた。

 

 それから、征也が来ることは二度となかった。

 だけどもう手遅れだ。どうあっても忘れられないひとになってしまっていた。子供が生まれると育児に追われて深く考える余裕はなくなったが、ふと脳裏に浮かんで泣きそうになることはよくあった。

 

 ある日、三歳になった息子が砂場のある公園に行きたいと駄々をこねた。いつも行っている近場の公園にはないのだ。春めいたうららかな日だったので、すこし離れた公園へ自転車で連れて行くことにした。

 機嫌よく砂をいじっている息子をそばで見守っていると、同じ年頃の子供がやってきて息子の隣にしゃがんだ。息子はうれしそうにいっしょにあそぼうと声をかけて、その子もニコッと頷いた。

 その様子を微笑ましく眺めていたが、そういえばこの子の親はどこにいるのだろうとあたりを見まわす。すこし離れたところにじっとこちらを窺っている男性がいて——認識した瞬間、息をのむ。それはまぎれもなく征也だった。

 じゃあ、この子は——。

 バッと振り向いて砂場で息子と遊んでいる子を凝視する。男児か女児かはわからないけれど、とても整ったかわいらしい顔立ちをしていた。やわらかそうな栗色の髪は母親似なのかもしれない。

 その子は視線に気付いたのか不思議そうにこちらに振り返るが、目が合うなり怯えたようにビクリとする。そのとき初めて、茉美は自分が醜い感情をあらわにしていたことに気がついた。

 妻とは政略結婚でもう冷え切っている——。

 そう言っていたはずなのに、その裏でちゃっかり子供を作っていたのかと思うと、怒りがこみ上げるのは自然なことだろう。だからといっていまさらそれをぶつけるわけにもいかず、ただじっと立ちつくしていた。

「翼、そろそろ帰ろうか」

 ひとしきり遊んで満足したのか、その子は満面の笑みでトタトタと駆け出して征也に抱きついた。砂場で佇んでいる息子に振り向いてバイバイと手を振ると、征也に抱き上げられて公園をあとにする。

「あの子、また来るかなぁ」

「そうね……」

 息子はあの子をたいそう気に入っていたようだが、どんなにせがまれても、駄々をこねられても、もう二度とあの公園に連れて行くことはなかった。

 

 後日、息子の幼稚園で他のママたちが話しているのを聞いて、西園寺家には四人の子供がいるがすべて女の子であること、末娘が息子と同じ年齢であること、末娘を跡取りにするために男の子として育てていることを知った。

 

 それからしばらくして夫の海外赴任が決まり、家族で日本を離れた。

 慣れないことが多くて大変ではあったが、日本にいたころと比べてずいぶんと心穏やかになった。征也と顔を合わせる心配がなかったからだろう。そのうち過去に苛まれることもなくなっていった。

 そして日本に戻ってからも、もう征也の存在を意識するようなことはなく、それなりに幸せで心穏やかな日々を送っていた。あの日、息子が西園寺の末娘を家に連れてくるまでは——。

 

 西園寺邸の一室で、首謀者である茉美は洗いざらいぶちまけた。

 西園寺家の現当主である西園寺徹はゆっくりと息をつき、重厚な会議テーブルの上で両手を組み合わせながら、無感情なまなざしを息子の征也に向ける。

「征也、どうなんだ」

「おおむね彼女の言うとおりです」

 彼は動じる素振りもなく静かに認めた。

 妻の瞳子はますます顔面蒼白になってうつむき、そして翼も表情を硬くする。物心がついたころから父親を尊敬してきただけに、ショックも大きいはずだ。まだどこか信じられずにいるのかもしれない。

 そして東條もひどく動揺して混乱した顔をしている。母親のされたこと、母親のしたこと——どちらも衝撃的で、そう簡単に気持ちに折り合いはつけられないだろう。標的にしていたのが大切な友人となればなおさらだ。

「翼は……関係ないだろう……」

 膝の上でグッとこぶしを握りながらうつむき、苦しげに声を絞り出す。

 しかし茉美はうっすらと自嘲めいた笑みを浮かべて言い返す。

「私を蹂躙しておきながら、征也さんは素知らぬ顔をして幸せな家庭を築いている。その証が西園寺翼なのよ。圭吾と同時期に生まれているのが許せなかったし、西園寺家の跡取りとして大事にされているのも許せなかった」

 そこで息を継ぎ、ゆっくりと視線を上げて征也を見据える。

「圭吾は、征也さんの子供です」

「…………?!」

 一拍の間ののち、その場にいた全員が驚愕した。

 創真も翼も息をのんで大きく目を見開き、瞳子は口元を両手で覆い、圭吾は口を半開きにしたまま固まり、征也も愕然として青ざめた顔をしている。当主の徹だけが驚きつつもどうにか平静を保っていた。

「茉美さん、根拠があるのなら教えてもらいたい」

「征也さんに似ているでしょう」

 思わずふたりを見比べる。確かにそれなりに似ているような気はするが、東條の父親を見たことがないので何ともいえない。そもそも東條の父親からして征也に似ているという話なのだ。

 徹も見比べていたが、やはり決定的なものは見いだせなかったようだ。どこか困惑したように眉をひそめたかと思うと、茉美に向きなおり、配慮を感じさせる申し訳なさげな口調で要望を伝える。

「できればDNA鑑定をさせてもらいたいのだが、構わないだろうか」

「圭吾が同意すれば」

 茉美はさらりとそう返事をする。

 根拠はなくても、きっと彼女なりに自信を持っているのだろう。単に思い込みが激しいだけなのかもしれないが——。

「うっ……」

 とうとう瞳子が口元を押さえてうつむき嗚咽をもらし始めた。細身の体は小刻みに震えて、いまにも倒れそうなくらい頼りなく見える。実際、すこしまえまで心労で倒れて横になっていたのだ。

「瞳子さん、また倒れないうちに部屋で休みなさい」

 徹はそう告げると、内線電話で使用人を呼んで瞳子を退出させる。

 彼女もそろそろ限界だと感じていたのか素直に従った。使用人に支えられながらよろよろと出て行くその姿を目にして、征也はそっと視線を落とした。

 

「さて……」

 そう言いながら、徹はあらためて両手を組み合わせて姿勢を正すと、左手側にいる翼に問いかける。

「おまえはこの事件にどう決着をつけるべきだと考える?」

「犯罪であることは明白なので警察に委ねるしかないでしょう」

「その場合、事件も過去も白日の下にさらされることになるが」

「それは……仕方がありません……」

 茉美だけの問題ではない。東條は犯罪者の息子となり、これまでどおりの生活が望めなくなるかもしれない。翼もきっと好奇の目を向けられる。西園寺グループへの影響も計り知れないのではないだろうか。

 もちろん翼もわかっているに違いない。わかっているからこそこんなにもつらそうな顔をしているのだ。まわりの誰にも目を向けることもなく深くうつむき、グッと奥歯を食いしめている。

 そんな翼を、徹は真剣な表情のまま奥底まで探るように見つめていた。そう長い時間ではなかったはずだが、息の詰まりそうな重い沈黙がつづいたあと、ゆっくりと小さく頷いて口を開く。

「おまえは正しい……だが、正しいことが最善とは限らん」

 威圧的ではないが威厳を感じさせる声。

 翼はつられたように顔を上げて怪訝なまなざしを送るが、それに気付いているのかいないのか、徹は会議テーブルをはさんだ向かいのほうに視線を移した。

「茉美さん、今後、征也との過去を口外しないと約束してくれるなら、今回の件は警察沙汰にしない。あなたは罪に問われなくてすむ。圭吾くんのためにもそのほうがいいと思うが、どうだろうか」

「…………」

 動揺、憎しみ、安堵、怒り、戸惑い——さまざまな感情をその顔によぎらせながら、彼女はぎこちなくうつむいた。しばらくそうしていたが、やがてゆっくりと深く呼吸をして顔を上げる。

「わかりました。口外しないとお約束します」

 わずかに震える声で、それでも迷いなくはっきりとそう答えた。

 それは翼の意に沿わない決着だ。そうわかっていながら創真はひそかに胸をなで下ろした。これできっと翼がされたことは表沙汰にならないし、東條も犯罪者の息子にならずにすむと。そのとき——。

「創真くん、そういうわけで君に傷を負わせた犯人を警察に突き出せなくなった。ここで聞いたことの口止めも強いることになる。勝手を言って申し訳ないが承服してもらえないだろうか」

「オレは別に構いませんけど」

 わざわざ徹が自分に許しを求めてくるとは思わなかったので、すこし驚いた。

 しかし、考えてみれば創真が警察に被害を訴えたら水の泡になってしまうのだ。何がなんでも納得してもらわなければならないということであれば、下手に出るのも無理はないのかもしれない。

「あ、でも親にはなんて言えば……」

「ご両親には我々から話しておこう」

「お願いします」

 創真はほっとして頭を下げた。

 しかし、隣の翼はまだ得心がいかないような物言いたげな顔をしていた。それでも異議を唱えるつもりはないのだろう。会議テーブルの上で重ねていた両手にそっと静かに力をこめて、口を引きむすんだ。

 

 

第14話 大切な友達

 

「あけましておめでとう」

 駅前で待っていた東條は、翼と創真が連れ立ってやってきたことに気付くと、どこか気まずげな笑みを浮かべて年始の挨拶をした。翼は何でもないかのように笑いながら同じ言葉を返し、創真はその隣で会釈をした。

 

 元日、三人で初詣に行こう——。

 そう提案したのは翼だった。よりによって拉致事件の首謀者と動機が明らかになったあのあとに。東條は渋っていたが、翼が待ち合わせ場所と時間を決めてしまったので断れなくなったのだ。

 合流した三人は予定どおり電車でとある有名な神社へ向かう。神社の最寄り駅はすでに参拝客と思しき人々であふれかえっていた。境内はさらに混雑していて思うように歩くことさえ難しい。

「ちょ……うわっ!」

 創真はうっかり人波にのまれて翼と東條の姿を見失ってしまった。探そうにも人の流れに逆らって進むのは困難だし、小柄なのでまわりを見渡すこともできない。人混みに揉まれながらわたわたとしていると——。

「見つけた」

 その声と同時に手をつかまれる。

 振り向くと、そこには思ったとおり翼がいて安堵の表情を浮かべていた。その後ろで東條もほっとしている。しかし三人ともすぐに人の流れに押されるように歩き出した。

「急にいなくなるから驚いたぞ」

「オレも……」

 手は翼に握られたままだ。

 また迷子にならないようにということだろうが、むずがゆいような照れくさいような気持ちになり、火照った頬を隠すようにマフラーに顔を埋めていく。冷えていた手もじわじわと熱を帯びてきた。

 やがて人の流れが止まると手を離された。急にすうっと冷たい空気が通りすぎていくのを感じて、何か無性に寂しくなる。隣に目を向けると、翼はつま先立ちになりながら前方の様子を窺っていた。

「けっこう並んでいるな」

 この先が賽銭箱らしいが、たどり着くまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。

 にもかかわらず三人とも黙りこんでしまった。いつもなら翼があれこれと話を振ってくるのに、今日はやけにおとなしい。東條も遠慮がちに見える。やはりクリスマスの日のことが影響しているのだろう。

「そろそろ賽銭の準備をしておけよ」

 長い沈黙のあと、思い立ったように翼が口を開いた。

 だいぶ賽銭箱に近づいたのだろう。背の低い創真からはまだよく見えないが、小銭がぶつかるような音はすでに前方から聞こえている。財布を開け、五円玉がなかったので十円玉をひとつ手にとった。

 最前列にたどり着くと、賽銭箱の代わりに大きく白布が広げられているのが見えた。みんなそこに賽銭を投げ入れている。こんなので本当に御利益があるのだろうかと疑問に思いつつ、創真も十円玉を投げ入れた。

 これ以上、悪いことが起きませんように——。

 もう二度とあんなことは起こってほしくないし、翼にも、東條にも、二度とあんな思いはしてほしくない。神様なんて信じていないのに、このときばかりは両手を合わせて真摯に願いをかけた。

 ちらりと隣を窺うと、翼はまだ目をつむったまま両手を合わせて祈っていた。その端整な横顔は、雲の切れ間から降りそそぐ光の加減でとても神秘的に見える。栗色の髪もやわらかく光り輝いていた。

「行こうか」

 翼はそっと目を開けると、小さく微笑みながら両隣のふたりにそう声をかける。創真も東條も無言で頷き、翼のあとを追うように白い賽銭入れのまえから退いた。

 

「なあ、俺、おみくじ引いてみたいんだけど」

 東條がそう言うので、三人でおみくじを引くことになった。

 彼はずっと海外暮らしだったのでおみくじを引いたことがないという。初詣もこれが初めてらしい。日本に帰ると決まって楽しみにしていたなんて話を聞かされたら、つきあうしかないだろう。

 創真は何年か前に一度だけおみくじを引いたことがあるが、そのときは末吉だった。凶は入っていないところも多いようなので実質最下位だ。それより悪いものは出ないよなと気楽に引いたが。

 凶——。

 そのうえ、願いごとは「破れる恐れあり」、旅行は「波乱あり」、学問は「自己の甘えを捨てよ」、恋愛は「身の程をわきまえよ」などと書いてあり、たかがおみくじと思いつつも落ち込んでしまった。

「うわっ、凶なんて初めて見たぞ」

「本当にあるんだな」

 ひとり嘆息していると、翼と東條が両脇からおみくじを覗き込んで声を上げる。ふたりとも興味津々で面白がってさえいるようだ。創真は口をとがらせ、おみくじを胸に抱え込むように隠しながらじろりと睨む。

「おまえらはどうだったんだよ」

 それを受けて、ふたりはそれぞれ手にしていたおみくじを掲げる。

「僕は大吉だ」

「俺は中吉」

 思わずぐぬぬと歯噛みしてしまった。

 それでも——やはり、ふたりにはこのおみくじどおりいいことがあってほしい。清々しいくらいに得意満面の翼や、どこか申し訳なさそうな東條を見ながら、創真はひそかにそう願った。

 

「そういえば親子鑑定の結果が出たんだけど、聞いたか?」

 電車で地元に戻り、駅前の横断歩道を渡り終えたところで東條がそう切り出した。まるでよもやま話でもするかのような気楽な口調で。創真はどきりとして思わず顔をこわばらせてしまったが、隣の翼はすこしも動揺していない。

「ああ、きょうだいだったな」

 肩をすくめて苦笑しながらそう答える。

 どうやら東條茉美が主張したとおりの結果が出たらしい。東條圭吾の生物学上の父親は西園寺征也で、戸籍上の父親とは血のつながりがなかったということだ。つまり翼とは異母兄妹になる。

「俺、翼のことが好きだったんだけどな」

 つられるように苦笑して東條はそう軽くこぼした。

 しかしながら翼にとっては青天の霹靂だったに違いない。驚いたように振り向くと、そのまま彼の横顔を見つめてうっすらと眉をひそめる。

「それは恋愛感情があったということか?」

「ああ、諫早くんは前から気付いてたよな?」

「ん、まあ……」

 いきなり水を向けられて、創真は若干うろたえながら曖昧に肯定した。気付いたのはあくまで東條の言動がわかりやすかったからだ。しかし翼はいまだに信じきれないような複雑な顔をしている。

「そう、か……まさか創真につづいて圭吾までとはな……」

 ——おい!

 わざとではないだろうが、さらりと暴露されていたたまれない気持ちになる。翼への想いは以前から気付かれていたように思うので、いまさらかもしれないけれど、その想いを告げたことまでは知られていなかったのだ。

「えっ、諫早くん告白してたのか?!」

「告白というかほとんどブチ切れていただけだが」

「ブチ切れて……って、諫早くんが……?」

「ああ、それで僕もついブチ切れてしまってな」

「は??」

 聞けば聞くほど状況がつかめなくなったのだろう。東條はいくつもの疑問符を頭の上に浮かべて混乱していた。しかし翼は気にも留めず、思いを馳せるようにふっと表情をゆるめて鈍色の空を仰ぐ。

「創真と恋愛や結婚なんて考えたこともなかったし、考えたくもなかった。でも冷静になって考えてみると、どうせ誰かと結婚しなければならないなら創真がいいんじゃないかって。まだ気持ちの整理がついていないからすぐには約束できないが、その方向でと思っている」

 そう言うと、こちらに振り向いて返答を求めるように見つめてきた。

 もちろん異論などあるはずもなく創真はこくりと頷く。気持ちの整理がついていないというのは綾音のことだろうが、いますぐ想いを捨てろなんて言うつもりはないし、何ならそのままでも構わないと思っているくらいだ。

「そうか……」

 暫しの沈黙のあと、東條が吐息まじりの声を落とした。

「そんなことになってるなんて思わなかったから驚いたけど、諫早くんなら翼を大切にしてくれるだろうしよかったよ……これで心置きなく転校できる」

「転校?」

 翼が怪訝に聞き返すと、東條はちらりと横目を向けて曖昧な微笑を浮かべた。

「俺たちの親のあいだにあったこと、俺の母親が翼にしたことを考えたら、これまでどおりってわけにはいかないだろう。すぐには無理だけど、二年生からどこか別の高校に転校しようと思ってる」

 創真は声もなく驚き、気付けばいつのまにか足が止まっていた。

 隣を歩いていた翼も同じく絶句して呆然と立ちつくしていたが、やがて我にかえると、何か思案をめぐらせるようにそっと眉を寄せて東條に振り向く。

「もしかして西園寺の人間が命じたのか?」

「いや、俺がひとりで考えて決めたことだ」

「おまえの両親はどう言ってるんだ」

「これから話すけど賛成してくれると思う」

「……それは、そうかもな」

 確かにそこは否定できないだろう。息子の意思を無視してまで転校させることはなくても、息子が自ら転校したいと言い出せば喜んで賛成しそうだ。そうなれば止めるのは難しくなる。

 だが、いまはまだそうなっていない。

 それゆえか翼もまだあきらめてはいないようだ。気合いを入れなおすようにひっそりと表情を引きしめ、どこか挑発的な目つきになりつつも、あくまで冷静な態度を崩すことなく追い込みをかける。

「けれど、本当にそれはおまえの本意なのか?」

「……ああ、俺自身が望んだことだ」

「僕と顔を合わせるのが苦痛だから転校したいと」

「そうじゃない!」

「だったら納得のいく理由を聞かせろ」

 東條は目をそらすが、それでも翼はじっと追及のまなざしを向けたままだ。絶対に引き下がらないという強い意志を感じる。東條も沈黙したところで逃れられないと悟ったのか、渋々ながら口を開いた。

「俺がいたら、翼がいつまでたってもつらい事件のことを忘れられないだろう」

 つまり、拉致事件の首謀者の息子であり西園寺征也の罪の証でもある東條がいたら、翼はずっと心の傷を癒やせない。だから自分が翼のまえから姿を消さねばならないと考えたようだ。

 けれど、それを聞いて当の翼はあきれたように溜息をついた。

「そんなことだったとはな」

「そんなことって……」

「悪いが、僕はそんなに繊細な人間じゃないんでね。されたことを思い返すとはらわたが煮えくりかえるが、泣いたりはしていない。だいたい、事件に関与したわけでもないおまえを見てもいちいち思い出さないし、おまえがいなくなったところで家には元凶である父がいるんだが」

 東條はグッと言葉を詰まらせた。それでもまだ素直に受け入れられないのか、純粋に心配なのか、迷うように惑うようにかすかに瞳が揺れている。

「だけど……やっぱり俺は……」

「もういいだろ!」

 そう叫んだのは、第三者であるはずの創真だった。

 自分は部外者だからと口をはさまないようにしていたのに、あまりにもどかしくて腹立たしくて堪えきれなくなり、爆発してしまったのだ。

「転校なんてやめろよ! 翼が望んでないのに翼のためだなんてただの自己満足だ! 翼の気持ちを考えろ! オレだって嫌なんだよ! せっかくちょっとは仲良くなれたような気がしてたのに、こんな形でいなくなるなんて! 翼ならオレがついてるからおまえは心配すんな!!!」

 堰を切ったように全力でぶちまけて顔を上げる。

 ふたりは唖然としたまま時間が止まったように固まっていた。息もしていないのではないかと思うほどに。気まずい沈黙が流れる。やがて創真の額にじわじわと汗がにじんできたころ——。

「諫早くんがブチ切れた」

 東條がぽつりとつぶやいた。

 一拍の間のあと翼がはじけるように笑い、東條もつられて笑い出す。何もそんなに笑うことはないのにと、創真は気恥ずかしさを感じつつ口をとがらせた。

「転校、やめるのかやめないのかどっちだよ」

「やめるよ」

 さすがにここまで清々しく翻すとは思わなかったのですこし驚くと、東條はきまり悪そうにはにかみながら「諫早くんの気持ちを無下にはできないし」と言い添える。もちろんそれが単なる口実でしかないことはわかっているけれど。

「もう二度と転校とか言うなよ」

 そう言いながら、マフラーに顔を埋めるようにうつむいて足早に歩き出す。

 ときおり吹く北風はとても冷たいし、ちらちらと雪も降ってきたが、それでも熱く感じるくらいに顔が火照っている。それに気付いたのかふたりは吹き出すように笑い、すぐに小走りで追いかけてきた。

 

 

第15話 十年越しの初恋に終止符を

 

 年明けから、創真は再び翼の後継者教育に同席することになった。

 逆に東條が同席することはなくなった。西園寺家と東條家が話し合いをしたときにそう決まったらしい。双方の両親の感情を思えば致し方ないのかもしれない。きっと補佐役になることも許されないのだろう。

 創真にとってそれは願ったり叶ったりの結果ではあるのだが、さすがに素直に喜ぶことはできなかった。こんなかたちで終わることを望んでいたわけではない。翼に自分を選んでほしかっただけなのだから。

 

「創真……その、頼みがあるんだが」

 西園寺家での勉強を終えて帰り支度をしていると、翼が声をかけてきた。めずらしく遠慮がちな物言いで。振り向くと表情にもためらいのようなものが見てとれた。

「どうしたんだ?」

「……僕も、いいかげん自分の気持ちにきちんと区切りをつけて、前に進まなければならない。おまえともきちんと向き合いたい。だから、綾音ちゃんに気持ちを告げて終わらせようと思う」

 驚いて創真は小さく息をのむ。

 綾音のためにも自分のためにも想いは告げないと言っていたのに——だが、気持ちに区切りをつけるには確かにそれが最善なのかもしれない。きちんと終わらせようと本気で悩み考えたうえでの決断なのだろう。

「オレも応援する」

「ありがとう」

「それで頼みって?」

「ああ……」

 翼はいつもの調子を取り戻し、どういう計画でどういう協力を求めているのかを理路整然と話していく。それを聞き、創真はすこし気持ちがざわつくのを感じながらも協力を約束した。

 

 次の土曜日、創真と翼は待ち合わせのため駅前に来ていた。

 雪は降っていないものの寒波が来ているせいで冷え込みが厳しく、創真はポケットに手をつっこんで身を縮こまらせている。邪魔になるだろうとマフラーをしてこなかったので首が寒い。

 隣の翼もポケットに手を入れたままじっとうつむいている。こちらは寒さというより緊張のせいかもしれない。家に迎えに行ったときからいつになく口数が少なかったし、表情も硬かった。

「翼くん、創真くん、おはよう」

「おはよう」

 それでも綾音が現れると、途端にうれしそうな顔になって声をはずませる。緊張など一瞬で吹き飛んでしまったかのように。

「こんな真冬の寒いときに遊園地なんてごめんね」

「ううん、久しぶりだし楽しみにしてたんだ」

 綾音はふわりと白い息を上げて笑った。

 スカートは膝上丈だが厚手のタイツをはいているし、そのうえ短いソックスもはいているし、あたたかそうなファーのついたコートも着ている。それなりに寒さ対策はしてきたようだ。

「あともうひとりお友達が来るんだよね?」

「ああ、遅刻はしないと思うが」

 そう言いながら翼が腕時計に目を落とした、そのとき——隣で見ていた創真の背中にずしりと何かがのしかかった。そのまま後ろから長い腕がまわってきて抱き込まれる。振り向くと、頬がふれあうほどの至近距離で東條が思わせぶりに目を細めていた。

「おはよう、諫早くん」

「……ああ」

 まさかそうくるとは思わなかったのでギョッとしたが、拒絶するわけにはいかない。そのまま何でもないような顔をして紹介を始める。

「これがそのもうひとりだ。二学期に編入してきた同級生の東條圭吾。こっちはオレらの幼なじみの幸村綾音ちゃん」

「今日はよろしくな」

 後ろから創真を抱いたままで東條が言う。

 ただの同級生にしてはいささか近すぎるその距離感に、綾音はずいぶん面食らっていたが、声をかけられると気を取り直したように笑顔になった。

「こちらこそ。創真くんと仲いいんだね」

「ああ、かわいいから構いたくなるんだよ」

「そうなんだ……」

 冗談なのか本気なのかはかりかねているのだろう。うっすらと笑顔を保ちつつも、どう反応したらいいか戸惑っている様子が見てとれる。その隣では、翼がひそかに笑いをかみ殺してどうにか平静を装った。

「そろそろ行こうか」

「そうだな」

 東條は元気に答え、さっそく創真の肩を抱いて駅構内に向かう。

 やりすぎだ——創真はそんな気持ちをこめて横目でじとりと睨みつけるが、彼はニヤリと笑うだけである。面白がっているのだろう。だからといって綾音のまえで文句を言うわけにもいかず、なすがままになるしかなかった。

 

「へぇ、思ったより立派な遊園地だな」

 入園するなり、東條はぐるりとあたりを見まわして感嘆の声を上げる。

 都内にあると聞いて、もっとせせこましいところを想像していたのだろう。しかし都心ではなく端のほうということもあって敷地は広大で、大人が楽しめる大型アトラクションも多数あるのだ。

「諫早くんは何に乗りたい?」

「オレは何でも……綾音ちゃんは?」

「やっぱりコースターかな」

 彼女は後ろで手を組んでエヘヘと笑う。

 それは創真に向けられたものだが、翼は隣からこっそりと眺めて愛おしげに目を細めていた。そして案内のリーフレットを開いて彼女のまえに差し出すと、園内地図を指さしながら言う。

「だったらこのコースターから行こうか」

「うん」

 綾音は頷き、翼に促されるまま並んで歩き出した。

 その後ろを創真たちがついて歩く。やはりというか東條にしっかりと手をつながれているが、今日一日だけのことと開き直っている。見知らぬひとに好奇の目を向けられるくらいで実害はない。

 ただ、綾音はどういうわけかすっかり受け入れてしまったようだ。もう戸惑うこともなく優しく微笑むだけである。電車の中でも手をつないだり肩を抱いたりしていたので、慣れたのだろうか。

 コースターに着くとそのまま待機列の最後尾に並んだ。季節のせいか寒さのせいか客自体が少ないようで、人気があるはずのコースターにもそれほど並んでいない。待ち時間は十五分となっている。

 やがて自分たちの番になり、一列二席ということもあって当然のように翼と綾音が並んで座った。ふたりで楽しそうに話をしながら安全バーを下ろしている。創真と東條はその後列に乗り込んだ。

「諫早くん、顔がこわばってるけど大丈夫か?」

「まあ……」

 そう答えつつも、すでに縋るようにバーを握っている。

 有名どころのコースターと比べるとたいしたことはないのかもしれないが、創真にとっては十分すぎるくらい凄そうで、この手のものが久しぶりということもあってどうしても身構えてしまう。

 ガタン——。

 ゆっくりと発車し、すぐにガタガタと急角度で引きずり上げられていく。そして頂上に到達したかと思うとふわっと降下し——そこからはあまり覚えていない。ただただ放り出されないようしがみつくばかりで、楽しむ余裕は微塵もなかった。

「そんなに苦手なら乗らなきゃよかったのに」

「ん……」

 苦笑する東條に支えられながら創真はよろよろと歩く。それほどひどくはないものの若干気分が悪いし、必死に踏ん張っていたせいか太腿やふくらはぎも痛い。こころなしか腕まで痛い気がする。

 先に降りた翼と綾音は、フォトサービスのコーナーで笑いながら写真を見ていた。乗車中に撮影された写真を購入できるのだ。見てみると、ふたりとも車両の先頭で思いきり楽しそうにはしゃいでいた。

 その後ろに座っていた東條と創真もしっかりと写っている。東條は遠くに目を向けて晴れやかな顔をしていたが、創真はがっちりとバーを握り、わずかにうつむいてギュッと目をつむっていた。

「ははっ、この諫早くんかわいいな」

「バカにして……」

「すみませーん、これ、ひとつください」

「は?!」

 ギョッとする創真を尻目に、東條は本当にフォトサービスのスタッフに代金を支払ってしまった。しばらく待たされて簡単なデザイン台紙のついた写真を受け取ると、折れ曲がらないようバッグにしまう。

「おまえ、そんなの買ってどうするんだ」

「今日の記念だって」

 彼につられたのか、いつのまにか翼と綾音も購入していた。

 みんなが一枚におさまっているので確かに記念にはなるだろう。ただ、自分の情けない姿がみんなの手元に残るのかと思うと、創真としては微妙な心境にならざるを得なかった。

 

 その後、とりあえずほかのコースター系は後回しにして、二人乗りサイクル、回転系、スイング系などのアトラクションをまわった。目的を忘れたわけではないが、東條が気遣ってくれたからかけっこう普通に楽しんでしまった。

 

「私、観覧車に乗りたいな」

 園内のカジュアルな洋食レストランで食事をしながら、次はどのアトラクションに行こうかという話になるとすぐに、綾音がそう声を上げた。しかし東條はどこか冷ややかに対抗する。

「俺はゴーカートがいい。諫早くんは?」

「え、まあオレはどっちでも構わないけど」

「じゃあ観覧車にしよう」

 そうなるとは思ったが、翼が清々しいくらいの独断で勝手に決めてしまった。創真はスプーンでオムライスをすくったまま苦笑し、東條もあきれたように大きく溜息をついていたが、反対はしなかった。

 

「諫早くん、高いところは大丈夫なのか?」

「高いだけなら大丈夫だ」

 食事を終えると、さっそくみんなで観覧車のほうへ向かった。

 コースターのことがあったからか東條が心配してくれたが、観覧車はわりと平気だ。真下さえ見なければ景色を楽しむくらいの余裕はある。ここのゴンドラは足元が透けていないようなので大丈夫だろう。

「何名様ですか?」

「二名です」

 待機列に並んで自分たちの番がくると、なぜか東條が間髪を入れずそう答えて、創真の手を引いた。

「えっ?」

 みんなで一緒に乗るものとばかり思っていた創真は困惑を露わにするが、東條は気付いているのかいないのか手を引いたまま振り返ることなく進み、そのままゴンドラに乗り込んでしまった。

 残された翼と綾音はきょとんとしていたが、すぐに笑い合い、スタッフに案内されて後続のゴンドラに乗った。向かい合わせに座って、外の景色を眺めながら楽しそうに会話をはずませている。

 そう、か——。

 東條が何のためにふたりだけでゴンドラに乗ったのか、ようやく理解した。本来は創真が率先してそうしなければならなかったのだ。自分が楽しむためではなく翼のために来ているのだから。

「諫早くん、ゴンドラばっかり見てないで景色を楽しもうぜ」

「ああ……」

 そう言われて素直に外の景色を眺めてみたものの気はそぞろだ。どうしても後ろのゴンドラに乗っているふたりが気になってしまう。東條はうっすらと微笑を浮かべて自分の隣をぽんと叩いた。

「こっちに来いよ」

 後ろのゴンドラが視界に入らないようにという配慮だろう。

 それでも気になると思うが、正面に見えている現状よりはいいのかもしれない。席を移動してみると、わざわざ振り返らなければ見えないということで、こころなしか気持ちが楽になったような気がした。

「いい景色だな。空気が澄んでるから遠くまで見える」

「ん……」

 ガラス窓の向こうには、コースターのレール、木々の緑、そして遠くの高層ビル群までもが見えていた。高度が上がるにつれてだんだんとその景色は広がっていく。晴れていたらもっときれいだったに違いない。

 そういえば、と東條の横顔をちらりと窺う。

 その表情は穏やかに見えるが胸中はわからない。まだ翼のことをふっきれず複雑な気持ちでいるのか、翼の幸せを心から願っているのか——気にはなるが、協力を頼んでおきながら無神経な詮索はできなかった。

 ただ、創真としては彼がいてくれてよかったと心から思っている。いまも、ただ黙って肩を並べているだけで、同じ景色を見ているだけで、ほんのすこし救われたような気持ちになっていた。

 

「そろそろイルミネーションを見に行こうか」

 その後、ゴーカートをはじめとするいくつかのアトラクションをまわったあと、翼が薄暮の空を仰いでそう切り出した。ここでは冬期だけ豪華なイルミネーションを展開しているのだ。

「そうだな。オレは飲み物を買うから先に行っててくれ」

「俺も諫早くんについてくよ」

 創真がポケットに手をつっこんだままそっけなく告げると、当然のように東條も追従した。おまけに見せつけるように創真の肩に手をまわして顔を寄せる。何もここまでしなくてもと思いながら創真もなすがままになっていた。

「わかった……じゃあ、またあとでな」

 翼が何食わぬ様子でそう応じると、綾音は疑う素振りもなくニコニコと微笑んで小さく手を振り、すぐにふたりで一緒にイルミネーションのほうへ歩き出した。

 

「うまくいったな」

 翼たちを見送ったあと東條がぽつりとそう言い、創真はこくりと頷いた。

 それきり会話はなくなり、ふたりとも無言のまま近くのカフェに足を向けた。注文窓口とテラス席しかないところだが、ささやかなイルミネーションで飾り付けられていて、雰囲気は悪くない。

「諫早くんは何飲む?」

「あったかいカフェオレ」

「俺もそうしようかな」

 そう言うと、東條はカフェオレを二つ注文してお金を払ってしまった。創真があわてて財布を出そうとすると手で制される。

「俺のおごりだ」

「おごられる理由がない」

「振りまわしたお詫び」

「…………」

 振りまわしたというのは手をつないだり肩を抱いたりしたことだろうか。こちらが協力を頼んだのにお詫びされるのもおかしな話だが、断るのも面倒なので、カフェオレ一杯くらいならと素直におごられることにした。

「お待たせしました」

 店員から蓋付き紙カップのカフェオレをそれぞれ受け取り、テラス席に座る。

 まわりは閑散としているが、これだけ冷え込んでいるうえ夜の帳まで降りれば無理もない。そろそろイルミネーションのショーが始まる時間なので、そちらに集まっているというのもあるだろう。

 ふっ——。

 熱々のカフェオレをひとくち飲むと無意識に白い息をついた。じんわりと中からあたたまっていくのを感じる。ずっと寒風にさらされていたせいか、思った以上に体が冷えていたようだ。

「しっかし、まさか翼の好きな子があんなんだったなんてなぁ」

 東條はそう言い、飲んでいたカフェオレを小さなガーデンテーブルに置いた。

 綾音のことは文化祭の執事喫茶でチラッと見ていたらしいが、きちんと会ったのは今日が初めてだった。その口ぶりからすると、あまり好意的な感情を持てなかったのかもしれない。

「それにしてもちょっと無神経だよな。気持ちに区切りをつけるために告白するのはいいとして、何も諫早くんに協力を頼むことはないだろう。しかも諫早くんの目の前であんなバカみたいににデレデレしてさ」

「いや、オレと向き合うために終わらせるんだし……」

 確かに協力を頼まれたときは少なからず心がざわついた。しかし、本気で創真と向き合おうとしてくれていることはうれしかったし、それに関わらせてもらえることはありがたかった。ちなみにデレデレしているのはいつものことなのでいまさらだ。

「だけど、もしこれで両思いになったらどうする?」

「別に……オレにはとやかく言う権利なんてないからな。オレと向き合うっていうのもあくまで翼の意思であって、約束じゃないし。せめてこれまでどおり幼なじみでいられたらとは思うけど」

 創真は紙カップに両手を添えてうつむいたまま、淡々と語った。

 東條には話せないが、綾音が翼に恋愛感情を持っていないことは聞いているし、翼が綾音とつきあうつもりがないこともわかっている。ただ、創真とどうなるかはまだ誰にもわからない。

 だから、これは自戒と決意だ。たとえこれから先どんなことがあったとしても、もう二度と翼から離れたりしない。どんな形であってもそばにいる。おまえなんかいらないと本人に拒絶されないかぎりは——。

「諫早くん」

 思い耽っているところへ、ふいに真剣な声で呼びかけられてドキリとする。

 顔を上げると、東條はガーデンテーブルに肘をついて前屈みになり、まっすぐ覗き込むように創真を見つめていた。そのまま視線をそらすことなく静かに言葉を継ぐ。

「俺でよければいつでも話を聞くからな。翼にも内緒にするし」

「ん……ああ……」

 心配してくれているのだろうが、あまりにも真面目な顔で言われて戸惑ってしまった。ごまかすようにカフェオレを口に運ぶ。そのときふと彼のまなざしが優しくなったことには、気付かないふりをした。

 

 

 


 
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